誠の過去
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誠の妹には、軽度の障害があった。発話に問題はなくとも、小さな頃から他の子供よりも様々なことへの理解が遅く、学校の勉強も苦手だった。家族の言うことには素直だったが、それと同じくらい、外の誰かに優しくされると、すぐに心を傾けてしまうところがあった。
妹が出会い系サイトに夢中になったのは、まだ本人が幼い子供の頃だった。携帯越しに、可愛いね、だの、会ってみたい、だのと言ってくる男たちに、妹はどんどん惹かれていった。
妹は、物事が危険かそうでないかの判断をするのが不得意だった。そのため両親は心配した。まだ未成年なのだから出会い系をやめろ、と何度言っても聞かないので携帯を取り上げたが、すると妹は中古ショップから携帯端末を万引きして男とやり取りを続けていた。妹がアプリをやめることはなかった。両親も面倒事を起こされたくなくて黙認するようになった。
ある日、妹は、ネットで知り合ったホストと付き合っている、と誇らしげに言った。札幌にいるその男とは、ほとんどメッセージと電話だけの関係だったようだが、妹はそのホストを信じて疑わなかった。そして、「彼氏と一緒に住む」と言って、突如実家を出ていってしまった。
札幌のホストとの関係は長く続かなかったようだった。けれど、勝手に家を出た手前実家の両親のところに戻るのは気まずかったようで、妹は札幌で一人暮らしをしていた誠の元にたずねてきた。
ある日突然、誠のマンションの前に立っていた。薄手のコートにスーツケースひとつ。目は真っ赤に腫れていて、それでも口元には無理に笑みを浮かべていた。
「おにいちゃん、ここ、しばらく泊めてくれない?」と、そう言った。
誠は高校進学で実家を出たので、それ以降はあまり会う機会のない妹だった。それでも痛々しいその姿を見て放っておけず、誠は妹のことを自分の部屋に住ませることにした。
研修医時代は、地域研修で田舎へ行く期間以外は妹と同じ部屋で過ごした。
北海道の離島、奥尻島での研修から帰宅した誠が、久しぶりにマンションの自室の扉を開けると、やや心配になるような匂いが漂ってきた。
「……ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら声をかける。奥のキッチンから妹が顔を出した。
部屋は誠が出る前よりも随分と散らかっていたが、それでも、帰ってきて人がいるという状況は、温かいものだった。
「おにいちゃん、おかえり~! ごはんできたよ」
「え」
「えって何!? 何で嫌そうな反応するの~!? も~!」
エプロンをしているが、裾にはルウがべっとりついていて、顔にも小さな何かが飛び散った跡がある。誠がリビングに入ると、テーブルには大きな鍋と、お世辞にも綺麗とは言いがたい盛りつけのカレーが二皿並んでいた。
ご飯の上に乗っているのは、焦げ目のついた白身が固まっていない目玉焼き。なぜか箸が添えてある。
「……カレーに箸?」
「あっ、スプーン……えっと……どこだっけ……」
妹は少し慌てた様子でキッチンに戻り、引き出しを一つ一つ開けながらスプーンを探す。置いた場所を忘れてしまったのか、うろうろとしばらく彷徨った後、ようやくスプーンを見つけて誠の前に差し出す。そして、にぱっと笑った。
「今日はカレー作ってみたんだよ~。おにいちゃんが久しぶりに帰ってきた日だから!」
「……そうか」
料理が苦手なりに、誠の帰りを歓迎してくれようとしているのが伝わってくる。
スプーンですくって一口食べる。ジャガイモは硬かったし、ルウは溶けきっていない。具材も少ない。
けれど、妹の努力が詰まっているのが分かる。
「……うん、まあ……カレーだな。うまいよ、ありがとう」
「えっへん!」
妹は得意げに胸を張る。
小さなテレビでは明るいバラエティ番組が流れていて、妹は「この人ヘンな顔~」と笑いながら、ぎこちない手つきで自分のカレーを食べ始める。誠は疲れた体をソファに預けつつ、静かにその姿を見つめた。
妹は一つ料理するのに六時間くらいかかる。なのに、働いている誠のために何かしようと思って作ってくれたのだろう。
疲れた心が癒やされる心地がした。
そんな温かな日々はあっという間に過ぎていった。
二年間の研修を終えた後、誠は長期間北海道の僻地に飛ばされることになった。冬は雪に閉ざされる町だった。過疎と高齢化の進んだ地域で、診察に追われる毎日だった。
札幌に帰ることは滅多になかった。同じ道内とはいえ、すぐに帰れるような距離ではない。激務で疲労ばかりが積み重なり、妹のことを気にする余裕もなくなっていった。両親には妹が家にいることを伝えていた。両親も、誠がいるなら大丈夫だと安心しきっていた。両親は誠のことを信頼していた。頼れる兄だと思い込んでいた。
久しぶりに札幌の部屋のドアを開けた瞬間、誠は違和感を覚えた。リビングのソファに横たわっていた妹の顔を見て、胸がざわつく。
妹の頬には、明らかに異常なふくらみがあった。柔らかそうな腫れではなかった。皮膚の下で何かが異様に盛り上がっているような、しこりにも似た硬質な隆起。まるで、異物がそこに根を張っているかのようだった。
左右非対称になった顔。目元のラインが引きつって見えるほど腫れは明瞭で、生々しい。腫瘍というには浅く、膿のような兆しもない。ただ、肉がゆっくりと変質しているかのような、不気味な存在感だけがあった。
――ゴム腫。梅毒の症状だ。何でだ? と、目を疑った。無治療の状態で相当時間が経ってないとこんなことにはならない。
誠は困惑した。
しかしよく考えればすぐに分かった。妹が子供の頃から出会い系をしていたことは、両親から聞かされていた。そのどこかで感染したのだろう。気付かれぬまま放置され、いつの間にか病が妹の体を蝕んでいた。
妹は一人で知らない病院に行けない。知らない症状が出たなら、誰かが付いていってやらないと駄目だった。本人が異変に気付いていても、病院の行き方が分からなければ意味がない。誰かが導いてやらないと駄目だった。
だから支援学級の先生は、妹が卒業する時に、「一人暮らしは難しいですよ」と言ったのだ。
――傍にいれば、気付けたはずだ。肌の変化、体調の不調。医者としてでなくとも、兄として少しでも目を向けていれば。
だが誠は、気付かなかった。
それが取り返しのつかない過ちになるとも知らずに。
誠ははっと部屋の中に視線を巡らせた。
異常なほどに荒れていた。床には脱ぎ捨てられた男物の服、テーブルには食べかけのコンビニ弁当、キッチンには山積みの食器。どれも一人の生活では説明がつかない量だった。
「……誰かここに住んでたのか?」
誠が低く問いかけると、ソファに横たわる妹が、虚ろな目で天井を見つめながらぽつりと口を開いた。
「半年くらい前ね、いっぱい、男の人がこの部屋に来てたの」
その言葉に、誠の背筋が凍る。




