3 狼の恩返し
突如、ぼふんとすごい音がして濛々と煙が上がる。私は長いため息をついて俯く。さっきより床が近くにあって、モフモフの自分の前足が見える。
まだ夜が明けないうちに、無理矢理人間の姿に戻ったことの反動だろう。私の足元には見事に脱げた服やブーツが散らばっていた。
「ごめんね。驚かせてしまった?」
驚いたわけじゃない。なんだか気が抜けてしまっただけ。
どさくさに紛れて、またモフろうとする彼の手を容赦無く叩き落として私は毛布に頭から包まった。
あまりにもアルファルドが平然としているものだから、自分の感覚に自信がなくなってきたけれど、今私プロポーズされたよね?
「……機嫌なおして? ね?」
彼は毛布の上から背中を撫でるけど、私がうんともすんとも言わないので、そのまましばらく撫でた後、会話を諦めたのか気配が遠ざかっていった。
――目が覚めたらここから脱出して、父さんに抗議と確認の手紙を書く。いや、まずは服を着るところからだ。……獣人ってほんと面倒な生き物だ。
そんな事を考えているうちに、私はゆるゆると眠りに落ちていった。
次に目を覚ました時、部屋の中に彼は居なかった。
彼の代わりに居たのは、ポニーぐらいの大きさの黒い毛の塊。それは、私が起きたことを察知してモゾモゾと動いて、顔をこちらに向けた。
はたと目が合って、私は目を瞬く。それは大きな黒い狼だった。のそりと立ち上がると威圧感が増して更に大きく感じた。真紅の両眼で私をジッと見て喉を鳴らす。
いったい私の何を観察して納得したのかはわからないけど、狼はくるりと背を向けて、部屋のドアを器用に前足で開けて出て行った。雪に埋もれていた私を発見してくれたのは、あの子だろうか?
赤い目をしていた……あれは……。
「……魔物?」
呟いた声に、自分が寝ている間に人間の姿に戻っていたことを知る。私は慌てて服を着て身支度を整えた。大きな狼が戻って来たのは、最後にブーツを履いている時だった。
「うん? 何、どうしたの?」
私の目の前にタオルの入った籠を置いて、鼻先で洗面所を示す。顔を洗えって?
「ふふっ……わかった。君はお利口さんだな」
タオルを一枚借りて顔を洗い口を濯ぐと、今度はスカートを噛んでグイグイと何処かに引っ張って行こうとする。
「なんだなんだ? 何処へ行くの?」
先程、狼が出て行ったドアの前にお座りして嗄れた声で一声吠えた。私は首を傾げつつ、そのドアを開ける。
ドアの先には短い渡り廊下があって、その先に温室と思われる透明な建物の扉があった。大きな狼は私の背中に頭をつけて温室に押し込もうとグイグイ押してくる。
「わかった! わかったってば」
ガラス戸を開けると、暖かさと共にふわりと甘く重厚な花の香りに包まれた。狼は私を温室まで連れて来ると、仕事完了とばかりに、私を置いて温室の中に走り去って行った。
……連れて来ておいて置き去りなんて酷い奴だなぁ。そもそもここ勝手に入っていいの?
私は辺りを見回して、思わず「ふわー」と感嘆の声を上げた。
温室の内部は薔薇園だった。
だいたい色別に並んでいて、私が今いる入り口付近には黄色の薔薇が何種類か咲いている。奥に進めば違う色の薔薇も見れるのかもしれない。
彼はこの中にいるのだろうか? もしかして、この温室の持ち主? お暇するにも、挨拶ぐらいはしておかないと。
私は意を決して薔薇園の中に踏み出した。
甘い薔薇の香りが幾重にも重なって、なんだかふわふわした気分になる。獣人は人間より鼻が利くので、私も強いにおいが苦手なのだが、こういった花の香りはとても落ち着く。
手入れの行き届いた花々が入り組んだ小道に元気に迫り出して、細い道を更に狭めていた。その狭さもなんだか居心地が良い。
ふと見上げれば、ガラスの天井に雪がちらちらと舞い落ちるのが見えた。魔法で強化されたガラスの天井には雪が積もらず、空から落ちて来た雪は皆、温室の上空で蒸発して消える。見た目よりも丈夫な建物らしい。
薔薇園の中程まで進むと、八角形の大理石の東屋が見えた。中を覗くと、クッションが置かれたベンチとテーブルの上にはティーセット。そして何冊も積み上がった植物図鑑に、付箋が沢山貼られ使い込まれた分厚いノート。持ち主は不在のようだった。
どうしたものか……ここで誰か来るのを待たせてもらおうか?
