ラーメン
:
翌日、兎衣はビルの下で、マフラーの端を握りながら誠の姿を待っていた。午前診療が終わる頃合いを見計らって待ち伏せをしているのだ。
「誠先生、お昼一緒に食べませんか?」
満面の笑顔で声を弾ませた。偶然を装った計画犯である。
ビルのガラス扉を押して出てきた誠は、見慣れた姿に一瞬たじろぎ、すぐに深い溜め息を吐いた。
「お前、俺がストーカーだって警察に突き出したら負けるぞ」
兎衣は誠の昼休憩の時間を突き止め、お昼、暇な日はビルの外で待ち伏せして一緒にお昼ごはんを食べるようになっていた。ストーカーと言われても反論できない状況である。けれど。
「ハナの時、困ってそうな人がいたら一人にするな、〝見ていてくれる人〟になれって言ってたじゃないですか」
「俺のこと言ったんじゃねえよ」
誠はぶっきらぼうに返して歩き出す。兎衣はそれを見て、小走りで誠の隣に追いついた。
二人が入ったのは、すぐ近くにある小さなラーメン店だ。古びた暖簾に、白字で店名が書かれている、地元民に愛されるラーメン屋である。
中に入ると、店内には濃厚な味噌と香ばしい焦がしニンニクの匂いがした。壁にはマッキーペンで書いたような、手書きのメニューが貼られている。前もって注文の会計を済ませ、券を渡して着席する。
曇ったガラス越しに、高く積もった雪が見える。兎衣たちはカウンターに並んで座った。そのうち、湯気を立てた味噌ラーメンが運ばれてくる。兎衣はスープを一口啜った後、目を細めた。
「ん~っ! おいしい! 寒いとしみますねえ!」
「声でか……」
誠は呆れ顔だったが、口元はおかしそうに、かすかに緩んでいる。
そのことに満足しつつ、兎衣は再び麺を啜った後に本題に入った。
「そういえば、今度魂啓会の代表の、前の愛人の息子さんに会ってくるんですけど」
箸を持っていた誠の手がぴたりと止まる。沈黙が走り、ラーメンの湯気だけが二人の間を漂った。
「……俺、関わるなって言ったよな?」
じとりと睨まれる。怒っているわけではない。けれどその目には、嗜めるような色が混じっている。
兎衣は明るく返した。
「話聞いて回るだけなら、タダじゃないですか」
誠は溜め息をつき、ラーメンを見つめながら箸を置いた。
「お前、本当に何かに巻き込まれたらどうするんだ」
「巻き込まれたら、その時は、誠先生が助けてください」
悪びれもなく、兎衣はにこりと笑った。
誠は苦い顔をしながら、再び箸を手に取る。
「……バカが」
「褒め言葉だと受け取っておきます」
外の雪は相変わらず静かに降っていたが、暖房の効いた店内は暖かかった。
昼食を終え、兎衣と誠は並んでおとなりケアのあるビルの前まで戻ってきた。冷たい風が吹き抜け、兎衣は思わずマフラーをぎゅっと首元に引き寄せる。
「ご馳走様でした~! また一緒に食べましょうね!」
と、兎衣が無邪気に笑った瞬間だった。
がしゅっがしゅっがしゅっがしゅっ。靴音が、雪を勢いよく踏みながらこちらに向かってきた。
兎衣が顔を上げる。そこにいたのは、あの雪まつり以来、久しぶりに見る鷹中だった。
「えっ……鷹中さん?」
思わず呼びかけたが、彼はまるで兎衣の存在など見えていないかのように、まっすぐに誠の元へと歩み寄る。その表情は険しく、いつもの皮肉っぽい調子は完全に消え失せていた。
正面から向き合った鷹中は、外の冷たい空気を吸い込むと、沈んだ声で言った。
「――検査してくれ。今すぐに結果がほしい。お前のところなら十五分で出るんだろ」
誠の眉がぴくりと動く。
「妊婦中の梅毒検査で、俺の嫁が引っかかった。原因は俺だ」
その言葉は、空気を凍らせるのに十分だった。兎衣は目を見開く。
降りしきる雪の中、二人は一瞬言葉を失って立ち尽くした。
「お前……浮気してたのか?」
意外そうな誠の声に、鷹中は一瞬だけ視線を逸らした。だがすぐに、苛立ちを滲ませた声で返す。
「……俺の科の先生たちが、キャバクラとかに若手連れて行くの好きな古い人間なの、知ってるだろ。その付き合いだよ。そこで一回、ベロンベロンに酔った時、キャバ嬢とキスしたことは確かにある」
「……キスだけか? 一回の?」
「ああ。一回だけだ。……何だよ、疑ってるのか」
返ってくる言葉に、誠はしばし沈黙した。そして、何も言わずにビルの自動ドアを押す。
兎衣は気まずさに目を泳がせながら、小さく会釈をして帰ろうとした。
だがその時、鷹中の手が伸びてきて、兎衣の二の腕をぐっと掴んだ。
「君も付き合え」
「えっ!? な、なんでですか!?」
兎衣は目を丸くして言う。すると鷹中は目を逸らしながら、小さく、しかし低い声で言い返してきた。
「誠と二人で何を話せばいいんだよ」
──この男、気まずさ回避のためにこちらを巻き込もうとしている!
兎衣は内心で叫んだが、結局強引に引っ張られる形でビルの中へと入っていくことになった。
エレベーターの中、鷹中は明らかに青い顔をしている。無理もない。自分が原因で、妊娠中の妻に梅毒がうつったのかもしれないのだ。今頃奥さんは大激怒だろう。
狭い箱の中で静かに床を見つめる鷹中の横顔に、兎衣はそっと視線を落とした。自業自得、だとしても、あまりに重い現実だった。




