お互い様
最初のメッセージが来た時にもっと早く返信しておけばよかったと少し後悔していると、横から誠が呟いた。
「紗季さん、遅いな」
「……ですねえ」
兎衣が紗季を探して目線を彷徨わせているうちに、ちょうど地下から紗季が上がってきた。
紗季は走ってきたのか、少し息を切らせている。白のブラウスに淡いベージュのスカート、髪は低めの位置で一つに結んでいた。この日を楽しみにしてくれていたのか、普段はしないというメイクもしてくれている。
「ごめん、二人とも。寒い中待たせちゃって」
「いえいえ、ちょっとだけですし! 早速行きましょ~!」
申し訳なさそうな紗季に明るく返事し、兎衣は立ち上がった。
西の空が深い茜色から藍色へと移ろい、イルミネーションの光が点灯し始めている。
さっぽろテレビ塔のシルエットを背に、兎衣たちは積もった雪を踏みしめながら、『ミュンヘン・クリスマス市 in Sapporo』と書かれた看板の向こう、会場へと進んだ。
公園の一角に立ち並ぶ木製の屋台の屋根には、小さな電球がまるで星屑のようにきらめいている。
屋台では、ホットワインや鴨肉のソーセージなどの食べ物の他に、小樽のキャンドルやマトリョーシカなどグッズも販売されていた。その隣には木製の小屋が連なり、手作りのクリスマス雑貨やドイツの装飾品も並んでいる。ツリーを模したオーナメントや、赤と緑のリボンが色鮮やかなクリスマス飾りが目を引いた。
「まずは――ワイン、ですね!」
「おい」
ドヤ顔でワインを売っている屋台を指差すと、べしっと後ろから誠にチョップを入れられた。
「酒は飲まねえって約束だろ」
「一杯くらいいいじゃないですか! ちょっとだけですよ」
「お前のちょっとは信用ならん」
「え、兎衣ちゃん禁酒してるの……?」
あの兎衣ちゃんが? と言いたげな目を紗季から向けられ、自分ってどれだけ酒飲みだと思われているんだろう、と少しショックだった。
しかし、確かに少し飲めばエスカレートする可能性があるため、酒への欲をぐっと堪えてソーセージだけを頼む。
ひゅおおと冷たい風が吹いた。身震いしながらソーセージを頬張る。
紗季はオリジナルマグカップとセットで買えるというグリューワインを、誠はホットショコラを買って兎衣の隣に並ぶ。
テーブルは各所に置いてあるものの立ち食いスタイルなので、少し食べづらかった。
口の周りをウインナーにかかったソースでベトベトにしながらも、兎衣はふと疑問に思ったことを紗季に問いかける。
「そういえば今日って、何で遅れたんですか? いつも紗季さんの方が早くいることが多いから、珍しいなって」
「息子が友達とゲーセンに遊びに行くって言うから、送ってたら遅れちゃって。迎えは、旦那が行くから大丈夫そうなんだけど、行きはあたしが行けって言われて。あーあ、休み調整できる仕事なんだから、もっと息子の面倒見てくれてもいいのに」
忌々しげに語る紗季の顔が恐ろしく、兎衣はごくりと唾を飲み込む。
「……紗季さんのご家庭って、夫婦仲悪かったりします?」
兎衣の質問に、紗季はおかしそうに笑った。その笑顔のまま、話題が家族の話に移っていく。
「うちはそうね~。仲が悪いってほどじゃないんだけど、夫がちょっと手のかかるタイプで」
「……と、言いますと?」
「新婚の頃から浮気ばかりなの。何で結婚したのか、自分でも時々分からなくなるくらい」
その話しぶりがあまりにさらっとしていて、兎衣は一瞬自分の耳を疑った。
(細川さん、全然隠せてないじゃん!?)
ウインナーを包んでいた紙を折る兎衣の手元がぎこちなくなる。
浮気隠蔽は徹底していると得意げな顔をしていた細川の面が頭に浮かんだ。何が徹底だ。筒抜けすぎる。
「……そ、そうだったんですね~!」
兎衣が言葉を探すように返すと、紗季は手を止め、少し笑って肩をすくめた。
「まあでも、男ってそんなもんだからね。兎衣ちゃんはまだ若いから、そういう経験ないかもだけど。あたしの体感だと、一度も浮気しない人の方が少なかった。だから、男にはもうなーんにも期待してない」
兎衣は、その会話の中で、一ついいことを思いついた。
誠に目配せする。誠も頷いた。
(誘うなら、今だ!)
紗季が細川の浮気を把握しているなら話はもっと早い。
慎重に言葉を選びながら、ついに切り出す。
「紗季さん、性病の検査ってしたことありますか?」
唐突に思えるその質問に、紗季は一瞬ワインのカップを口に運ぶ手を止めた。
兎衣は慌てて誤魔化すように言う。
「や、あの、実は大学の友達が最近、彼氏の浮気でもらっちゃってて! ないとは思うんですけど、可能性としてはあるかなって。旦那さんが浮気してるなら、一応定期的に検査しておいた方が安心だと思うんです」
兎衣はなるべく声のトーンを落とし、周囲に聞かれないように気を配る。言いながら、内心は少し緊張していた。遠回しすぎても伝わらないし、踏み込みすぎれば不快に思われる。その境界線を探るようなぎこちない会話だった。
しかし、紗季は拍子抜けするほどあっさりとした口調で答えた。
「ああ、それは大丈夫! 何かあったら困るから、定期的に検査してるよ」
「……え?」
兎衣は思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまった。
もっと警戒されるか、あるいは驚かれるか、何かしら感情の揺れがあると思っていたのに。あまりに平然とした返答に一瞬言葉を失った。おそるおそる探るように問いかける。
「えっと……病院、もう決まったとこ行ってるってことですか?」
「実はあたしも、相手は一人じゃないからね」
「………………え?」
兎衣は目を見開く。思わず隣の誠に視線を送るが、誠もちょっと面食らったような顔をしていた。
そんな兎衣たちの様子に気づいたのか、紗季はふふ、と唇の端を上げて笑った。
「まあ、お互い様ってやつだよね。マッチョCLUBのりくマッスル、実はあたしの彼氏なんだ」
自分が間に入ってどうにかしようとしていた構図が、急にガラガラと崩れ出す。
紗季の瞳は穏やかで、すっかり達観しているようだった。
細川家に持ち込まれたクラミジアは、果たしてどちらのものだったのか。
――男も怖いが、女も怖い。
冬の市場は、兎衣がそう思い知った場となった。




