何もなかった
唖然とする。無意識に、距離を取るようにしてしまった。階段の中腹で。
天理は、天知からの指摘に強張りを見せた。動揺もしていた。しかし、すぐに取り繕う。
「嘘? 俺が? なんで」
はたして天知は鎌をかけていたのだろうか。ふり返りもしなかった天知には、天理の態度から察することもできなかったはずだ。それとも、表情は見えないからそもそも態度の変化は期待していなかったのか。あるいは、天知には何かしらの確信があるのだろうか。後藤には見えていない、何かが。
「いまは言わないよ」
天知は階段を降りる。
後藤は問い質そうと思った。どこかでこのふたりだけで、口裏でも合わせるのではないかと危惧したから。アイカと天理、どちらの味方を天知がするかは、明白なのだから。
「いま言っちゃうと、逃げ場がありそうだし」
しかし、そうではなかったらしい。
「でも、なんで。その理由は、直接本人から訊くとするよ。それに、かいくんのは、厳密には嘘じゃないしね」
確信に満ちた口ぶりに、天理は言い逃れが利かないと観念したようだ。小さく、首を振る。
「なら、いまから行く場所は、職員室か」
「うん。逃げ場をなくしてから、かいくんの口からきちんと話してもらうとするよ」
天知は天理の言い訳が立たないようにするため、行き止まりへ追い込もうとしているらしい。いまは言わないと言ったが、職員室へと行けば、彼の嘘も暴かれるようだ。なら、すこし待つとしよう。
後藤は気持ち悪い感覚を腹に残したまま、天知と天理と職員室へ来ていた。
「わたしが呼んできますので」
扉の前でそう申し出た天知に、何をするのかわからないが任せるとする。職員室へ入っていく天知。扉が後ろ手で閉められる。
後藤は、天理とふたりとなった。後藤は天理を監視するように、正面に見据えていた。天知が学年とクラス、名前を名乗って誰かを呼んでいるのが、扉の採光窓から視界の端に映る。
「そこまで睨まなくても、自分はべつに、逢坂に損のあることをするつもりはないですから」
「この目つきは生まれつきだ」
「生まれつき監視してるんですか」
「天理さんこそ、その髪は切った方がいいと思いますけど」
野暮ったい、陰鬱とした、そんな印象しか与えない重たい前髪を、天理は摘まんで持ち上げるようにした。後藤の目には、天理自身も厄介そうにしているように映った。
「まさか、生まれつきその毛量じゃないでしょう」
「だとしたら何かしらの記録になりそうだ」
「ギネスとか?」
出産に、ギネスの認定員が立ち会っている想像をする。
「なんだか、シュールだ」
「たしかに」
声を抑えて笑う。天理の口角も笑みを作っていた。
「まあ、自分も自覚してますよ。この髪のせいで不信感を与えてるし、印象が悪くなっていることぐらい」
「ならなぜ?」
そういう宗教とか、価値観とかなら後藤も踏み込みはしないが。
「……家庭方針?」
自分で言っていて不可解だ、という素振りの天理に、後藤はどう言葉を返せば良かっただろう。
「お待たせしました」
天知が戻ってきた。後ろにはふたりの大人がいた。ひとりは白衣を着ている。養護教員だと合点がいった。保健室の先生として思い浮かべる女性教員だ。もうひとりは作業着、つなぎの服を着た覇気のない中年男性だった。こちらは教員と見えないので、事務員か用務員辺りだろうか。
「かいくん、このふたりで間違いない?」
「ああ。大野先生には止血とか手伝ってもらった」
「逢坂さんは無事だったの?」
その大野先生らしき女性養護教員は、もう我慢できないとばかりに言った。ずっと、気が気じゃなかったのだろう。
「はい。手術は無事に終わりました。あとは目を覚ますのを待つだけです」
天理から聞いた無事という言葉に、全身の力を押し出すように息を吐いた。
「それで、田中さんは?」
中年男性は田中というらしい。
「大野先生を呼びに行く道中、中庭で見かけた。人手はあった方がいいと思って、一緒に来てもらった」
「じゃあ、田中さん。あなたがあの踊り場の血を拭き取った、ということで間違いないですか?」
「ああ、そうだ。あの女子生徒が運ばれた後にな」
