い、か……な
梅雨は、明けたとばかりに思っていた。
昼前はからっとした太陽が肌を照りつけ、汗をかくほどだったというのに、いつの間にか空は分厚い雲で覆われ、激しい雨粒が逢坂のメイクを流していた。
六月の終わり頃、逢坂は街中で雨を浴びていた。まるでシャワーでも浴びるかのように、静かに目を閉じて雨粒を受け入れていた。メイクと共に、この身体を流してくれることを期待していたからだ。
天気予報も外れ、午前の天気からは想像もできない降雨に、街中の人は雨宿りするための屋根へと駆ける人や、小さな折りたたみ傘で難を逃れようとする人が散見された。そうして視界が心許ない中でも、逢坂の姿は目立っただろう。異質とさえ、思われたのかもしれない。彼らは逢坂を不審がる視線を隠さず、露骨に二度見をした。しかし誰も、声をかけることはしなかった。
「風邪、ひくよ」
シャワーが止まった。雨が遮られる音に変わる。一段と暗くなったのは、頭上にさされた傘によるものだった。
彼はどうしたものか、と言いたげに困った顔をする。それだけで、いま自分がどんな顔をしているか、逢坂は理解した。傘の持ち主は、自らの傘を逢坂にさしているのだから、雨に打たれている。髪、肩が、雨を吸っていく。
「その格好、もしかして、アイドル?」
逢坂愛花はアイドルである。
「風邪、ひくよ」
逢坂は仕返しのように言葉を返した。
その男は、逢坂とそう変わりない年齢に思えた。高校生で間違いないだろう。長くて重たそうな髪を掻き上げ、ピンで留めている。切ればいいのに、と投げやりな感想が第一印象だった。
彼は逢坂の仕返しに面食らったと目を丸くする。雨に打たれたい気分だったのだ。それを邪魔されたのだから、多少は嫌味にもなる。逢坂の意向は伝わったのだろう。傘は引っ込んでいった。しかし彼は自分にさすのでもなく、傘は閉じられてしまう。
目の前の彼の行動は不可解そのもの。傘を手に持ちながら、街中で雨に打たれている。しかも男女が向き合っているのだ。遠巻きにも勘ぐられているのは明白だった。さらに逢坂は衣装を身に着けている。彼が一目見て判断したように、アイドルが着るような派手でフリルのある衣装だ。何かの撮影かと好奇の目に晒された。それもこれも、この男のせいだ。
アイドル風な女の子がひとりで雨に打たれている。それだけでも充分、視線に晒されているだろうことは棚に上げ、逢坂は目をすがめた。
「まあ、俺も雨に打たれたい気分だったから」
俺もと付け加えることで、逢坂の気持ちはすっかりお見通しだと言われているような気がした。それも愉快ではなかった。
逢坂は男の脇を抜け、足早にそこから立ち去る。背中でついてくるなと、最大限の抗議をした。その甲斐あってか、彼がついてくることはなかった。
ふつうの日常だった。
先日、球技大会が終わり、一年生にとっては高校で初のイベントを経験し、浮き足立った雰囲気が漂っていた。しかし定期テストという現実が目前に迫ると、浮ついた熱は冷め、重たい空気が支配されていた。
そんな彼らに新たな熱を吹き込んだのは、誰かが誰かへ言ったとある言葉だった。
「おい、警察が来てるぞ!」
それは友人を呼んだのかもしれないし、高校に警察という馴染みのなさに興奮していたのかもしれないし、単に面白がったのかもしれない。
とにかく、誰かが誰かへ言ったそれを聞きつけては、皆が廊下に出、窓に貼りつくようにした。
逢坂は開け放ったままの扉へ、冷ややかな視線で、野次馬精神を発揮する同級生の背中をなじるように眺めた。教室からは、色めき立つ気持ちを、必死に堪えようとする背中がよく読み取れたのだ。
あの窓からは職員玄関、来客用や保護者が使うための出入り口が見下ろせる。その正面には駐車場もある。警察と一目でわかったのだから、おそらくパトカーでも駐車場に駐まったのだろう。そこから降りた人は、警察官と聞いてまず思い浮かべる青の制服も身に着けているに違いない。警察官が何を話しているか、いったいどんな大事件なんだ、と、同級生は、聞き耳を立てているのだろう。
