そういう、もの
天知はカバンから一本のペットボトルを取り出した。それは赤い蓋と赤いラベルがついていて、中身の液体は黒い。蓋を回して開けると泡が膨れ上がった。走ったからだろう。天知は口をつける。ごくごくと喉が動く。一息で、半分ほどを飲み干した。ぷはーっと、やはりお嬢様らしくない、天知らしくない格好を取る。
いままでの対応、表情に言葉遣いと、何から何まですべてが嘘だったのだと知らしめるかのようで、これから語るのが本当の天知なのだと思い知らされるかのようで。
がらりと空気が変わったからか、天知の気持ちのいい飲みっぷりを見たからか、三浦も喉の渇きを覚えた。唾を飲み込む。
「茶番、っていうのは……なんのこと?」
改めて尋ねる。天知はそれはそれは面倒くさそうに溜め息をついた。
「まだ惚けるんですか、まあ、いいですけど」
そう言い、ネズミ色のした雲が覆う空を見上げ、
「うーん。どこから話そう」
そうぼやいた。
やがて、うんと頷く。
「遡るのは、わたしとあなたが出会うことになったあの日です」
中間テストのときのことか。
「あれは、偶然ではありません」
そこまで、驚くことではなかった。狙って訪れたのならなぜ? という疑問は芽生えるものの、それで核心的な何かに触れることにはならない。はずだ。
「倉賀野さんからメッセージをもらいました。ごめんなさい、と。アドバイス通りにできなかったことを謝られましたね。律儀な人です」
「嘘を、ついてたんだ」
倉賀野とは親しくないと言っていたい。友達でもないと。だが、連絡先を交換する程度の交友はあった。それなりに、親しかったのだ。
「それはあなたには言われたくないですね」
天知は肩をすくめる。
「それに、わたしはべつに嘘はついていません。倉賀野さんとはメッセージでやり取りはしましたけれど、直接会話をしたのはあの日、皆さんにお話したあとが初めてです」
本当かどうかは、どうでもいい。どちらにせよ、三浦にいま真相を知る手立てはないのだから。
「それなら僕だって。嘘はついてないよ」
いつのことを言っているのか、何を嘘と断じているのかわからないが、見当違いだ。
「まず、わたしがあなたに不信感を抱いたのは、前野くんが倉賀野さんにアプローチする作戦を、実行し続けようと思っていると知ったときです」
となると、中間テストのあの日。最初から、ということになる。
「あなたは、前野くんの勘違い、思い込み、自意識過剰に過ぎないとわかっていた。ですが、倉賀野さんが青ざめていた、怯えているようだった、というのもまた、事実だったんです」
たしかに、それは佐々木が言っていたことだ。前野が言っていたことではない。なぜ五人の会話を天知が知っているのかが気がかりでもあるのだが。
「あなたはそれを、無視した」
突き付けられる。言い返せなかった。
「そこで、理解しました。いつメングループと言えど、その中にも優先順位があるのだな、と。そこを咎めることはありません。友人の中にも、親友、友達、付き合い程度と違いがありますからね」
前野と岡部は中学から、部活でも一緒だった友人だ。中学三年間と、一ヶ月程度のクラスメイトでは、誰しも前者を優先するだろう。
「ただし、嫌がっているのに無視するのは話が違います。それは蔑ろにしている。いじめに等しい。つまりあなたは、倉賀野さんのことを、友人だと思っていないのです」
あからさまに高校デビューした風貌。自分がなく、主張もせず、意見も出さない。内面と外見がかけ離れていておどおどしていて、あのグループの中で、明らかに不釣り合いだった。三浦も声をかけないし、倉賀野だって、三浦には近づかないだろう。天知の言っていることは、正しい。
「でも、それは悪いことなの?」
正しいが、その正論の刃に大人しく首をやるつもりはない。
「誰だって表面上の付き合いと、内心の乖離はあるよ。天知さんだって、寄って集って来る人は多くいるでしょ? 彼らはみんな、天知さんに二、三質問して、それで距離が縮まったと思ってる。天知さんは? その人たちのこと、友人にする? 知り合いに入る?」
見た目がかわいいから、人気で有名だから。大半が下心で天知に接近している。その下心を、天知は友情と呼ぶのだろうか。そんなはずがない。
「同じ高校に通うことになってしまった。クラスメイトになってしまった。友達の友達だっただけに過ぎない関係性だ。社会に出てもそう。同じ会社の仲間かもしれないけど、窮地に陥ったとき助けてなんてくれないよね? 物事を円滑にするためのコミュニケーションを僕はしているだけ」
八方美人という言葉はよく嫌味に使われるが、近づく人すべてに暴言を吐いて暴行を働く人よりも、愛想のいい八方美人のほうが断然いいだろう。
「なるほど。たしかに、助ける義務はないですね。困っている人がいても、無視してしまう人のほうが大半」