血が拭き取られたのだから拭き取った人がいるし、天理ひとりだけで血溜まりのアイカを対処できるとも思えない。
「で、そっちは?」
田中が胡乱げな目を寄越す。後藤はなるべく柔らかな対応を心がけた。
「アイカ……ここの生徒の逢坂愛花は、アピアランスという事務所のアイドルでして。自分はそこの社員、逢坂さんとは、アイドルとマネージャーという関係です」
「アイドル……」
田中が目を丸くする。が、学校に話は通しているのだから、大野は知っているのだろう。平然としていた。
「それで天知さん、どうして私たちを? 逢坂さんが無事なら、他の先生にも伝えないと」
「はい。ですがその前に、すこしお時間ください」
そうして天知は、はっきりと言った。
「現在、逢坂さんを階段から突き落とした犯人を、探しているのです」
直接的な言葉を用いた。大野も田中も、それには狼狽える。
「は、はんにん……!? それってつまり、逢坂さん、を……誰かが殺そうとした……って、こと!?」
「……まさか俺たちを疑ってるんじゃないだろうな?」
アイカのことを心配し、犯人の存在に怯える大野と、自分が集められたことを察し、身を案じる田中。これは教師と用務員の差だろうか。
「いえ。おふたりのことは疑ってません。重要な関係者であり、目撃者でもあるというだけで、すこし、話を聞きたいのです」
「わ、私はかまわないけど……」
「なんでお前が、そんな警察まがいなことしてたんだ? 生徒なんだろ? ここの」
田中の隠しもしないストレートな表現。天知に不信感を抱いている。大野もそれを諫めることはしなかった。言葉にはせずとも、そう思っているのだ。
「実は、わたしと逢坂さんは中学時代からの付き合いがありまして。アイドルをやっている、ということも、わたしは特別に聞かされていたんです。ですよね、後藤さん」
「あ? ……あ、ああ。そうだったな、アイカも、そんなことを言っていた」
急に水を向けられたが、天知のご期待には添えたようだ。
「ということで、逢坂さんをこんな目に遭わせた人がいるのだとしたら、わたしは許せないのです。たとえ警察まがいであっても、何もしないではいられないんです」
よくもすらすらと嘘が言えるものだ、と後藤は感心した。アイカと天知は高校の同級生に過ぎず、顔見知りですらないのかもしれない。アイカのいじめ問題にも乗り気でなかったのだから、アイカのためにと奔走するほどの好意はないだろうし、悪は認められないと義憤を覚えているわけでもないだろう。
どちらかというと、私情だ。天理が絡んでいるから。言い換えれば、彼が絡んでいなければ、アイカが死んでいても天知は動かなかったのかもしれない。
天知の行動原理が私情だと、養護教員も事務員も見抜けなかったらしい。彼らには、友達が傷つけられたことに怒りを覚えているように思えたのだろう。
「それで、何が聞きたいんだ」
断れば怪しい、というのもあっただろう。アイカは転げ落ちたのでなく、突き飛ばされた。そこには犯人がいる。となれば、容疑者からは外れたい。目撃者であり関係者でもある田中は、犯人ではないという主張をするがごとく、天知に質問の催促をした。
「行動が知りたいです。おふたりは、かいくんに呼ばれるまでの間、どういった行動をしていたのか」
「俺は中庭にある蛇口の点検だ。水漏れがあるって言われてたからな。ついでに、花壇の手入れもしてた。落ち葉とか、ゴミとか。テスト期間は掃除もないだろ。だから、俺がやるしかないんだ。で、廊下がうるせえって思ったら、制服とか顔に血をつけているやつがいたんだ……ああ、お前だな、お前」
田中は天理を指さす。天理の見た目は語ることがすくないが、その野暮ったい髪型、重たそうな毛量は記憶に残ったのだろう。天理も会釈した。
「何があったんだって訊いたら、とりあえず来てくれって言われて。後ろにはこの大野先生もいて、救急箱を持ってっから、何かあったことはわかった。人手でも必要だと思ったんだ。まさか……あんなグロいものを見るとは思ってなかったがな」
血溜まりに浸るアイカ。後藤は想像しかできないが、あの踊り場に残った薄いピンク色の拭き取り跡だけで、充分だ。きっと実物を目の当たりにしたら、いまの田中のように、苦々しい顔をしていただろう。
