千香子の帰宅
「お母さん、私、今ルームシェアしてるから。この部屋には他にも住んでる人がいるの。だから、その子の許可も取りたくて……その、泊まりに来る時は、前もって連絡してほしいな」
母は一瞬目を丸くしたかと思うと、驚いたように声を上げた。
「ええっ? 誰かと住んでるの? ママ、そんなの聞いてない」
「ごめん、その方が家賃折半にできるから……」
母はさっと表情を切り替え、メモ帳を取り出して真剣な声音で問いかけてくる。
「じゃあ、その子の生年月日と、お名前、漢字フルネームで教えてくれる?」
「……え? 何で?」
「ママの占い師さんに見てもらうのよお、兎衣とその子との相性。よくない結果が出たら、一緒に住むのやめた方がいいかもしれないじゃない? ママ、兎衣のことを心配して言ってるのよ?」
母の手首には、何本もの怪しげなブレスレットが揺れていた。
また、増えた。
水晶、パワーストーン、見慣れない色の数珠。占い師の勧めで〝浄化〟のために買い集めたものだという。兎衣の稼いだお金は、きっと今もこんなところに溶けている。
兎衣が言いづらそうにしていることに気付いたのか、母は不服そうな顔をした。
「名前と生年月日くらいいいじゃない。あと、部屋の西側もちょっと気になるのよねぇ。写真撮ってもいい? 風水師さんに見てもらうから」
部屋の西側は千香子の生活ゾーンだ。勝手に見せるわけにはいかない。
兎衣は咄嗟に母の進行方向に立って行く手を阻む。
「ごっごめん、こっちは無理」
切羽詰まったように伝えると、母は少しむくれた顔になった。
「心配してるだけなのに。ママ、兎衣のこと大事だから……」
母のブレスレット同士のぶつかる音が、うるさく感じる。
母は家具の配置の確認のためか忙しなく部屋を見渡し、ふと開いたままの兎衣のノートパソコンの画面に目を落とす。その瞬間、母の表情が強張った。
「……兎衣、これは何?」
声が鋭くなった。画面には、性被害事件のニュース記事が表示されたままになっていた。
「まさか、何かあったの……? 兎衣、あんた、誰かに何かされたの!?」
母が急に早口になる。母は兎衣の前に立ちはだかるように身を乗り出してきた。
「言って。何があったの!? 変な人と付き合ってない? よくないものを引き寄せたんじゃないでしょうね? ああ、やっぱりそういう気がしてたのよ……!」
そう言いながら、鞄をがさがさと乱暴に漁り、深紅の和紙に包まれた平たい袋を取り出す。袋の表面には金色の文字で、『浄塩・特級』とある。
「これ、八万円したのよ。特別な塩だから、玄関と水場に置いて。あと、嫌な感じがする時はちょっとだけ舐めるの。お風呂にも一つまみ入れるのよ。そうすれば――」
――八万円。塩が。
兎衣の口角が引きつった。塩で八万円なら、母が身に付けているブレスレットは何十万円なのだろう。
母が借金をしなくて済むようにとお金を稼いでいるのに、これではいくら稼いでも足りない。
「大丈夫、ちゃんと浄化すれば、害のある人は近付いてこなくなるから」
話が通じない。
確かにレイプ事件の被害者になりかけたことは事実だが、兎衣には母にそれを打ち明ける気力がなかった。どうせ頓珍漢なことを言われて、望む言葉が得られないことに傷付くだけだと、容易に想像できる。
誰にも言い出せなかったサクラもこのような気持ちだったのだろうかと思った。
(ママが悪いわけじゃない)
兎衣は躊躇いがちに塩の袋を受け取りながら、自分にそう言い聞かせた。
元はと言えば、不倫をした父が悪いのだ。離婚後急激な環境の変化に付いていけなかった母には、何か縋るもの、信仰するものが必要だった。それが占いや風水、怪しげな遠隔ヒーリングや前世鑑定だったというだけのこと。
兎衣は母の精神の安定を、不安の解消を、少しばかり高いお金で買っている。
それで母の心が少しでも楽になるなら安いものだ。
「やだな~っママ、違うよ。私が何かあったわけじゃなくて、友達が過去に遭った事件について調べてただけ。心配しすぎだって~」
兎衣は笑顔を作って、努めて明るく言う。
母はまだ疑わしげに兎衣の顔を覗き込んでいる。しかしその直後、玄関のドアがカチャリと開き、明るい声が響いた。
「兎衣、ただいまー」
千香子だった。予定よりも帰宅が早い。
「聞いてよ、今日なんか仕事ないって言って帰されて……って、誰?」
リビングに入ってきた千香子は、部屋に見慣れない人物がいるのに気付いてすぐに立ち止まる。
兎衣が小さな声で「母親……」と言うと、ぱっと顔を明るくし、兎衣の母に向かってぺこりと頭を下げた。
「えっ、兎衣のお母様ですか? はじめまして。あたし、兎衣さんの大学の友達の角野千香子っていいます。一緒に暮らさせてもらってます」
その愛想のいい振る舞いに、母は一瞬きょとんとし、次いで照れたように微笑み返した。
「あらまあ……これがルームシェアしてるっていう……。まあ、可愛いお友達ねえ」
「お腹空いてませんか? もしよかったら、何か作りますよ」
千香子はスーパーで買ってきたであろう野菜の入った袋を部屋の隅に置きながら、さっさとキッチンへ向かってしまう。
兎衣はそっと千香子の背中に近付き、「急にごめんね……」と小さな声で囁いた。
すると千香子は、まな板に手をかけたまま、肩越しに振り返って全く気にしていない様子で笑った。
「え、全然いいわよ? 兎衣のご家族に会えて嬉しいし。あたし、客人来るの好きだしね」
兎衣に対する気遣いで、本音ではないかもしれないが、兎衣は心底ほっとした。




