ずっと誰かに
恐怖で心がじわじわと壊れていくような感覚を覚えた。
抵抗できない。何をされるか分からない。動こうとすればサクラの鋭い視線が絡みつき、それだけで呼吸が浅くなってしまう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ怖いです、もう嫌です……!」
兎衣は、絞り出すように言葉を紡いだ。全身は震え、視界は涙で滲んでいた。ホテルのシーツの上に指から流れた血が滲んでいく。
兎衣のその様子を見下ろすサクラは、うっとりと高揚した笑みを浮かべた。その瞳孔は散大している。
「ねえ、知ってる? 人間って壊れる時、そんな風にすごく綺麗な泣き声を出すの」
その言葉に、兎衣の背筋が寒気に包まれる。
「わたしもね、怖いです、助けて助けてって言ったのよ。ごめんなさいって懇願したの。でも男はやめてくれなかった。わたしだって泣き叫んだわ。でも相手はわたしが抵抗するたびにわたしを殴りつけてくるから、結局最後まで耐えるしかなかったの。ばにぃちゃん、あなたもそうなるのよ」
「う、ひ、いやだ、いやだっ」
〝嫌〟という単語が気に入らなかったのか、サクラは笑顔のまま兎衣の頬を打って黙らせた。
「そういえば、あなた水商売してるくせに体は大事にしてるんですってね? いいわね、その年齢まで処女でいられて。わたし、ばにぃちゃんの隣にいるの、実は少し恥ずかしかったの。あなたは明るくて健気で純粋で、まだ世の中に希望を持っていて美しい夢がある。汚くて、この世界に希望なんて見出だせないわたしとは正反対。ばにぃちゃん、わたしと同じところまで堕ちてくればいいのにって、ずっと思ってた」
サクラがゆっくりと近付いてくる。何度も見惚れたその美しい顔は、いつの間にか兎衣の目に、悪魔のように映るようになっていた。
「女同士だと、コンドームを使わなくても違和感ないでしょう。恋人関係になれば相手が知らない間にうつせるのよね。わたしはこれまでそうしてきた。でもそれじゃ、全ての女の子をわたしと同じ目に遭わせることはできないから、もっと無理やり広めることにしたの。本当はね、自分の分泌物を保存して手軽に使いたかったのだけれど、でもクラミジアって細胞内に寄生するものだから、粘膜接触以外では感染しづらいのよね。だからこうするしかなかったの。サクラっていうのは偽名だし、わたしが働いてるのはclub夢妃じゃない。あのアカウントだって偽装で作ったものよ。それっぽいフォロワーも全部、わたしのアカウント」
サクラが兎衣の横に膝をつき、ぎしりとベッドが軋む音がする。
「それにすら気付かない警戒心のなさが、あなたがいかに幸せに行きてきたかを示しているようで、余計に気に入らない」
吐き捨てるように言ったサクラの声を遠く感じた。
「助け――」
兎衣は余力を振り絞って叫ぼうとした。しかし言葉を最後まで紡げなかった。
いや、諦めてしまったのだ。
助けを求めたところでどうせ助けなど来ない。
なら求めない方が傷付かない。諦めてしまった方が楽だ。
走馬灯のように蘇るのは、両親が離婚した高校三年生の夏。
友達と受験合格祈願で神社へ行く時、兎衣はずっと、受験合格ではなく両親が元に戻るようにと神様にお願いしていた。どこへ行ってもそればかりお願いした。絵馬にも何度も書いて、お守りを持ち歩いた。
だけどその願いは叶わなかった。簡素なメッセージを最後に、家を出た父は兎衣のことをブロックした。
街で父が知らない女性と知らない小さな子供と一緒に歩いているのを見た時も、何かに縋らずには精神を保てないほどに壊れていく母の頼りない背中を見た時も、兎衣は言い知れぬ喪失感に襲われ、いっそのこと神様に何も願わなければよかったと思った。
望んだって叶わないなら、最初から希望を持たずに、諦めてしまった方が楽だった。
きっとこれだってそうなんだろう。
「やっと大人しくなった」
サクラの声は優しくすらあるのに、兎衣の背筋には冷たいものが這い登る。
耐えていればいい。心を閉ざして、何をされても動じず、終わるまで我慢すればいいだけのこと。
「わたしから全てを奪ったのは世界のくせに、世界はわたしに女としての役割を求めるの。その年齢でどうして男のパートナーがいないのか、子供がいないのかってね。わたしって、普通じゃないらしいわ。普通じゃないって、すごく孤独なことなのよ」
サクラがぽつりと、悲しげに言った。
嗚呼、この人もきっと空っぽなのだ。
「ばにぃちゃんも、わたしと同じところまで堕ちてきて」
目を瞑って涙を堪えた――次の瞬間、頭上から激しい音が響き、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
「兎!!」
切羽詰まったようなその声に、兎衣の体がびくりと震える。
咄嗟に上体を起こして顔を開けると、入口には誠と千香子、そしてホテルマンらしき人物が立っていた。誠の表情には怒りと安堵が入り混じり、千香子の瞳には明らかに泣きはらした跡が残っていた。
「誠先生……? 千、香子」
自分の名前を呼ばれたことが信じられず、兎衣は掠れた声で呟いた。
これは一体何だろう。
現実から逃避したい気持ちが見せている幻覚かもしれない。
だって現実がこんなにうまくいくはずがない。
こんなに都合よく助けが来てくれるわけがない。
だって神様は救ってくれなかった。
祈り続けた兎衣のことを見捨てた。
だからこれはきっと、神様が起こした奇跡じゃない。
誠は一直線にベッドへと駆け寄り、サクラと兎衣の間に割って入る。
「もう大丈夫だ。後は俺たちが何とかする」
――それは兎衣が、両親が離婚してからずっと一人で頑張り続けていた兎衣が、ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。