わかってくれたなら、何よりだ。
「ただしあなたは違う」
蛇に睨まれたかのようだった。
「上手い話のすり替えです。まるで自分は第三者かのように語っている」
「……違う、と?」
「ええ。倉賀野さんは被害者。この場合の加害者とは、あなたたち三人ですよ」
心臓を掴まれた。天知は核心的な台詞を言ったのだ。
「そう。わたしが言いたいのは、なぜ倉賀野さんが青ざめ怯えていたことを、あなたが無視したか、です。無視したこと自体の善悪を問うつもりは、さらさらありません」
天知は人差し指を立てた。
「答えは簡単。追及されたくなかったから。追及されれば、自分たちの悪事が露見してしまうかもしれないから……ですね」
立てた人差し指を、天知は三浦の胸に向けた。
「あなたはあの日、わたしの台詞を奪いました。友人よりも優先すべき相手とは。その先を、あなたは?」
「……家族」
「はい。そう言ったんです」
嬉しそうに天知は手を合わせて微笑む。
「ですが違います。わたしは本当は、こう言うつもりだったんです。……恋人、と」
鏡を見ずとも、自覚する。三浦は渋面を作った。
「倉賀野さんは前野くんのアプローチを嫌がっていました。ですが面と向かって断ることはできずにいた。グループの仲に亀裂が走るのが嫌がったから。ならばと倉賀野さんは、彼氏の代役を立てることにしました。彼氏の存在を匂わせることで、前野くんに諦めてもらおう、という算段だったわけですね」
しかし、と天知は三浦を見据える。
「あなたはそれをよしとしなかった」
ゆっくりと、一度。瞬きをする。
「前野くんが暴走することを恐れていたのでしょう」
「暴走?」
「ええ。あなたがあのとき、台詞を先取りしたのはわたしだけではありません。前野くんに対しても、一度。遮りましたね」
覚えている。
あのとき、三浦が天知にお願いしたのだ。前野を前向きにするよう導いてあげてほしい、と。それを了承した天知は、まず前野に寄り添った。弱ったところを支えられた前野は、つい饒舌になった。饒舌になって、危うく口走りそうになったのだ。
覚えている。
「あのとき、前野くんは危うく、こう言いそうになったんです。もしかしたら、俺たちの作戦に気付かれているのかもしれない、と」
「……そうだよ。僕らの作戦、光輝と倉賀野さんをふたりきりにしようっていう」
「違いますね」
苦し紛れに認めたものの、天知は軽々と切り捨てる。
「あなたたちの作戦とは、そんな青春ごっこではない」
どこかで見たような、酷薄した目だ。肌寒さを感じる。
「仮に、単にそういった初々しい作戦ならば、倉賀野さんは怯えることも青ざめることもありません。嫌だったとしても、困ってるぐらいです。ではなぜ、前野くんに、倉賀野さんはそこまで青ざめ怯え、逃げ帰るようなことになったのか。しかも、アプローチは一日目だったにもかかわらず」
前野のアプローチは積極的で、ふたりきりにしようという雰囲気は露骨だった。倉賀野に好きな人がいて、前野は好みじゃなくて。そんな具合ならば、ことはもっと単純に終わっていた。
「ところで、あなたたちは同じ中学に通っていたようですね。中学受験ですか」
「……違うよ」
「ええ。つまり、学区は近いということ。あなたたちは三人とも、電車通学ですね」
パズルのピーツがひとつずつ嵌まっていく。
「ですが、前野くんは倉賀野さんと一緒に帰りました。佐々木さんと早瀬さんも言っていたとおり、最後はふたりきりになったようですね。ここで、倉賀野さんは青ざめ怯える事態に陥ったのです」
頭を悩ませることも、迷いもない。
「まあ、このときの倉賀野さんはまだそれを理解していませんでした。わたしが教えたんですけどね」
それどころか、楽しんでいる。
「前野くんは、倉賀野さんの自宅を突き止めるために、電車ではなくわざわざ歩いたんです」
溜め息を、懸命に飲み込んだ。
「単なるアプローチなら、ええ、どうぞご自由にってところです。アプローチをする権利も、断る権利もあります。ですが自宅を突き止めるのは、一線を超えていますね」
「でも、それってさ」
三浦は下っ腹に力を入れた。
「友達なら、ふつうのことじゃない? 僕だって、光輝や大志の家は知ってるよ。小学生時代の友達のことも、まだ覚えてる」
「はい。遊びに行くのだったり、帰り道が同じで流れで知ったのなら自然です。ですが、一方的に好意を寄せてくる相手が、電車を見送ってまで自宅についてくる、というのはおかしな話です。恐怖ですよ」
天知は軽く挑発するように言う。
「前野くんの自宅と、倉賀野さんの自宅を地図上に記せば、より明らかですよ。前野くんは、倉賀野さんの自宅に行ってから駅まで引き返すことになるのですから」
つまり前野は、倉賀野の自宅に行くため、自分の家に背を向けたということになる。
