15年後
「とーと、起きて! ねえ、起きてってば!」
頬をペチペチと叩く小さな手で目が覚めた。見上げれば、妹の凛花が顔を覗き込んでいる。今年で五歳になる。灯母さんの血を引いたのか、栗色の髪に丸い瞳がそっくりだ。
「んー…もう朝か」
「とーと、お腹すいた! ご飯!」
「はいはい、わかったよ」
布団を蹴り飛ばして起き上がる。十五年間住み慣れたこのクランハウスは、相変わらず賑やかだ。廊下からは既に皿の音が聞こえてくる。
階段を降りると、キッチンは戦場だった。
「あんた何やってんのよ! 卵焼き焦げてる!」
「日向こそ、味噌汁の味が濃すぎ!」
「うるさいわね、静香には負けないわよ!」
日向母さんと静香母さんが朝から張り合っている。その横で綾乃母さんが平然とご飯をよそう。さすがは元A級探索者。この程度の喧騒では動じない。
「おはよう、綾斗」
「おはよう、綾乃母さん」
「今日は登録日ね。装備の準備は?」
「昨日全部チェックした。革鎧とショートソード。アイテムボックスの中に予備も入れてある」
「偉い。父さん譲りの慎重さね」
綾乃母さんが微笑む。その横で日向母さんが割り込んできた。
「ちょっと綾斗! あんた、その調子で大丈夫? 探索者って危険なのよ?」
「大丈夫だよ、日向母さん。十五年も母さんたちの話聞いて育ったんだ」
「十五年聞いてても、頭でわかってるのと実際は違うの!」
「はいはい、わかってます」
「はいはいじゃない!」
静香母さんがコーヒーを持ってきて、日向母さんの肩を叩いた。
「日向ちゃん、綾斗くんももう十五歳なんだから、あんまり子供扱いしないの」
「子供扱いしてないわよ! 心配してるだけ!」
「同じことよ」
静香母さんがウィンクすると、日向母さんは「むっ」と唇を尖らせた。
朝食を終えて玄関で靴を履いていると、背後から声がかかった。
「綾斗」
父さんだった。背はそれほど高くない。戦闘力だって母さんたちより少ないはずだ。でも、この人の背中には何十年分の経験と、百人以上の仲間を守り抜いてきた重みがある。
「父さん」
「準備はできたか?」
「うん。大丈夫」
「なら、行こうか」
父さんは俺の頭を一度だけポンと撫でて、先に歩き出した。
クランハウスを出ると、庭にいた巴母さんが大声を上げた。
「おーい綾斗! 今日から探索者か! 頑張れよ!」
「ありがとう、巴母さん!」
「何かあったらすぐ言うんだぞ! 私が迎えに行ってやるからな!」
「巴、あんたが行ったらかえって騒ぎになるでしょ」
美月母さんが呆れたようにハルバードを取り上げる。巴母さんは「えー」と不満げな声を上げた。
門をくぐると外は春の陽射しが柔らかい。探索者協会までは歩いて十分。この道を何度も見学で歩いたけれど、今日は違う。今日は俺が探索者になるための道だ。
「父さん」
「緊張してるのか?」
「うん」
正直に言うと、父さんはふっと笑った。
「俺が探索者になりたての頃は、バッファーが役立たずだって下に見られていてな、パーティを組んでくれる人はいなかったんだ」
「そうなんだ」
「恥ずかしい話だ。でも、あそこで灯が声をかけてくれなかったら、今の俺はない」
父さんの目が遠くを見た。十五年前、何も持たなかった若者の目線で世界を見ていた頃の話。
協会の建物が見えてきた。あの喧騒。あちこちで声が飛び交い、掲示板の前には人が群がっている。十五年間何度も来た場所だけど、今日の空気は何倍も濃く感じる。
「じゃあ、俺はここで」
父さんが入り口の前で足を止めた。
「え? 一緒に来てくれないの?」
「探索者は自分の足で歩くもんだ。それに、俺が横にいたら、お前が本来もらうはずの刺激が半減する」
父さんの目が優しかった。
「頑張れ」
「…うん」
一人で重い扉を開けた。
中は予想通り賑やかだった。掲示板の前にはパーティ募集の紙がびっしり。
変わったのは、募集条件に「レベル解放済み」という文字が当たり前に書かれていることくらいだ。
「新規登録はあちらの窓口ですよ!」
受付の女性が笑顔で案内してくれる。
「あ、はい。初めまして。白夜綾斗です」
「白夜? あら、もしかして白夜優斗様の?」
「はい、息子です」
受付嬢の目が丸くなった。
「まあ! あのS級探索者の息子さん!?」
