どの時まで?
逢坂愛花はアイドルである。
中学二年生の頃、街中でスカウトされたことをきっかけに、アイドルとなった。スカウトされるということは、目利きがいい事務所の社員の目に留まるほど、彼女に光るものがあったということだ。
後藤秀樹。逢坂がスカウトされたのはそう名乗る人物で、
『是非、アイドルになりませんか!』
そう熱い瞳でお願いされたのだ。
スカウトとは、する側が選ぶ人間なのでつい勘違いしてしまいがちではあるが、どちらも対等である。スカウトする側に選ぶ権利があるのと同時、当然に、スカウトされる側にも、そのマネージャー、事務所を選択する権利はあり、断る権利も等しく存在している。
逢坂は学校でも何回か告白されたことがあった。街を歩けば誰もが足を止めてふり返る、といった絶世の美人ではなかっただろうが、二度見やチラ見の視線はよく感じたし、ナンパの経験もあったため、自然と自分が容姿に恵まれていると理解していった。
モデルをやってみないか、俺なら君を、などなど、スカウトの言葉も掛けられたことはあった。だが彼らの目はどれも、選んでやったのだ光栄だろう。俺の誘いを断るはずがない。みたいな感情が明け透けに見える接し方だったため、逢坂は迷わず突き返していた。だからきっと、本当の意味でのスカウトをされたのは、後藤が初めてのことで、彼の熱い瞳に、逢坂はアイドルへなることを決めたのだ。
アイドルをすることは純粋に楽しかった。中学生としての本業を疎かにしない、という家族との約束もあり、忙しいことには忙しかったが、それが充実感に繋がっていたのも事実だった。中学生として学校生活を送り、放課後は事務所。ダンスや歌のレッスン。体力作り身体作り。アイドルの研究。
それらの実践としてライブがある。観に来てくれた観客がコールやペンライトを振ってくれれば会場に一体感が生まれる。みんなでライブをしている感覚は、やっていて気持ちがいい。最初はそこまで楽しんでいない、好きになってもらっていない人たちが、帰り際には満足げに帰ってくれる。自分たちとは違うアイドルを目的に来た観客の目が、自分たちアイドルにも向いてくれる。握手会やトークイベント、差し入れをもらって好きだと言ってもらえる。
達成感と、報われた感覚で、満たされる。
しかしそんな順風満帆な日々も、ある日を境に崩れる。
「……え」
いつも通り、学校が終わって事務所に向かい、ロッカーを開ければそこにはなんと、ラクガキがあった。紙に文字が書かれてあったり、ロッカーの壁自体に書いてあったり。勘違いや見えないふりをするにはデカデカとした文字で、剥がして終わる紙とは違い、ロッカーの文字は油性だった。
「どうしたの……」
後ろから声を掛けられる。
「え」
反射的にロッカーを閉めたが、その反応を見るに、見られてしまったようだ。ロッカー内に文字だ。例え一瞬だったとしても、いい意味には捉えられないだろう。逢坂の反応から、何か不穏な気配を感じたのかもしれない。
致し方なく、逢坂は、ロッカーを開いた。
「なに、これ……」
彼女の名前は橘柚奈。ピンクの髪をハーフツインにした小柄な少女で、グループの中ではピンク担当。幼い体型と容姿が好きなファンの心を刺激できる上手いアイドル。ファン数は多くないが、多くないファンの勢いは一番人気かと思えるほど凄まじい。だがあくまでそれらは表向きであり、全ては計算の上で成り立っている。本性はサバサバとしていて我が強い。逢坂と柚奈のふたりはそんなところが似ているのもあって、仲良くなるのに時間はかからなかった。
柚奈のアイドル名は下の名前でユナ。アイドルはお互いアイドル名で通っている。逢坂も同じアイドルグループに所属するメンバーの本名は知らない。アイカとユナという前例から、アイドル名が本名なのだろうか、という推測はしているが、かなり確度は低い。逢坂が本名を知っているのは柚奈だけ。また本名を伝えたのも柚奈だけ。
「後藤さん、呼んでくる」