いっさい顔色を変えない。思い返せば、あの現場でも天知は平然としていた。真剣に、聞き落としがないようにしている、とも言えるのだが……涼しい顔で、天知は言った。
「では、大野先生は」
「私も、似たようなものだけど……」
と、大野は記憶を辿るようにする。
「息を切らした天理くんが、保健室に駆け込んできたの。いますぐ来てくれって言われた。その顔や制服には血がついていた。だから、ひょっとしたら喧嘩でもあったんじゃないかって思ったの。それで、救急箱だけは持って、急いで向かった。そしたら……」
そこで大野は顔をしかめる。養護教員は医者ではないし、医療従事者でもないとどこかで聞いたような覚えがある。ということは、大量の血に経験も耐性がなくても不自然ではない。
誰も急かすことはしない。大野はゆっくりと、何かを飲み干すようにした。
「逢坂さんが踊り場に倒れてた。後頭部から、血が、流れ続けてて……天理くんが救急車に通報して、命令に従いながら応急処置をしてた」
天知は視線を上へ向けている。彼らの話を聞きながら、行動を思い描いているのだろう。後藤もそうしていた。
「わかりました。では、その後は?」
「その後……?」
「ええ。救急車がやって来て、かいくんは逢坂さんに付き添って病院に行きました。その後、おふたりは?」
まず答えたのは大野だった。
「本当は、私が付き添うべきだったのかもしれないけど……ちょっと、眩暈がしてね」
「視覚的にも、嗅覚的にも、衝撃が強かったからだろうな」
天理が補足する。天知は頷いて理解を示した。
「それに、救急車がやってくる頃には、他の先生方も騒ぎを駆け付けてきてた。そこにも説明をしなくちゃならないし、ってことで、天理くんが付き添うって言ってくれたから、私はここに残って、他の先生方に知ってることを説明した」
そっと天知は天理を見やる。流れに間違いはないらしい。天理は頷いた。
「では、田中さんは」
「ほとんど大野先生と同じだ。俺が付き添っても意味がないからな。付き添うなら先生か、そっちの生徒か。俺じゃない。んで、女子生徒が運ばれてってからは、掃除だ。血を拭いてた。乾く前にな」
「おひとりで?」
その問いに、田中はすこし気を悪くしたようだ。
「だったら悪いか」
投げやりな返しだった。
「いえ」
だが天知も簡単には引き下がらなかった。
「ではその掃除をしている時、何か見つけませんでしたか?」
「何か? って何だ」
「犯人に繋がりそうな証拠等を見つけ、一旦預かっていた、とかは」
「……いいや。何もねえな。まあ、髪の毛とか言ってんなら、悪いけど無理だ。鑑識じゃないんでね」
「では、大野先生は」
「私も……特に、何も。それどころじゃなかったし」
天知は預かったと言ったが、本当は隠したと言いたかったのではないか。それを預かると言うことで、後で言おうと思ってたんだけど……と言い出しやすくしたのではないか。あれは天知からの、最後のチャンス。これから手掛かりになりそうなものを渡してきても、怪しさ満載だ。
まあ、これは後藤の邪推でしかない。そうであったら、大野か田中が犯人を庇っていることになり、点と点が線になるのだが……それは、短絡的な思考に過ぎないだろう。
「他に訊きたいことは」
田中は時間を気にして急かした。
「もう定時だ」
アイカを殺そうとした犯人がこの織田高校の関係者かもしれないというのに、優先するのは定時なのか。薄情だと後藤は心の中で罵った。
「私も、逢坂さんが無事なら、他の先生たちに伝えたいんだけど……」
自校で生徒が死亡となれば、落ち着かないだろう。後藤もそんな空気感は感じていた。
「ええ。もう大丈夫です。お時間を取らせて申し訳ありませんでした。ありがとうございました」
後藤にとっては全然大丈夫ではないのだが、特段、彼らに疑わしい点、矛盾があるとも思えなかった。
田中と大野が職員室に入って行く。田中は帰り支度を始めるのだろう。大野は職員室の張り詰めた空気に、吉報を入れるのだろう。後ろで、職員室から張り詰めた空気が解けるのを感じた気がした。