ベンチに腰掛けて、ぼんやりと東屋の外の薔薇の木を見つめていると、どこからかパチンパチンと音がする。ようやく人の気配を感じた私は、ガゼボを出て音の方向へと走った。そして、探していた人物を見つける。
「セラ? おはよう。具合はどう?」
「おはよう、アルファルド。……もう大丈夫。ありがとう」
初めて、声に出して彼の名前を呼んだ気がする。彼も驚いたのか、鮮やかな新緑色の目がパッと明るく輝いた。
脚立に乗って鋏を手に薔薇の剪定をしていた彼は、嬉しそうに笑う。脚立の下では、先程の大きな狼が丸くなって眠っていた。
やっぱり君の狼だったんだね。
「それは、良かった」
「ここは? 君が管理しているの?」
「うん。そう……去年まで植物学の先生が管理していたんだけど、今年になって腰を悪くして教師を引退したんだ。取り壊される予定だったけど、ここには貴重な薔薇があるし、先生の思い出の場所だし……。だから、僕が管理を引き継いで、ここを買い取ったんだ」
買い取るって発想がいかにも貴族らしいと思ったけれど、『先生の思い出の場所』だからという理由は好ましいと思った。
ただ、それを言うとまた勘違いされそうだから「へーそうなんだ」となるべく素っ気ない返事をした。
アルファルドは狼の尻尾を踏まないように慎重に脚立から降りると、切ったばかりの真っ白な薔薇の蕾にふうと優しく息を吹き掛ける。すると、蕾は開いて大輪の花を咲かせた。
「わぁ! すごい! 今の何?」
「樹の魔法だよ。僕の一族に伝わる地味でマイナーな魔法。樹の魔法が使えるから、なんとか一人でやっていけるんだ」
薔薇を差し出してアルファルドは自嘲するように笑う。私はお礼を言って薔薇を受け取ると、思わず子供みたいな歓声をあげてしまったのが恥ずかしくて俯いた。
「ねぇセラ、もし君がまだお礼をしたいと思っているのなら、温室の手入れを手伝ってくれない? 土いじりが苦手だったら、この……オリオンと遊んでくれるだけで良いよ」
そう言って、アルファルドはしゃがむと足元に寝そべる大きな狼の背中を撫でた。
「……そういうことなら、喜んで。その子、オリオンって言うんだね」
いくら私の毛並みが良いとはいえ、自分で自分をモフることはできないから、モフモフした生き物を見るとなんだかうずうずしてしまう。オリオンを見た時から手触りが気になっていたので、願ったり叶ったりだ。私は二つ返事で了承した。
「よろしくね。――それじゃあ、寮まで送るよ。制服汚れちゃうから、今度来る時は動き易い汚れても良い服で来てね」
「うん、わかった。それで、いつから来れば良い?」
アルファルドはふむと顎に手を当てて、しばらく考える。ややあって、こちらを振り向くと私の手を握る。
「僕としては、ここに住んでくれても一向に構わないんだけど……」
「却下」
「共に一晩を過ごした仲じゃないか」
「それ、外で言ったら許さないからな!」
朗らかに笑う彼を見て、気を許しそうになったことを後悔した。そうだった。こいつはそういう奴だった。危ない危ない。




