紙一重の差
熱い涙が兎衣の頬を伝う。どんなに強がっても本当は怖かったのだ。
兎衣は唇を噛み締めるようにして小さく頷いた。
千香子が部屋に飛び込んできて兎衣を抱き締めた。
入口に突っ立っているホテルマンは驚いた顔をしたまま、素っ裸の兎衣とサクラを交互に見て、目のやり場に困ったかのように視線を泳がせた。
サクラがベッドの上から下りてゆっくりと後退る。誠はまるで逃げ道を塞ぐように、一歩、また一歩と間合いを詰めていく。
「……何のつもり?」
サクラは肩を竦め、わざとらしく首を傾げた。
「あなたたち、だぁれ? 急に部屋に入ってきて。わたしたち、合意の上で愛し合っていただけよ。個人の時間を邪魔されるのは好きではないのだけれど。――ねぇ? ばにぃちゃん」
その綺麗な声で呼ばれた途端、兎衣の体がびくんと大袈裟に震えた。逆らってはいけない。肯定しなければいけない。さもないと、また痛いことをされるかもしれない――と、焦りのような感情が生じる。
しかし。
「何が合意の上だ。ベッドの上の血と、そいつの怯えた顔は何なんだよ」
兎衣がサクラの声に従う前に、誠が低い声で反論した。
「性体験の楽しみ方に口挟むなんて、野暮な男」
サクラは愉しげに答える。
サクラの口元には余裕が見えた。この状況で、まだ逃げ切れる自信があるようだった。
「お前が襲った被害者の一人が、過去にお前のDNAを採取してる」
が、誠の言葉を耳にした途端、その瞳が今度こそわずかに揺れた。
兎衣ははっとした。被害者の一人というのは、おそらくハナだ。ハナは事件後、ネットで被害について調べ、シャワーを浴びずに膣から綿棒でDNAを採取したと言っていた。
「お前のDNA型はとっくに警察のデータベースに保存されてる。性的暴行事件の被害者は泣き寝入りするしかないと思ったか?」
誠は冷ややかな目でサクラを見つめたまま、さらに言葉を重ねる。
「ここはホテルだ。廊下にも、ロビーにも防犯カメラがある。お前がこいつを連れて一緒にこの部屋に入っていった映像も残ってるはずだ」
沈黙が落ちる。
その沈黙の中、サクラの喉が微かに鳴った。
そしてその悲しげな視線は、ゆっくりと兎衣の方に向けられる。
「ばにぃちゃん、あなたって本当に、神様に愛されてるのね」
兎衣は何も返すことができなかった。
すんでのところで助けが来た兎衣と、どれだけ助けを求めても最後まで助けが来なかったサクラ。何かが一つ違えば、誠たちがもう少し遅ければ、兎衣もサクラの側に立っていたかもしれない。運命の紙一重の差で兎衣は救われた。しかしサクラは救われず、ずっと地獄の中にいる。
サクラは不意に脱いでいたコートを片手で掴み取ったかと思えば、部屋の入口付近に駆け寄り、立ち竦んでいたホテルスタッフの腕を強引に掴んだ。その手元にはナイフがあった。
サクラはホテルマンの頚動脈付近にその刃先を当てる。
「防犯カメラがあるのは知ってるわ。だから変装して入ったし、カメラの位置も把握してるから顔は映ってない。ついでに言うと、わたしは本名でこのホテルを利用してない。残念だったわね。逃げ切らせてもらうわ」
人質だ。千香子が息を呑む。
周囲の空気が凍る中、裸に近い姿をバスタオルでかろうじて覆いながらも、兎衣はゆっくりと立ち上がった。
「サ……サクラさん」
その声に、サクラの肩がぴくりと揺れる。
「もうやめませんか。これ以上あなたが傷つく必要なんてないです。幸せな誰かを同じ目に遭わせることでしか自分を保てないのは、きっとすごく辛いですよね」
サクラには、兎衣のように〝助けてくれる人〟も、ハナのように〝見ていてくれる人〟も、きっといなかったのだろう。
クラミジアは薬で治る病気だ。彼女はそれを放置して不妊になっている。事件後に性感染症の可能性を誰も伝えなかったのか、あるいは伝わっていたが、外に出られないほどに傷付いていたのか。いずれにせよサクラはずっと一人ぼっちだったのかもしれない。傷付いた自分を助けてくれる人がいるのも、見ていてくれる人がいるのもある種の幸運で――それがなかった可能性は、誰にだってある。
「神様なんていないって私は思ってます。私を助けたのは神様じゃない。人が私を助けました。私は運がよかっただけ。だから私はあなたを責めません。私だって一歩間違えたらあなたになってたから」
サクラは口元を引き結び何も言わなかった。しかし、その目の奥がほんのわずか揺らいだのを感じた。
「あなたは誰かに自分の傷を分かってほしかっただけなんじゃないですか? なのにあなたは自分からまた独りになろうとしてる。人を自分と同じ場所まで引きずり下ろしても、残るのはもっと深い孤独だけだと思います」
兎衣は痛みを伴う血まみれの指を握り締め、一歩サクラに近づいた。
手の平から、血液が床へと垂れていく。
「もし今、あなたがその手を離してくれたら……私、あなたのことを独りにしない。ねえサクラさん、罪をきちんと償って、サクラさんが話せる場所、泣ける場所、一緒に探しませんか。私にもできるなら、私だってサクラさんのことを見ているから。サクラさんにハナの話をした時、サクラさん、ハナのことを羨ましがってましたよね。あの時の私の言葉は、サクラさんが欲しかったものとは違ったんですよね。私、〝私が見てるよ〟って言えば、よかったんだ……」
しん、と空気が静まった。
サクラの手から、ゆっくりと力が抜けた。握っていたホテルマンの腕が離れ、彼はその場に崩れるように座り込む。サクラの肩が小刻みに震え、彼女は立っていられないようにその場にしゃがみ込んだ。
その場で泣きじゃくるサクラの背を、ただ見つめ続けることしかできなかった。




