ハナ
――――目を覚ますと、路上に倒れていた。
夜空と、高いビルの先端が見える。ひゅおっと冷たい風が吹き抜け、あまりの寒さに兎衣は飛び上がった。
隣には、スマホ片手に呆れたようにこちらを見ている誠がいる。
「な――何があったんですか!?」
「お前が飲みすぎてベロンベロンになって、閉店時刻になったからビルから追い出されたんだよ」
「紗季さんは!?」
「もう帰った」
「ええ!? 何も進展せず終わったってことですか!?」
「お前も紗季さんも、途中から酔っ払いだして話にならなかったからな」
兎衣はそれを聞いて硬直し、頭を抱えて蹲った。
「……私が大酒飲みなばかりに……」
「本当にな。三枚くらいマッチョのTシャツ破ってたぞ」
「ええ!? 私がですか!? 記憶にないんですけど!」
どうやら自分は、頼まないと決めていたオプションを、酔っ払って頼んでしまったらしい。
頭から水を浴びせられたように思考が冷えていく。兎衣は焦って鞄から財布を取り出した。札は残りいくらだろう。母のための十万円も、まだ揃っていないのに。
しかし、兎衣の予想とは異なり、財布の中のお金は全く減っていなかった。
「タクシー呼ぶところだったんだが、その様子じゃ歩けそうだな」
誠が持っていたスマホをコートのポケットに仕舞いながら言う。
兎衣は、おそるおそる誠を見つめる。
「お……お金って、どうなったんですか」
「お前の友達の、はるとマッスルが建て替えてた」
畠山が……? と、兎衣は申し訳なく思いながら、スマホを開いた。畠山から、『金困ってんなら返すの来月でもいいから!』というメッセージが届いている。
何だか事情を知っているような言い方だ。今日、卓で母のことを話してしまったのだろうか。畠山も、兎衣とは少し違うが、祖母の入院費のために夜職をしている身である。同じ家族のために働いている身の上同士ということで、同情してくれたのかもしれない。
兎衣は自分が情けなく、がっくりと項垂れた。
誠と一緒に、マンションへと続く道を歩き出す。
金曜日の夜だからか、もう終電の時刻も終わったというのにいつもより人が多い。大きなスクランブル交差点を過ぎ、朝方まで営業しているラーメン屋の行列を避けて歩き続ける。
――その時だった。ふと視界の隅に見知った姿が映り、兎衣は歩みを止めた。
ショートヘアの、ガリガリと表現できるほどに細身な女性。ストリート系のゆるいニットにスキニージーンズというカジュアルな服装で、腕を組むようにして男と並んで歩いていた。ちらりと見える笑顔には、どこか無防備な甘さがあった。
「ハナ……?」
兎衣がぽつりと呟く。
ガールズバーで一緒に働いているキャストの一人、ハナだった。隣の男は、三十代くらいの長身の男。
男の方も見たことがある。Onlyの常連客だ。でも彼は、元々別の子を指名していたはずだ。
彼はハナの方に少し身を寄せながら、何か楽しそうに話しているようだった。ハナも彼の肩に軽くもたれかかるようにして笑っている。
兎衣は方向転換し、引き寄せられるように二人の方へと歩いていった。「おい」と後ろから誠が不可解そうな声を漏らして付いてくるが、説明をしている暇はなかった。
ハナたちは曲がり角を折れて、小さなネオンが瞬く通りへと入っていく。
ラブホ街だ。
慣れたような足取りで歩くハナと男は、やがて一つの建物の前で立ち止まった。白と金の外観。名前だけは可愛らしいラブホテルの中へと、二人は消えていった。
「知り合いか?」
後ろから誠が聞いてくる。
「……同じ店の子なんです。最近様子がおかしいみたいで」
兎衣はそこまで言って、どう説明していいか分からず口ごもる。
ちらりと誠の顔を横目で見上げると、彼は続きを促すように黙っていた。兎衣は言葉を選びながら、ゆっくりと口にする。
「あの子、先月男の人に襲われたらしいんですけど、休んだの一日だけで、すぐに普通に出勤してきたんです。今は、他の子を推してるお客さんとかにも手を出してるみたいで。もしかしたら枕もしてるかもって店長が疑いかけてて……」
さっきのは、間違いなくハナだ。
あの事件以降、ハナは他のキャストから、何となく腫れ物のように扱われている。誰もハナにあの日のことを聞こうとはしない。
兎衣も気を遣って、事件のことには触れずに普段通りに接していた。ハナの方は意外にもいつもと変わった様子はなく、笑顔で客と対峙していた。でもそれを見ていてずっと――拭いきれない違和感はあった。
誠が不意に聞いてくる。
「お前、それ、どう思う?」
「……一応、客を奪い合うような文化ないんですよ、うちは。ノルマもないんで、そこまで競争激しくないんです。ハナも前まで他のキャストのお客さんとは一線引いてたんで、急に変わったっていうか……」
ハナは枕営業をするほど、お金に困っているんだろうか。兎衣に想像できることはそれくらいだ。
しかし、誠は険しい表情で別の可能性を指摘した。
「被害に遭ったことの反動で性に奔放になったり、一般的な性行為から逸脱したりする人間はいる」
「ええっ?……そんなことあるんですか?」
「自分が襲われたことは大したことじゃないと確かめたいがために、あえて同じような危険に接近して、何でもないと自分に言い聞かせる。被害者によくある行動だ」
誠の言葉を聞いて、兎衣はしばらく黙り込んだ。
「……止めた方がいいんでしょうか。もしかしたら、自分で危険に突っ込んでいってる状態かもしれないってことですもんね」
「お前が止めたところで効果は薄いだろ」
あっさりと却下され、兎衣は項垂れた。しかし、誠は続ける。
「……でも、見ている人間がいるってだけでも、人は変わる可能性がある」
「見てる人……」
「あいつにとってお前が〝見ていてくれる人〟になれたら、お前の存在はきっと大きな意味を持つ」




