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何でも知ってるしろあちゃん  作者: 家佐水井
逢坂愛花はアイドルである
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宿題は優しくない


 それから二週間で、逢坂は退院した。夏休みだった。


「お世話になりました」


 病院で、担当医だった橋本先生に頭を下げる。となりには両親もいて、肩を支えながら同じく、先生に感謝を告げていた。先生は逢坂の回復によかったね、と和やかに笑って見送ってくれた。

 父が運転席に座り、母が助手席。逢坂は後部座席をひとりで座っていた。頭を窓に預けながら、なんとはなしに街の景色を眺める。


「寝てても、いいからね」

「むしろ寝れない。ほとんどベッドの上だったからね」


 それで母から心配や不安の色が消えることはなかった。


「先生も言ってたでしょ。頭だから、念のためだって」

「そうは言っても……ねえ」

「ああ」


 実際のところ、逢坂に痛みはほとんどなかった。

 衝撃が強すぎたのだろうか。痛みを認識できる余裕すらなかったのかもしれない。それに、逢坂が意識を保っていられた時間は、短かった。


 病院で目が覚めて、自分の身に起こったことは理解していた。しかし警察が出張り、両親が狼狽えるほどなのか、とどこか楽観視していたのも事実だった。ドラマや映画じゃ、階段から落ちたら大抵死ぬ。そんなイメージがあるが、思考も明快で記憶にも差異はなかった。だから、重く考えなかった

 まあ、通報が早かったから、と担当医も言っていた。つまり逢坂があっけらかんとしているのも、天理という男子のおかげ。二週間で退院できた、と喜ぶところなのかもしれない。

 それでも親心としては心配せずにはいられないのだろう。反対の立場だったら逢坂もそうなる。母から同意を求められた父は求められたままに同意し、ルームミラー越しに目が合う。


「足を滑らせて階段から落ちるなんて……本当に平気か? そんなおっちょこちょいじゃなかったろ」

「そうよねえ?」


 もともと小さな頃から運動はできたほうだし、アイドル活動の一環として体力作りやダンスもしてたので、学校の体育に関しても周りよりも評価は高かった。勉強に関してもそう。アイドル活動の条件として提示されていたため、成績はキープしていた。それは高校に入っても変わらない。

 両親からすれば、アイドル活動もしながら高校生としての本業も全うする、自慢の娘だろう。逢坂も自分のことは誇らしく思っている。足を滑らせて階段から落ちるような間抜けには到底思えない。自分自身もそう思っている。


 黙っていると、父は話を変えた。


「このまま学校に向かう。夏休みの宿題とかもらわないといけないし、先生も心配してたから顔見せてやらないと」

「宿題、免除とかならないんだ」


 逢坂は退院となったが、完璧に身体が治ったわけではなかった。経過観察でも問題なく、打撲や捻挫も癒え、腕の骨折の痛みも引いたため、入院から通院と切り替わったのだ。左腕は未だ仰々しく包帯に巻かれ、細かな挙動は難しく素早くも動かせないが、夜に不意に激痛に襲われるといったこともなくなっていた。

 いつの間にか夏休みとなり、その夏休みも通院、リハビリに費やすとなっては、憂鬱にならずにはいられない。しかも真っ先に宿題と来た。


 軽口を父は笑った。どうにか慈悲の心で手加減してくれないだろうか。そうすれば、すこしは退屈な入院生活と怪我にも功名があったと思えるのだが。

 それに、逢坂にはやらなくてはならないことがある。リハビリ以外にも。

 退院早々の宿題に気持ちが萎えていく。逢坂は期待薄の心構えで、しばしの間、現実逃避にスマホを弄ることにした。




 高校に到着し、職員玄関から入る。来客用の下駄箱は、生徒用の下駄箱であるステンレス製と違った。逢坂がよく使う下駄箱は銀色で、それも色褪せて長年の傷や劣化によるものが多かったが、職員玄関の下駄箱はそれよりもちょっと、高級感があった。