「はは、そうです」
周囲の視線が一斉に集まる。正直、この反応には慣れてる。親の七光りだと嫌がる人もいる。でも俺は、この名前を恥じないために強くなりたいんだ。
「ではこちらの書類に記入をお願いします。スキルの確認もいたしますので、この水晶に手を触れてください」
書類に名前と生年月日を書き、水晶に手を置く。淡い光が溢れた。
「スキルは…あら、二つありますね。《アイテムボックス》と…《百花繚乱》です」
受付嬢が目を瞬かせた。
「父さんと同じようなスキルなんです」
「そうでしたか! さすがは白夜様の息子さん。それにしても《百花繚乱》どんな効果が?」
「効果は父さんとだいたい同じ…だと思います。まだ使ったことはないんですけど」
「登録が済めば実践できますね。まずは基本講習から始まりますので、あちらの教室へ」
教室に向かう途中、誰かが肩にぶつかってきた。
「あ、ごめんなさい」
茶色の髪をした同い年くらいの少女だ。背は俺より少し低く、日に焼けた顔にはどこか人懐っこい笑みが張り付いている。
「新規登録? 私も。名前は桐生萌香」
「白夜綾斗」
「白夜って、あの白夜? S級探索者の?」
「うん」
「ふうん、すごいね、私の親はC級探索者だから、桁が違うわ」
萌香は屈託なく笑った。七光りを嫌がるどころか、純粋に感心している。こういうやつは好きだ。
「スキル何持ってる?」
「《強化》。身体能力を上げるやつ。あと《気配察知》」
「《強化》か。前衛向きだな」
「そっちは?」
「《アイテムボックス》と《百花繚乱》」
「《百花繚乱》?知らないスキルね」
「…父さんと同じで、女性のステータスを上げる事が出来るみたいだ」
「羨ましすぎる!」
萌香が大げさに頭を抱える。その反応が可笑しくて、思わず笑いが漏れた。
「でもさ、俺自身の戦闘力は普通なんだ。強化できるのは仲間だけで」
「ああ、そうか。白夜優斗様って自分は戦わずに仲間を強化するタイプだもんな。テレビで見たことある」
「父さんは戦わないわけじゃない。むしろ一番危険な場所に立つんだ。一番弱いから、一番狙われる。それでも指揮を執り続ける」
俺の言葉に、萌香は少し真面目な顔になった。
「…かっこいいな、それ。私の父さん前衛で突っ込むだけだからな」
「父さんは特別だよ」
「綾斗も特別になるんだろ? 息子だし」
「なりたいな。でもまずは一人で立たなきゃ」
教室に入ると、十人ほどの新規探索者がいた。年齢は十五から十八くらい。皆どこか緊張した顔をしている。
講師が入ってきた。三十代くらいの女性で、腰には短剣を差している。
「初めまして。講師を務める志摩です。今日から皆さんは探索者としての一歩を踏み出します。ですが、勘違いしないでください。探索者は遊びではありません。死ぬ時は一瞬です。まずはそれを理解してください」
志摩講師の言葉に、教室が静まり返った。
母さんたちの顔が浮かぶ。十五年間、何度も聞いた戦場の話。死線を越えてきた人たちの声。
俺は今、彼らが歩いた道の入り口に立っている。
「講習が終わったら、初心者向けダンジョンの攻略許可が出ます。パーティを組むことを強く推奨します。単独攻略はD級以上になってから」
講習が終わって教室を出ると、萌香が追いかけてきた。
「なあ綾斗、パーティ組まないか? 私は前衛、綾斗がバッファーならちょうどいいし」
「いいよ。俺も仲間を探してた」
「マジか! よし、決まりな! あとはヒーラーがいれば完璧だな」
「探してみよう」
掲示板の方に目をやると、一人の少女が一人で立っていた。銀色の長い髪。カグヤ母さんに少し似た雰囲気がある。
「あの子、ヒーラーっぽいな」
「声かけてみる?」
萌香が軽い足取りで近づいていく。俺はその背中を見ながら、ふと思った。
十五年前、父さんもこうやって誰かが声をかけてくれるのを待っていたのかもしれない。そして灯母さんが声をかけてくれた。
「ねえ、探索者の方ですよね? パーティ組んでくれませんか?」
少女が振り返る。真っ直ぐな瞳だった。何の迷いもない、純粋な光。
俺は父さんの言葉を思い出す。
『誰かがきっと声をかけてくれる。待ってろ』
その通りだった。
俺の物語は、今、始まろうとしている。




