紫月が成仏しないためにも!
円形に広がり包囲網を展開した直毘神こと爾小。
誰かひとりを狙えば、誰かひとりに無防備な背を向けることになる。
たとえ本物と分身の見分けがついても、肉薄するまで間に合うかは怪しい。
かいくんはそれがわかっているからか、動かなかった。いや、動けずにいた。途端に静かになる。静寂の空気が流れる。その隙にかいくんが息を整えられていることが、せめてもの救いか。
「……」
柄に手をかけ、地面から引き抜く。
構えらしきものを取ると、爾小の攻撃が始まった。
背後から放たれる水の渦。かいくんはふり向くと剣で一刀両断した。しかし、ふたたび背後から、つまり先ほどまで向いていた正面から、すでにもう、水の渦は迫っている。
「……!」
なんとか、連撃のように身体を流して横払いで真っ二つにする。だが、左右からも迫っていた。ほとんど同時攻撃のようなふたつの渦。どちらを対処するか、一秒にも満たない迷いの瞬間が命取り。
「……っ」
かいくんは転がるようにして回避を選んだ。だが崩れた体勢では、追撃に構える余裕がない。
「……ぐぁっ」
脇腹を攫われる。吹き飛ばされたかいくんの顎に水の弾丸がクリーンヒット。
諸に喰らったかいくんは受け身も取れずに背中から地面に墜落した。
「あ……っ!」
小さく、紫月が悲鳴をあげた。
僕は、固唾を飲む。胸は呼吸で膨らんだ。息はしているらしい。死んではいない。
「はあ…………はあ」
ここからも聞こえる大きな呼吸の音。
爾小が無防備なかいくんに猛攻を仕掛け、トドメを刺すことはなかった。
まるで立ち上がるのを待つのように、爾小は攻撃の手を止めている。
「ふぅー……」
そう息を吐き出すと、かいくんは膝を曲げ、手を突き、身体を起こす。
真冬でずぶ濡れは身体が冷えるだろう。凍えるほどの冷たさ、体温の低下はあるはずだ。それだけでなく、水分を含んだ服と一緒に身体を、あれだけ素早く激しく動かしているのだから、無尽蔵の体力があっても起き上がるのは苦痛を伴うものだったはず。
かいくんの身体には、やはり目立った外傷はない。瞳にも、苦痛の色はない。しかし。
「なんでそこまでする」
問うたのは、爾小。
「さっきも言ったでしょう」
おそらくかいくん自身も、言いながらわかっているだろう。いまのこの問いは、同じ問いであっても毛色が違う。
ふるふると、爾小は首を振った。
「さっきのは直毘神としての質問だ。一個人として、訊く。なんでそこまでする。お前のそれは、正しいと言えるのか?」
「どうでしょうね」
かいくんは、前髪を払った。
「正しくはないと思います。直毘神であるあなたが、彼女を祓おうとする。それはつまり彼女は正しくない存在であるということ。たしかに、死者は黄泉の国に還るべきです。中つ国にいるべきじゃない。爾小さん、あなたは正しい。
でも、俺は自分の行動が、間違ってるとは思いません」
爾小は鼻で笑った。
「言葉遊びでもしてたか?」
「いえ。真面目です」
真面目に相応しい真顔になった爾小。
「だったら真面目に答えろ」
そう凄む。
突如として、かいくんは剣を持ち上げた。僕にはそれがどんな意味があるのかわからなかったが、現実に結果として現れた。
「くっ……」
水ばかりが飛び交っていたこの争いに、初めて血が現れたのだ。
かいくんは左肩を押さえる。それでようやく、僕はあのほとんど認識できなかった細い線が、爾小の仕掛けた攻撃だったのだと悟った。かいくんはそれを防ごうとして、間に合わず、超高速の水線を肩に受けてしまったのだ。
いまやかいくんの左肩には、小さな穴が空いていることだろう。
直毘神に渡り合えていたのは、どこか直毘神による手加減があったからなのかもしれない。
無色透明で月夜と夜空を反射する水溜まりに、赤い液体が混じる。
「あそこの女、萬好紫月だったものは、生前、人を殺している」
暴露された。
紫月が動揺を顕わにする。が、
「知ってますよ、それぐらい」
かいくんは至って冷静だった。
僕ですら最近知ったことなのに、なぜ知っているのか。どうやって知ったのか。知られていることに僕も紫月も更なる動揺に襲われた。
「ウチには、まあ、優秀な探偵がいるので」
「インチキ探偵だろ」
返す言葉もない、とかいくんは苦笑いした。爾小は続ける。
「しかもあいつが殺したのは自分の両親だ。両親をふたりもその手にかけた」
「ええ」
「それだけじゃない。隣人の、彼氏の、引き取ってくれた義父まで狙っていた」
「ですね」
「死んで自分が達成できないとなると、他人を利用した。彼氏に、義理の兄妹に、自分の父親を殺させようとした」
そう訊くと、たしかに、紫月はとんでもない悪女だ。
「死して尚、生者の命を弄ぶ。とんでもない悪霊だとは思わないか?」
「否定はできないね」
紫月が暗い顔をしていた。僕が代わりに答えてやる。すると、
「ちょっと」
なんて言って、すこしだけ明るくなった。
「そうですけど、でも爾小さんは知らないでしょう。べつに彼女は父親まで殺そうとは思わなかった。母親だけが狙いだったこと」
「……両親殺しが母親殺しになったところで、親殺しであることには変わりない。イザナキが聞いたら憤慨ものだぞ」
イザナミはカグツチという神様を産もうとしたとき、その炎が燃え移って死んだと言われている。そしてイザナキは、イザナミを、母を殺したカグツチをその場で殺すのだ。
母親を殺した紫月のことを、イザナキが知れば許せないかもしれない。