 上履きではなくスリッパに履き替えた。

 職員室前まで歩くと、父が職員室に入っていく。担任と一緒に、父は出てきた。


「ああ、逢坂さん。ご無事でよかったです」


 本当にそう思っているだろうか。逢坂は悪意なく、そう思ってしまった。

 逢坂のクラスである一年三組の担任は、佐白という。下の名前は知らない。未だ名前を知らない先生だっているし、校長の名前は忘れているし、下の名前を知っている先生だって、小中合わせてもひとりもいなかった。

 佐白先生は、ふちのない丸眼鏡をかけていた。肌は白を通り越して灰色。その血色悪さは青白いといっても間違いではない。だというのに目元の隈は色濃く深い。頬も痩せこけているような感じがして、その瞳は生気も感じられないため、一年三組の間では不気味、ゾンビとも言われている。そこに陰口らしさはなく、クラスメイトは若干恐れもあるので、悪口というより、ただ単にそれが適切なのだろう。


「まだまだリハビリは続きますけど」

「それぐらいで済んだのですから、軽傷でもあるでしょう。現場は悲惨だったと、他の先生から聞きましたから」


 そう言われるとその現場が気になるな、と思う反面、父母もいい顔しないだろうな、と思う。


「とまあ、雑談はこのぐらいにしておきましょう。逢坂さんにも無理はさせたくありません」


 病人になると周囲が、世界が普段よりも何倍も優しい。逢坂の身に起こったことはことがことで、死んでいてもおかしくなかったからだろうか。これが役得というやつか。

 たぶん、違う。


 佐白先生は職員室の隣にある扉を開けた。そこはどうやら、会議室らしい。逢坂はまだ校舎の全てを把握しているわけではないし、職員室にも訪れた回数は片手で数える程度。会議室なる存在は、初見だった。


「すこしお待ちを。いま持って来ます」


 長机がひとつ置かれていた。パイプ椅子は三つほどあった。逢坂は腰を降ろすが、父母は立ったままでいるようだ。ほかにはホワイトボードや戸棚がある程度で、特別珍しいものがあるわけではない。

 逢坂は、身構えていた。職員室から出てくるときに持って来れなかったのか、と最初思ったのだが、持ちきれないほどの量なのではないか、という考えに行き着いてからは、まだ見ぬ宿題たちに恐れ戦き、身構えずにはいられなかった。世界が優しくなっても、宿題は優しくないらしい。


「お待たせしました」


 両手で、段ボール箱を包むようにした佐白先生は、扉を腰で閉じた。


「佐白先生」

「はい」

「私、病人なんですよ」

「退院したのでしょう」

「じゃあ、病み上がりなんです」

「なるほど」

「すこしは、容赦してくれませんか」

「残念ながら、私にそのような権限はないですから」


 そりゃそうだ。

 小学校は、担任が授業のほとんどを請け負っていた。長期休みの宿題も、担任が決めるためクラスごとに違ったりもしていた。しかし中学からは教科ごとに教師が代わり、担当科目という概念を知った。その担当教師によって、一組は宿題が出たのに四組は出なかった、なんてこともあった。佐白先生に、夏休みの宿題の量を決める権限はない。まったくその通りだ。


 どしんと重量感ある段ボール箱が逢坂の目の前に置かれ、引き攣った笑みを浮かべた。


「交渉権とか使えばいいですかね」


 それを行使し、いかに逢坂がほかの生徒に遅れを取っているか、リハビリや通院でハンデを背負っているか、懇切丁寧に説明すれば、どこかの教師は憐憫の情を抱いて免除してくれるだろうか。


「それと、テストの返却もあります」


 そんなことは、なさそうだ。

 なにも両親の前でしなくても、と思う反面、ここ以外だと夏休み明けになってしまうか、と腹をくくる。


 逢坂は学力に不安はない。頭脳明晰ではないが、もとより学業を疎かにしないという約束が、アイドルを許された条件だった。それは中学の頃からで、アイドル活動は休止こそしたが受験勉強にも余念はなかった。高校に入っても、授業も予習復習も継続した。テスト勉強も抜かりはない。