逢坂はふいと反対側の窓に目をやった。彼らと同じになりたくなかったからだ。
一年生のクラスは四階にある。もしも警察官が何かを話しているとすれば、かなりの大声でないと聞き取れないだろう。第一、警察が来ているということは、何かのっぴきらない事情があるのだ。彼らの思い浮かべるとおりに大事件だとしたら、それを面白がるのは不謹慎に他ならない。
中庭を挟んで、特別棟の窓が並んでいる。いまは昼休みだ。四階の音楽室では、吹奏楽部が自主練にでも励んでいるのだろう。トランペットの音がくぐもって聞こえてくる。
警察の登場は高校生のふつうの日常に、すこしのスパイスを入れてくれた。しかしそれもその日限りに終わった。5時間目、6時間目と過ぎ、放課後となれば、部活がダルいだの、ゲーセン行くだのと、過去のものとなった。
当たり前と言えば当たり前のことなのだが、けっきょく、なぜ警察が来たのかは明らかにされなかったのだ。
校内アナウンスで誰かが呼ばれれば、一日の終わりに教師が誰かへ残るよう指示すれば、特定の生徒が槍玉にあげられ、もうすこしこの非日常は続いたかもしれないが、そんなことは起きなかった。勇気があるのか無神経なのか、担任に警察のことを質したクラスメイトもいたが、教師がそう簡単に口を割ることもなかった。
しかしそのすこしの非日常の間で、根拠のない疑いをかけられた者もいた。生徒の呼び出しがないことから、教員の誰かなのではないか、事務員の誰かなのではないか、と彼らは好きに憶測を披露し始めたのだ。
「やっぱ山岸だろ。あいつ、絶対人殴ってそうだもん」
「……田中じゃね? 用務員の。女子がよく見られてるって言ってたじゃん」
山岸というのは数学担当の教師で、生徒の間ではヤクザとして名が通っていた。逢坂も、あまり人を見かけで判断するのも、偏見で物事を語るのも避けたいが、たしかに山岸は、一昔前なら竹刀を持ち歩いていそうな人相だった。
田中というのは中庭の雑草を毟ったり花や木を整えたり、蛍光灯の取り替えや校門の点検などをしているただの用務員だ。小学校の頃の用務員は朗らかで気のいいおじさんといった感じだったが、田中は無愛想で覇気がない人だった。しかしそれは、あの人が好い人だっただけで、田中は仕事を淡々とこなしているだけだったように、逢坂は思っていた。
「そういや三浦とかは? あいつ、学校来てないじゃん」
三浦とは三浦彰のことで、一年三組の、逢坂と同じクラスだった。
彼は一年の中で、男子では一番の有名人だったと言える。顔も名前も広く知れ渡っていた。人当たりもよく、男女分け隔てなく接し、勉強もできてサッカー部でもレギュラー争いに食い込むほどの文武両道。爽やかな顔は女子からの人気も高く、優良物件と女子人気は高かった。
そんな彼は、現在学校に来ていない。もう一週間も空席だ。不登校と呼んでいいだろう。
呼び出しがないことから、教師や用務員へと疑いがかけられ、最終的に不登校児へと散っていった。彼らにとって真実はどうでもよく、ただこの日常に刺激をもたらしてくれそうな何かがあればそれで充分。あれだけ人望があった三浦彰でさえ、娯楽として消化されてしまうのだから、これ以上に悲しいことはない。
逢坂は小さくため息をついた。
逢坂も、三浦彰がどうして不登校になってしまったのかは知らない。あれだけ順風満帆な高校生活を送っていたのに、と思う反面、あれだけ順風満帆な私生活だったからかも、と思う気持ちが残る。
人気者だからこその辛さはあるだろうし、人気者がゆえに悩みを吐露することもできなかっただろうし、その人気を維持するのに疲れてしまったのかもしれない。
いずれにしろ、逢坂が考えてわかることではない。
そのどれかかもしれないし、まったくの見当違いだってあり得る。