「あら」
すると、
「あらあらあら」
天知はわざとらしく声をあげた。
「それだともっと面白いことになりますね」
三浦は拳を握る。
「あなたもいま、同じことをしていますよ」
ならば、どういう状況なのかもわかっているだろう。なぜそうも余裕そうに笑っているのか。
「あなたも、電車通学なのに、駅前を素通りしてわたしのマンションまで来ています」
「それは、ストーカーが」
「わたしが初めて、あなたにストーカーの件を伝えたのは、ここですよ」
「……」
自然な流れで、会話の流れで、三浦は天知と下校を共にした。思えば、あのときおかしかったのだ。いつも天知から、別れの挨拶をしてくるのに。以前も、駅のロータリーで挨拶をしてくれたのに、あの日だけ、天知はしなかった。三浦は自然な流れとばかりに思っていたが、そこから、罠だったのか。
「それに、あなたは最初のストーカーを追いかけましたね。ですがなぜ、今回に限っては逃げを選んだのでしょう。次は捕まえると言ったのに、あのときは勇敢だったにもかかわらず、今日は逃げを選んだ。しかも、あなたよりも同等かそれ以上の脚力があるにもかかわらず、わたしの手を引いて無事、逃げ切れた」
天知は口許に指を当て、首を傾げる。惚けた。
「そういえば、あなたがたの作戦。……いえ、あなたの作戦に、まだ出てきていない人物がいますね。前野くん、それから岡部くん。彼らは、あなたの作戦上、どういう働きをこなしてくれるのでしょう」
最後のピースが、かちりと嵌まる音がした。
「もう、全部わかってるんだろ」
三浦はぶっきらぼうに言う。
「なにがでしょう」
「はは。その惚けた演技は、僕に自白をさせるため? そう、天知さんには残念ながら、証拠がない。壮大な妄想だ」
「ふむぅ。やっぱこうなるか。だから面倒なんだよなあ、人間は」
わけのわからないことをぼやいているが、けっきょくは、一理あるに留まる。疑いようのない、なにか物的証拠が出でもしない限り、限りなく怪しいなのだ。
法律的に言えば、疑わしきは罰せず、だ。
「全部知ってるんだけどなあ。ストーカーでわたしを弱らせて、寄り添い助言をするとそのストーカーがいなくなる。でも自分から離れていきそうならまたストーカーを使って、自分しかいないと思わせる、もたれ掛からせるっていうのが本当の作戦だってこと」
「なっ」
「なんでそれを!? って?」
三浦は自分の口に手を当てた。天知はけらけらと笑う。
「触らぬ神に祟りなし、って知ってるんでしょ? なら、そうすればよかったのに。わたしに触ろうとするから、そうなる」
「まるで自分が神だって言ってるみたいだけど?」
「ん? うん。だからそうなんだよ」
あっけらかんと、天知は言った。
「全知全能の神。それがわたしなの。わたしに知れないことはないし、わたしにできないことはない」
「は……?」
動揺や不安、必死に巡らせていた思考がすべて塗り潰された。真っ白になった頭に、大きな疑問符が浮かぶ。こいつはいったい、なにを言っているのだ、と。
「うん、まあ、そうなるよね。しょうがないよ。べつにあなたの理解力が足りないわけじゃない。そういう、ものなの」
あしらわれている。三浦はぎりと奥歯を噛み締めた。
ならば、と。
ならば、上等だ、と。
神様なら、なんでも知っていてなんでもできる神様なら、打ち返すことも容易いのだろう。
三浦の中に、どす黒い感情が溜まる。
「やめとけ」
はっとする。
壁に追い込まれた天知は小柄で実にか弱い女の子。軽く一捻りできそうで、いくら弁を弄そうと三浦が圧倒できそうで、視野は狭く、拳は支配欲を握りしめていた。そこを、意識の外から呼び止められる。
三浦の肩に、手があった。ふり返れば、そこには、前髪を掻き上げ、額に薄らと汗を滲ませた、例の天理がいた。彼は、反対の手で、前野と岡部の襟を掴んでいた。ふたりは完全に意識を失っているようだった。
「かいくんそのまま捕まえといて!」
かいくん……? と隙を突かれた。気付けば、天知の手元に、三浦のスマホがある。
「1124。誕生日なんて不用心だよ~」
ロックも、天知の前では意味を成さないらしい。
「返せっ」
そう吠えるも、天理が肩を離してくれない。
「うわぁ、証拠がいっぱい。前野くんから、倉賀野ちゃんの家が送られてる。そ、れ、に~」
がさごそと、天知は無遠慮に三浦のカバンを漁った。
「じゃじゃん」
そう出てきたのは、三浦も知らないもの。
「初めてストーカーを追いかけていったとき、カバン置いて行ったでしょ」
たしかそれは、レコーダー。録音機と呼ばれるものだったはず。
「このふたつが、証拠になる。違うかな?」
三浦はもう、何も言えなかった。
忠告の二文字だけが、天理の目を見ると浮かんでくる。
前髪に水を感じた。梅雨を思い出したかのように、雨が降り始めた。