 それでも、この瞬間に余裕綽々とはいられない。


 一教科ずつ、逢坂は解答用紙をめくった。となりで佐白先生が、最高点と平均点を教えてくれる。

 逢坂が解答用紙をめくり、点数を目にすると、後ろにいる両親にもそれが目に入る。逢坂には隠す暇もなく、言い訳の余地もなく、心構えの時間もなく、点数がバレてしまうのだ。


「……ふう」


 テストの返却が終わった。階段から落ちるよりもドキドキした。汗を拭う。なんとか切り抜けた。


「ではこちらが順位表」


 教科ごとの順位と、総合点、総合順位が記されている細長い紙。逢坂は手で隠し、おっかなびっくりと薄目でひとつずつ見ていく。

 たしか、織田高校ではトップ10までは総合点と順位、それから名前が貼り出されたはずだ。逢坂の順位はそこに名を連ねるほどではなかったが、まったく手が届かないといったわけでもなかった。両親の視線を肩越しに強く感じる。


「すごいじゃない!」

「父さんもそんな順位は取ったことないぞ」


 母は素直な賞賛、父は唸るような賞賛をした。どうやら、期待には添えたらしい。そう思う反面、もしも平均点を下回っていても、怒るに怒れないのではないか、とも思ってしまった。

 まあ、ともかく逢坂は好成績を収めたのだから、取り越し苦労だろう。


「それで逢坂さん」

「はい?」


 ほかに何かあっただろうか。


「このあとは宿題の交渉をしますか」


 ぽかんとしてしまった。時が止まったように感じた。逢坂はぶんぶんと首を横に振る。


「冗談ですよ」

「ああ」


 無感動な返事だ。しかし、


「冗談です。本気じゃないです。じゃないですけど……交渉の余地って、あるんでしょうか」

「それは、手腕によるとしか」

「……ですよね」


 それとも、あれか。職員室で逢坂が泣き叫べばいいのだろうか。

 教師陣をあの階段に引き連れていって、


『こちらをご覧ください、ここが私が落ちた階段です。あの高さから、段数から落ちたんです。いやー怖いものですねー』


 とでも言えばいいのか。

 出血は掃除されているだろうから、


『見てください! 皆さん! これだけの出血量……ぜんぶ私の頭から出たんですよ! よく生きていたものです』


 と言えないのが残念だ。


 それか、原稿用紙にしたためればいいのか。いまならきっと、どんな小説や映像作品よりも生々しく鮮明に、リアリティの高さを保証できる。それを見て聞いて読んでも宿題を課すような人は、もう教師失格かもしれない。宿題を出すこと自体に快楽を覚え、それが目的と化してしまっているサディスティックだ。


「じゃあ、大人しく頑張ります」

「まあ、大概の先生はすこしは大目に見てくれるとも思いますけど」


 佐白先生の優しさで、甘んじるとしよう。


「ああ、あとこれも」

「?」


 そうして最後に、佐白先生はカバンを取りだした。青の学生カバン。高校指定の、生徒ならひとつは持っているであろうカバン。

 逢坂は数度、ゆっくりまばたきを繰り返した。


「逢坂さんが転落して、通報してくれた天理が持っていてくれたんです。学校に来たら渡してやってくれ、と」

「中って、見ました?」

「いいえ」


 学生カバンは血を吸ったからか、変色を始めている。カバンの青も、血の赤も、絵の具のように綺麗ではない。だから混ざっても紫になることはなかった。模様にしては、適当で汚らしい。


「新しくしないとだな」


 父が言った。


「天理くん、何度かお見舞いにも来てくれてたわよ。あとでお礼を言わないとね」


 母が言った。


「うん」


 逢坂は、頷いた。


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