ただ、三浦彰とよく行動を共にしていた男子ふたり……たしか、前野と岡部だったか。クラスメイトに追及されても頑として口を開かず、何も知らないの一点張りだったふたりが、三浦の名前に顔を強ばらせ、若干怯えているような顔つきだったのを、覚えている。
逢坂はゆっくり、目蓋をあげる。自分が寝ていたことを、遅まきながら自覚した。
期末テストが終わった。
放課後の教室で、逢坂が昼食も忘れて学校で居眠りしてしまったのは、仕方のないことだ。期末テストは、中間テストよりも長かった。科目が増え、勉強範囲は広く、一日に行われるテストの数は多かった。思っているよりも、疲労は蓄積していたのだろう。だから、眠ってしまったのは、仕方のないことなのだ。
いまは何時だろう、と思ってスカートを探る。しかし、そうだ。テスト期間中は、スマホは仕舞っておく決まりなのだ。逢坂の通う織田高校ではスマホ禁止という校則はないが、授業中は使用禁止だし、テスト中は電源を切って廊下にあるロッカーに入れておくことになっている。万が一、所持していることがバレれば、ロッカー内で通知音が鳴ってしまえば、その時点で全教科0点という厳しい措置が執られる。
厳しくはあるが、逢坂に文句はなかった。軽い処罰ならカンニングを実行してしまう人も出てくるだろうし、厳しいと思えるほどの罰がちょうどいいのだろう。それに、電源を切ってロッカーに入れておくだけでいいのだ。カンニングするほど逢坂の成績は危うくないし、常に持ち歩いていないと不安になるほどスマホ依存症でもない。
そもそも、いまの時間を知るぐらい、スマホでなくても事足りる。つい癖でスマホを探してしまったが、黒板の上にはアナログ時計が置かれている。いまの時間は、午後の三時だった。
「三時……」
もうそんな時間が経っていたのか。
軽い逆算でも、逢坂は教室で最低、二時間眠っていたことになる。四時間目のテストが十二時を過ぎたあたりに終わって、そこから担任の挨拶で放課となったから、下手をすれば三時間眠っていたかもしれない。
当然、教室には誰もいなかった。
テストは今日まで。二年生三年生は文理選択でクラス分けもされる。選択科目も一年よりも多い。同じ学年でも、テストの終わり時間はバラバラらしい。部活も、テストの一週間前から禁止。今日までだと、クラスメイトの誰かが言っていた気がする。
一年よりテスト時間が長かったとしても、さすがにもう終わっているだろう。部活も自主練に励む者もいたのかもしれないが、三時間弱を過ぎれば帰宅しているはず。
廊下に出て屈み、ロッカーを開ける。逢坂は、すこし目を見開いた。
「……」
動揺した。困惑もした。どうして、と。
四桁の番号でロックされているはずのロッカー。たしかに解錠してから開けたロッカー。その中に、逢坂の知らない紙切れが一枚、あったのだ。
「早く辞めて……か」
その言葉の意味も、差出人にも、見当がついた。逢坂が驚いたのは、いったいどうやって? であって、その脅迫じみた紙に怯えたわけでも、犯人に戦いたわけでもなかった。
ふっと鼻で笑い、紙切れは握り潰す。くしゃと手の中で潰れた紙を、カバンに放り投げる。代わりにスマホを取り出し、親にいまから帰ると連絡を入れておく。
歩きスマホを、していたからだろう。
「あっ」
気付いたときには、遅かった。
階段を、踏み外してしまった。
目まぐるしく、視界が転がる。その壁が、手すりが、カバンが、ただの白として、緑として、青として、単なる色として流れていく。鈍い音がした。視界が留まった。しかし、ぼやけていた。
頭から首へと、生温い何かが伝った。赤があった。自分から漏れ出たものだと、他人事のように思っていた。頭も痛かったし、頭以外も痛かった。
すると、足音が駆け上がってきた。逢坂は、いままさに自分を通り過ぎようとするその足首を、必死の思いで掴んだ。行かないでほしかった。
「い、か……な」
そこで、意識を失ってしまった。