「でも、それは母親にも落ち度があった。それを爾小さんは、知らないでしょう」
一体、彼はどこまで知っているのだろう。僕たちが腹違いの兄妹であることも知っているのか。そうでないと出てこない発言だ。
「落ち度があったら人を殺していいのか。人間社会は、いつから感情論になった」
「もちろん、よくありません。ですが、殺意をまったく持たない、というのも人間としてはおかしな話です。直毘神風に言えば、正しくない」
僕は父に殺意を抱いた。それだけのことを、僕らはされたのだ。
もしもあそこで包丁を突き立てて父の命を奪っていたとして、僕は反省するだろう。罪を償う。決して人を殺さないと誓う。でも、それは後悔を意味しない。
自分の殺意を肯定こそしないが、否定もしない。僕を裏切り、母を裏切り、紫月の父も裏切り、紫月の存在を汚し、僕らの未来を潰した父を、恨まずにいられるか。許せるとしたら、僕はその人を同じ人間とは到底、思えない。
「つまり?」
風向きが変わったか。
直毘神は、正しい存在。その神に正しさを説き、正しくないと説教するのは勘違いも甚だしい、傲慢が過ぎると一蹴されそうなものだが、ウケヒの途中ということもあってか、直毘神がかいくんを屠ることもなかった。
「これは人間の問題だ。神様の時代は疾うに終わった。俺たちはあなたたちが思っているほど無知で蒙昧なただの葦じゃない。萬好紫月はその命を失うことで代償を支払った。萬好紫月はまだ、誰も殺していない。悪霊と断定するのは早計だ。
たしかに、彼女は正しくないのかもしれない。しかしこの先、彼女は正しい存在になるのかもしれない。その可能性はある。正しいか正しくないか、正しくなるのかどうか、その判断は自分で持てる。その責任も負える。それが人間だ。だから神様、あんたらは、お呼びでない」
かいくんは緑のカーディガンを脱ぎ捨てた。長袖の白シャツは、左肩からじんわりと赤が滲んで広がっている。
「責任を負える? いったい誰が。近い内、あれが悪霊と成り果て、手に負えなくなったとき、誰が責任を負う。それから、あの萬好芳樹が父親を殺さないとは言い切れないだろう。人間とはそういうものだ」
「いいえ。萬好は父親を殺しません」
強く言い切る。
「ほう。なぜ?」
「当たり前でしょう。だって」
かいくんがこちらを見てくる。僕はその瞳から、意志を受け取った。僕は一歩前へ、朝礼台に立って、宣誓する。
「僕は、誰も殺しません! 絶対に!」
すっと細まる爾小の目。僕に視線が向かうと、心臓が掴まれたかのような錯覚に陥る。これでよく、かいくんは大立ち回りができたものだ。
なぜ、僕は仇にも等しい憎き父を殺さないのか。そう言い切れるのか。
爾小にきちんと届くよう、大きく息を吸った。
「なぜなら、それが紫月の現世に留まる理由だからです!」
爾小が首を傾げたように見えた。真下では、美音が緩やかに口角を上げている。かいくんは予想通りと引き締めた顔つきのままで、それでいいと後押しされているようで、いきなり自分の名前が挙がった紫月は話が読めないとてんやわんやしている。
「紫月がいま、この現世である中つ国に留まっている理由は、僕の父をまだ殺せていないからです! 僕に殺させようとしたのも、自分ではできないから、僕に代わりにやらせていたからです! つまり! 紫月は僕の父が生きている限り、成仏しない!」
これが、僕が父を殺さない最大の理由。
「たとえ僕は! 生者と死者であっても! 触れ合えなくても認められなくても! 紫月と一緒ならそれでいい! だから! 紫月が成仏しないためにも! 父には生きていてもらわないと困るんです!」
僕の父を殺すこと、僕の父が死ぬこと。その瞬間が紫月の死期で、それが紫月の心残りで、それが紫月の死ぬ理由なのだ。
紫月は嫌だろう。ずっと恨みを抱えているのだから。だからこれは僕の我が儘だ。
「もしも紫月が悪霊になったら、そのときは僕が責任を持ちます! 何でもします!」
「ただの高校生のガキに何の責任が持てるっつうんだ。何でもしますほど信用ならない言葉はない」
「俺も責任は持ちますよ」
「なんでお前はそこまで肩入れする」
それは僕も気になっていることだ。
「言いだしたからには、それぐらいは」
微妙に返答にはなってない気がする。
「まあ、いい」
かいくんは袖を捲った。
「どれだけ御託を並べても、美辞麗句で着飾っても、私がそれで頷くことはない。いまのはただの雑談に過ぎん」
そう言われると、力が抜けてしまう。いままであんなに大声を張ったことなんて、一度もないのに。それを雑談だなんて。
「お前の神意が真であるか、そしてそれをなし得るだけの力が備わっているのか。上っ面の口八丁でないかは、このウケヒが証明してくれる」
腰から座り込んでしまう。疲れた。僕よりも、よっぽどかいくんのほうが疲れているだろうに。
「かっこよかったね。惚れ直しました」
褒められた。たぶん、喜んでもらっていると思う。紫月の照れた、キュッとした笑い方に、僕も恥ずかしくなってしまう。
「いや、そこまでじゃ」
「素直に受け取るべきだ」
美音にそう言われる。けど、
「僕よりよっぽど、かいくんのほうがかっこいいですよ」
かいくんは十拳の剣を握る。握り直し、感触を確かめるようにする。
「まあ、たしかに」
「……おい」
そこは、そんなことないよ、と言うべきだろう。すくなくとも、紫月が認めてはいけない。
……そうして、かいくんと爾小は、激突した。