柚奈は許せないと拳を握りつつも冷静さで押し殺し、マネージャーである後藤を呼びに行った。
ロッカーを前にした後藤もまた同じ。青ざめた顔をする。
「酷いな……」
程度の低い小学生チックな言葉もあれば、言葉にするのもはばかられる言葉もあったりする。くしゃっと丸めた紙を開き、後藤は言った。
「これは、いつから……?」
「今日が、初めて」
「本当に?」
柚奈が顔を覗き込んでくる。隠しているとでも思ったのだろう。逢坂は心配無用と笑った。
「笑うところじゃないよ」
「……」
他人のために本気になれて、他人のために真剣になれる。このとき逢坂は、柚奈というひとりの人間を信用した。
「うん、そうだね。でも、本当。今日が初めて」
もしかすれば気付いていないだけだったのかもしれないが、すくなくとも逢坂が直面したのは今日、この日が初めてだった。
頷けば、柚奈はまっすぐな瞳で後藤に訴えかける。
「カメラとか、あるでしょ。犯人わかるんじゃないですか」
しかし後藤の反応はよくない。相手は成人済みの大人だ。それぐらいは考えているだろう。
「さすがに、更衣室であるロッカー室にカメラは……置かないよ」
それはそうだった。もし置いていれば、いままでの着替えも、全て見られていたかもしれない。見ることは、できたということになる。現実的に可能だということで、不安になるには充分過ぎる。そんな事実があればプライバシー問題として、この事務所も崩れるだろう。
「でも、やれる人は……限られる。そうだよね?」
柚奈の言う通り。監視カメラがなかったとしても、事務所に赤の他人が入り込むことはほぼほぼ不可能だろう。事務所の出入り口やオフィス、廊下には監視カメラもある。誰も知らない人物がそこを歩き、更衣室に入り込む瞬間が映っていれば、その人物が最も疑わしい人物となる。
「考えたくもないけど。他のグループのアイドルか、他の社員がいまのところは……濃厚、か」
後藤は苦々しげに呟いた。
監視カメラが、見ず知らずの赤の他人を捉えている。それを願う逢坂の胸中は、気持ち悪かった。不審者の存在を願っているなんて、おかしい。だがそれが一番、丸く収まる結果だった。
もしも不審者が映っていなかったら、これから事務所では安心できなくなる。すれ違う他グループのアイドル、オフィスで作業に向き合う社員。彼らにいちいち怯え、警戒しなくてはならないのだから。最も考えたくない最悪の末路は、同じグループのアイドルだ。一緒に頑張ってきた彼女たちのことですら、仲間のみんなを信用できなくなる。それは最悪のほかに何と言えばいい。
彼女たちと、期間こそ短いものの頑張ってきたのだ。疑いたくない。疑う自分になりたくない。
そして、監視カメラの映像は止まった。逢坂の願いなどまるで無視だった。異常は映っていなかったのだ。
「残念だけど……カメラには」
事務所の出入り口から配達員や打ち合わせ相手、取引先の人などの出入りはあったが、彼らは皆、オフィスや会議室、応接室まで。しかもどれも、社員の誰かが応対している。事務所の奥にある更衣室に入った形跡はないし、忍び込めるチャンスもなかったはずだ。
後藤は苦しい表情で告げ、不審者の存在を願う複雑な心境だった逢坂も、悟った。最後まで言わなかったが、それは最後まで言う意味がなかったから。
となりで柚奈が、歯がみする。逢坂は一度、目を閉じた。
これで、犯人は、事務所関係者の誰かということに、なってしまった。
それからは、エスカレートする一方だった。
最初のラクガキは、序の口だった。いまからが本番だと言わんばかりに、酷くなっていく。
レッスンから帰ってくれば、荷物が台無しにされていることもあった。ライブが終わって着替えようと思ったら、着替えがなくなっていることもあった。衣装に細工され、ダンス中にはだけたこともあった。幸いにも練習だったからよかったものの、それが本番だったらと考えたら、全身が冷たくなった。大衆の面前で、身体を晒すのだ。
怖い。
逢坂は、アイドル活動を中止することにした。中学三年。受験だ。ちょうどいいじゃないか。
