誠の過去 二
「怖くて逃げようとしたんだけど、だめでね、その後いっくんとね、会えなくなったんだあ」
いっくん。その名前に、誠の血の気が一気に引いた。
妹が札幌に出てきたきっかけ。のぼせ上がるように好きになったという男。とっくの昔にそんな奴とは縁を切ったものだと思っていた。誠がいなくなって、また関わるようになったのかもしれない。
嫌な予感がする。
「いっくんのお友達ね、女の人を殴るのが好きな変態さんが多いんだあ。その人達に気に入られたら、あたし、運気がよくなって病気も治るって言われてね、がんばったの。でもなんか悪いことしちゃったのか、いっくん、もう来なくなっちゃった」
「……そいつらは、お前に病院に行けって言わなかったのか?」
「病院? そうだ、おにいちゃん、おにいちゃんはお医者さんなんだよね。それって国に騙されてるよ。お医者さんってね、患者さんを薬漬けにしてお金を巻き上げるビジネスなんだって。いっくんが言ってたよ。だからお医者さんのところに行っちゃだめなんだって。だからあたし、病院行くのやめたの。ほら、ワクチンだってよくないってよく言うじゃない? あたしちっちゃい時にワクチンいっぱい打ってるから、血が汚れてるんだって。いっくんと、いっくんの団体がしてる特別な治療だけしてれば、浄化されて治るんだって。でもいっくん、来なくなっちゃった」
誠は無言で立ち尽くした。
怒りでも恐怖でもない、もっと冷たい感情が、内側からじわじわと身体を締めつけていく。
こんなことを言う妹ではなかった。札幌に来て通うようになった精神科の先生とは仲が良くて、気に入っていて、きちんと通っていたはずだ。なのに。
誠は、ふらふらと足を引きずるようにして部屋の中心へと歩み寄った。足元のごみ袋をまたぎ、空になったペットボトルを蹴って、ぐしゃ、と床に散った食べ物の破片を踏む。鼻をつく異臭の中、誠の目に留まったのは、テーブルの上――使い終えた皿の下敷きになっていた、染みだらけの紙片だった。
皿をそっと持ち上げる。乾いて固まったソースが裏にこびりつき、ぬめりが指にまとわりつく。誠は顔をしかめながら、その紙をつまみ上げた。
表紙には、曲線的で装飾過多なフォント。
『あなたの魂を解き放つ 真実の霊導』
黒地に金の箔押し。神秘を装うそのデザインに、吐き気がこみ上げる。
誠はすぐに妹を病院に連れて行った。医師は説明をしながら、険しい表情で誠のことを見た。
「第三期を越えて、既に末期症状が見られます。治療はしますが、完全に治る見込みはありません。何故、ここまで放置されたんですか?」
責めるような言葉が誠の胸をえぐった。
言葉を返せなかった。自分なら、こんな状態の患者が来たら、ネグレクトを疑う。いや、そんなつもりがなかったというだけで、状況的には実際にそうだ。
忙しかったなど言い訳にならない。医者のくせに、身内の病変一つ見抜けなかった。
三時間後、両親が旭川から駆けつけてきた。
妹の状態を聞いた母親の顔色は見る見るうちに変わっていった。最初は驚愕、その次に困惑、その後、怒りと悲しみが一気に溢れ出した。
「どうして!?」
母親の手が、音を立てて誠の頬を打った。
思わず目を見開き、黙ってその場に立ち尽くす。
母が誠に手を上げたのは、これが初めてのことだった。
「どうしてこんなことになるまで放っておいたのよ! あなた、あの子のこと俺が預かるって言ったわよね!? あの子ももう成人してるし、誠と一緒に住んでるって言うから、私、安心して……っ」
言葉が詰まり、母親は唇を震わせながら声を振り絞った。
「どうしてあの子のことを見ててあげなかったの!――人殺し!!」
誠の心臓が凍りついた。
責めの言葉を、最も聞きたくなかった相手の口から浴びせられたからだ。
「お前らだって、あいつが子どものくせに出会い系使ってるの放置してただろ!」
誠の声が思わず荒んだ。喉が焼けつくように痛い。自分でも止められない勢いだった。
母親は目を見開き、顔を強張らせる。
「それは、言っても聞かないからよ! 携帯を取り上げたら暴れ回るからっ……! 相手が変な男じゃないかはずっと確認してた! それとこれとは違うでしょう!」
誠の中に渦巻く罪悪感と後悔は、出口を求めて母親にぶつかった。
「感染から十年以上経ってないとこうはならない! 大元の感染は実家にいた時だ!」
「はぁ!? お母さんたちのせいだって言うの!? そもそもあんたが中学の時勉強にだけ集中できていたのは、お母さんがあの子の面倒を見てたからなのに! お母さんの苦労も知らないで! 障害児の育児がどれだけ大変だと思ってるのよ! 親になったこともないくせに、偉そうな口きかないで!」
母親の声が悲鳴のように跳ね返る。
母親と、なだめようとする父親との、最低な言い争いが続いた。何でこんな時に、責任のなすりつけ合いをしているのだろうと頭の片隅で思った。惨めだった。
冬が深まる頃、妹は死んだ。
夜の札幌駅。吹き付ける風の中に、雪がしんしんと舞っていた。
誠は冷たいベンチに腰を下ろしたまま動けずにいた。病院を後にしてから数時間。雪が積もっていく感覚が分かるほど長く、そこにいた。
コートの襟に雪が染み込んで肩が重い。けれど、立ち上がる気力はもう残っていなかった。
もう、全てに対してやる気が起きなかった。このまま雪となって消えてしまいたかった。
明日には、またあの過疎地に戻らなければいけない。山道を越え、雪に閉ざされた集落に医療を届ける日々が待っている。
誰かの命を背負う日々だ。
(身内が大変な時に傍にいられない。助けられた命を救えなかった。俺は何をやっているんだろう)
握った拳がかすかに震えていた。悔しさ、情けなさ、そしてどうしようもない後悔が全身を巡る。
(他人のために尽くし続けて、大切な人を見る暇も失うような生き方を、俺はもうしたくない。何が正しいのかもう分からない。他人のために身を削り続けることは、みんなが言うほど美徳なのか?)
それは、誠が医師になって初めて、自分の心の声を正面から聞いた瞬間だった。
逃げ場を探しながらゆっくりと立ち上がり、ふと、改札へ向かう途中の柱に張られた広告が目に入る。
《すすきのに新規開院》
《性病専門クリニック・どこよりも気軽に相談しやすいクリニックを目指して》
《今春オープン予定 医師・スタッフ募集中》
妹が、どこかに相談できていれば。
いっくん以外に、話を聞いてくれる誰かが傍にいたなら。あんな風に壊れなかったのだろうか。
「……馬鹿だな、俺……。鷹中が知ったら絶対怒る」
でも、もしも誰かにとっての相談できる場所を自分で作れるのなら。
命を守る形は一つじゃない。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
発信履歴の上の方にある番号を選び、躊躇わず通話ボタンを押した。
コール音が一回、二回。
「もしもし? 堺です。俺、病院辞めます」
その時の誠の声は、解放されたようにはっきりとしていた。




