同じ
バー・ピトンの木の扉を押して中に入る。照明は控えめで、カウンターの向こうにリキュールボトルが整然と並んでいた。しっとりとした音楽が流れる中、大人の男女が肩を寄せ合っているのが目に入る。
兎衣はその雰囲気に緊張してごくりと唾を飲み込んだ。何だか大人の世界である。
一直線に待ち合わせをしているサクラの元へ歩いた。
「遅れてすみません、サクラさん。ここ場所分からなくて、ちょっと迷っちゃって……」
兎衣が言うと、既に一番奥のカウンター席で待っていたサクラが、グラスを傾けながら小さく微笑んだ。
「いいのよ。そんなに待ってないわ」
「えーん、サクラさん優しい。今日はいっぱい飲みましょーね!」
紗季のことも解決したし、お酒解禁である。
兎衣は、早速バーテンダーに大好きなフルーツカクテルを注文する。頼んだ品はすぐに出てきた。ライムの香りが爽やかに鼻をくすぐる。まずは乾杯し、今日初めての酒を飲み始めた。
その後も、酒好きな兎衣の勢いは止まらなかった。カシスオレンジ、マティーニ、サイドカー……グラスが空になるたびにバーテンダーが次の一杯を手際よく差し出してくる。
「カクテルっていくらでも飲めますねぇ!……あれっ!? サクラさん、飲んでなくない!? ウォウウォ」
「……ううん、わたしは遠慮しとくわ。あまり一気に飲むとすぐダウンしちゃうから……。ばにぃちゃんはお酒、強いのね」
サクラは苦笑しながらも、注文が増えていく兎衣に付き合った。
深夜に近づくほどに兎衣の頬は赤らんでいく。
カウンターの向こうでは、バーテンダーが「いつでも水に切り替えますよ」と気遣ってくれる。しかし兎衣は「まだまだいけますよぉ!」と大きな声で拒否した。
その様子を見てサクラがくすりと笑う。
夜は静かに更けていった。
「そういえばぁ……最近、友達に縁切られたんですよぉ……」
兎衣は、カウンターに肘をつき、グラスを揺らしながら、酔った勢いでぽつりと漏らした。
サクラはグラスの縁に指を添えたまま、兎衣の方に視線だけを向ける。そして、「へえ、どんな子?」と平坦な声で聞いてくる。
兎衣はサクラに、随分前に撮ったハナとのツーショットを見せた。
「ハナって名前で……同じお店で働いてた子で……なんか、急に『関わらないで』って言われちゃってぇ……それ以降、ブロックされたまま、連絡つかなくなったんですよ。酷くないですかぁ~? 私は友達だって思ってたのになあ」
その瞬間だった。
「ふ、ふふ、あは、あははは……」
突然、サクラが弾けるように笑い出した。バーの静けさを破るその高い笑い声に、少し離れた位置に座っていた客が、こちらをわずかに振り向くのが分かった。目の前にいるバーテンダーが、手を動かしながら無言でこちらを見つめている。
笑いはしばらく止まらなかった。サクラはグラスをカウンターに置き、手で口元を押さえながらも笑い続ける。
「その子、わたしのことどう言ってた?」
何だか、いつものサクラと違う。
酔いが少し引いたような気がした。
「……え?」
「わたしのこと。何か言ってた?」
「……サクラさん、知ってるんですか? ハナのこと」
サクラは口元を拭ってから、兎衣を見た。とても、おかしそうに。
「そうね。とっても知ってる。大丈夫よ。ばにぃちゃんが嫌われたわけじゃないわ。あの子、わたしのこと、よっぽど怖かったんでしょう。可哀想にね――」
その発言に引っかかるものを感じ、すぐに言葉を返せなかった。
気付けば、グラスの中の氷が小さく音を立てて溶けていた。
「サク……」
「ねえ、ばにぃちゃん」
サクラが兎衣の声を遮るように切り出す。
「わたしがどうして、幸せそうな子供と、その家族が許せないか、分かる?」
グラスの縁を再びゆっくりと指でなぞりながら、サクラはぽつりと呟く。まるで独り言のように。
「わたし、不妊なの」
兎衣は、グラスを口に運びかけていた手を止める。サクラの横顔を見た。サクラは変わらず、何を考えているのかよく分からない表情で続ける。
「昔レイプされて、クラミジアをうつされてね。症状がないから気付かないし、レイプされたなんて誰にも相談できずに引きこもってるうちに、そのまま進行しちゃったみたい。病院に行った時にはもう手遅れだった」
重くて暗い言葉がサクラの口から滑り落ちていく。店内の華やかな装飾と天井のランプが、どこか遠い世界のように思えた。
酔っているのだろうか――と兎衣は思った。サクラはいつもよりも饒舌だ。
「……本当、神様なんていないわよねぇ」
サクラは笑った。それは楽しげな笑い方ではなかった。
「わたしだって昔はあなたみたいに、〝頼りになるイケメンの旦那さんがいて、でも仕事が忙しいから出張多くてなかなか会えなくて、子供と二人で楽しく暮らしてて、晩ごはん一緒に食べて、寝る前に絵本読んであげたりして……で、ある日突然旦那さんが予告なく帰ってきて、花束持ってサプライズされたい〟って思ってたのよ? 夢見る女の子だったの。だけどそれはもう叶わない夢」
兎衣の過去の発言を、一言一句違わずなぞっていくサクラ。
心の中に仕舞っていたはずの空想を他人の声でなぞられて、ぞっとするような違和感を覚えた。
「酸っぱい葡萄よ。本当は子供が嫌いだなんて思ってない。でも、そう思わないとやっていけなかったの。欲しくても得られなかったもの、今後も得られない幸福、わたしはそれが妬ましくてたまらない」
サクラの声は無機質で、既に全てを諦めてしまった人の響きをしていた。
そしてその時、兎衣の瞼が不意に重くなる。急激な眠気――さっきまでの酔いの心地よさとはまったく違う、深く沈むような感覚に、体が傾ぎ始める。
視界が滲み、サクラのシルエットが歪んでいく。グラスを握る手に力が入らない。
その隣で、サクラはゆっくりとグラスを揺らしながら、静かに、静かに笑っていた。
「――――だからわたし、幸せな夢を見てる女の子はみんな、わたしと同じ目に遭わせるって決めたの」