受験に専念したいので、という名目で、お休みをもらうことにした。
柚奈と一緒に受験勉強は頑張った。中学は別だったから、高校は一緒にしようと約束して、共に頑張った。休止した逢坂と違って、柚奈は両立していた。まあ、後藤の方で調整はしていたようなのだが。
「ねえ。アイカはさ」
「ん?」
柚奈は真剣な顔つきだった。ペンを止める。
「高校、受かったらまた、アイドルやるつもりなの?」
「……うん」
「なんで? また、同じ目に遭うかもしれないんだよ?」
懸念は逢坂自身もわかっていた。それでも、意志は揺るがなかった。
「アイドルが嫌いになったんなら、辞める。レッスンが辛くて、つまらなくて、何にもならなくなったらもういいやーって辞める。でも、そうじゃない」
アイドル活動自体は好きなのだ。本当は、いまだって。休止せずとも受験ぐらいは乗り越えられる。両立できるはずだった。事実、アイドルを始めてからも校内試験、成績は落ちず、伸びてるほど。
いままでの積み重ねと、いままで通り積み重ねれば、受験ぐらい何てことないただの定期試験と同じはずだった。
「このまま辞めたら、屈したことになる」
誰かは知らないが、逢坂のことを疎ましく邪魔に思っているからこんな手段に出ているのだろう。アイカすらいなければ、自分が、自分たちグループがもっと、人気になるはずだった。そう思っているのだろう。
人の足を引っ張ることだけに必死になって、ファンとも向き合わず自分を磨かないような連中に負けるわけにはいかない。奴らの思惑通り、ここで辞めるという選択肢を、取るわけにはいかない。
「逃げたくないから」
逢坂にアイドルを辞めるという選択肢は、なかった。
「だから……親にも、話してないんだ」
「……うん」
そこは、心苦しいところでもある。
両親にはこの一件、伝えていない。柚奈から警察に行こうと説得されたこともあったが、何度も首を横に振ってきた。警察に伝え、ことを大きくすれば、必然的に両親にもこの件は伝わる。
そのとき、父と母はどんな顔をするか。
悲しむだろう。怒るだろう。自分たちを責めるかもしれない。アイドル活動なんて許可するべきじゃなかったと。そう思わせたくない。ふたりの許可があったから、逢坂の人生は豊かになった。悲しませたくないし、一番のファンであるふたりには、ずっと笑顔でいてほしい。
「だから、高校生になったら、また一緒にアイドルやろうね。その時まで、待っててね」
「しょうがないなぁ」
観念したように、ユナは笑った。
高校の合格発表には、ふたりとも番号が載っていた。
白い息を吐きながら喧噪と人混みに揉まれつつ、驚喜や嘆き、喜劇と悲劇が交互に生まれる中、ふたりもまた喜劇を掴んだ。逢坂は、勝利したのだ。
合格祝いをして、後藤マネージャーと東城社長にも合格したことを告げ、そこでアイドル活動を再開したいことも告げた。
高校生アイドルとして、アイカはユナとの再始動を始めたのだ。最初の一ヶ月は順調だった。活動再開、復帰イベントにも多くのファンが集まってきてくれて、ほっとしたのと同時、またライブでの高揚感を夢想した。
しかし。
二ヶ月目になって、それはまた再開した。
ロッカーを開けたそこに、ラクガキがあったのだ。
「ど、どうしたんだ……アイカ」
逢坂は、もう、ダメだった。
現場に向かうため、後藤が車を回してくれていた。心配してくる彼に目もくれず、逢坂は走った。走らないと、涙がこぼれ落ちそうだったから。あの更衣室にいる人たちが、全員、恐ろしく見えてしまったから。ユナですら、まともに目を見れなかったから。
梅雨は、明けたとばかりに思っていたのに。それでも、雨を煩わしく思うことはなかった。泣いていても、誤魔化せるから。
ラクガキは、合図に思えた。
これから、またお前は地獄を見るんだと言われているような気がした。
一年前の嫌な経験が、頭を駆け巡る。あの辛い日々が、蘇る。苦しくて、苦しくて、怖くて怖くて……。




