中途半端でも
足の勝手に任せれば、よく知った場所に行き着いてしまう。僕は閉ざされた校門を乗り越えて、夜の高校に忍び込んだ。
「だ、だいじょうぶ……?」
あの女が追ってくるかどうか、校舎の壁に潜んで校門付近の様子を探っていると、紫月が鼻を啜った。
「あ、あぁ……うん。まあ、なんとか」
とは言ってみるけど、強がりだ。高校に忍び込んだのも、逃げるのは無理だと判断したから。
そもそもいまは僕は裸足だ。これだと走りにくい。仮に万全の装備と気持ちがあって、コンディションが最高だったとしても、逃げられる自信を持つほど体力はない。そこにこの傷。腕の火傷は風に触れるだけで、何千という針に串刺しにされているような激痛が走る。
だから僕は、逃走から身を隠すことに切り替えたのだが……、
「……まずい!」
なぜ、ここだとわかるのか。
女は校門を片手でひょいと乗り越えてしまった。僕は男であっちは女だけど、純粋な筋力でも勝てる気があんまりしない。
「逃げよう!」
もう一度、僕は走り出す。けど、痛い。肩が、身体が、どこかが、重い。
「はぁ、はぁ……」
汗が滲む。腕が振れない。
「な、何なの……? あの人、何なの……?」
「……ゴーストバスター、とか?」
「ふざけてる場合!?」
「べつに、……ふざけてない」
「え……?」
視界がぼんやりしてきた。
だから僕は、考えていることを一旦精査する間もなく、考えている通りに、言ってしまう。
「僕が狙いなら、さっきの攻撃で僕は殺せてた。あの攻撃は、紫月を狙ったものだったんだと思う。じゃなきゃ、……はぁ。紫月が見えるっていうのも、よくわからない」
「な、なんで……」
そのなんで、とは、どこに対しての疑問だろうか。
紫月が見えるということに対してなら、
「紫月が、幽霊が見えるからそういうことを生業にしているのかな」
ゴーストバスターだから見える、というより、見えるからゴーストバスターになったって感じなんだろう。
紫月を狙っていることに対してなら、
「……まあ、幽霊が現世に留まっているのは、いいことだとは言えないからね」
僕からすればこの上なくありがたいことだったけど、それは結果論だ。天知さんも言っていた。悪霊が、とか。ゴーストバスターの彼女からすると、紫月は悪霊という判定なんだろう。
「僕にとっては、最高だけど」
あくまで一般論であって、僕の意見ではないと言っておく。
「それに、狙いが紫月なら、僕らにとっても好都合だ」
「な、なんで」
なんで身構える。僕がひとりで逃げるとでも思っているのか。
「……あの人は、僕を殺さなかった。攻撃を逸らした。僕を殺せないんだ。つまり、僕という盾を、あの人は壊せない」
どれだけ強く鋭く頑丈な剣であっても、その盾に振り下ろせなければ決着はつかない。盾に勝ちはないかもしれないが、負けも訪れないのだ。
「……」
……そうなるとべつに逃げる意味もないのか。
紫月の疑問に答えていると、僕は新たな気付きも得られた。
立ち止まる。反転する。校舎の角から、女性は姿を現した。
赤毛でレザーのジャケットがよく似合う女性だった。誰にも何にも媚びないような孤高の存在で、コマクサのような魅力がある。僕も紫月も等しく見下す高慢な態度だったけど、嫌な気分にはならない。彼女がそうしなくて他に誰がする、といった感じだ。
「よ、芳樹……逃げようよ」
僕は紫月を背中に庇うようにして、紫月は僕を引っ張るようにする。でももちろん、僕が紫月に引っ張られることはない。
「観念したか」
なかなか、声だけで謙りたくなる人というのは、いままでの人生でいなかった。
「な、なにが目的ですか」
僕は喉も舌も唇も渇いていると自覚した。声は上ずっていたかもしれない。
僕の言葉なんて聞き入れてくれないかと覚悟していたけど、意外に、問答無用と迫ることはなかった。
「そこに、いるだろ。萬好紫月。そいつを置いて行け。お前に用はない」
「なんで紫月を狙うんですか」
すると彼女は首を傾げて、眉を寄せた。そして然も当然とばかりに、こう言う。
「萬好紫月は死んだんだ。死者は死者の世界へ。そいつにとっては相応しい場所がある。お前も、お前も、一緒にいるべきじゃない」
言い返せなかった。
僕は生きていて、紫月は死んでいる。なのに、僕らは一緒にいる。
僕はこの中つ国で、紫月は黄泉の国で、それぞれあるべき居場所にいないと、いけない。
「中途半端なことしてると、中途半端になっちまうぞ」
紫月が現れてから、僕は生死の境目を失いつつある。人の命を、人の死を、どこか軽く扱っている。それは、自分も例外じゃない。
仁にボコボコにされて、半殺しにされて、僕は喜んだ。これで計画が上手く行く、と。痛みは度外視だった。自分の命を守るため、痛みを避けることをしなかった。死んでもいいとすら思っていた。罪を重くできるなら。破滅させられるなら。
仁たちの人生も、軽々しく壊そうと思っていた。事実は勘違いだったのに、僕は思い込みで仁たちの人生を破滅させようとしていた。
紫月が両親を殺したと訊いても、それはいけない、だとか、紫月は間違っている、だとか、怒りや正義感を持つことはなかった。僕の父の殺害を計画していてもその計画の過程や成否ばかり気にしていたし、紫月の死の原因となった僕の父を殺すことを躊躇したのも、命の尊さが理由ではなかった。
僕の価値観、倫理観は、狂い始めている。
「わかったなら、ここから去れ。安心しろ。痛みはない」
僕が言い返せないでいることを、彼女は理解したと思ったようだ。
たしかに、僕の価値観や倫理観は狂っている。でも、それを直そうとは思わない。正すべきことだとも思わない。
「すみません。それは無理です」
「あ?」
「正しい世界に紫月がいないなら、僕は中途半端でも紫月のいる世界がいい」
拳を握った。腹に力を込めた。だからどうか、退いてほしい。
「……」
彼女は、一度自分の頭に手をやった。長い赤毛を手で梳くようにして、
「じゃあ、お前らは一緒だ」
今度の水は、ダムよりも水量が多く、海の満ち引きよりも激しい勢いで、迫ってくる。加減はない、躊躇もない。飲まれれば今度こそ、ひとたまりもないだろう。でも、それでいい。
「ありがとう」
「うん」
僕は紫月と一緒だ。今度こそ、最後まで、一緒だ。
「あたしはこっち!」
そう思って目を瞑ったのに、僕は目を見開くことになる。紫月の声が、後ろからではなく、校庭からしたのだ。
「紫月!」
校庭に走ったけど、目の前にはフェンスがあった。紫月ならすり抜けられるフェンスでも、僕は迂回しなければならない。その隙間は、幽霊以外にも水は通り抜けられる。
「ふん。見上げた精神だ。救われたな」
救われたくなんかない。
あくまでも彼女の狙いは紫月。迫ってきた水は、意志を持つように方向を変えた。僕はその水に身を投げるようにして、紫月との間に入ろうとする。
死ぬなら一緒に。
だが、僕の足はもつれた。まるで、何かに足を引っ張られたような……。
目を足へやる。……水だ。少量の、顔を洗う程度の水が、僕の足を引っ張ったのだ。
女は、這いつくばった僕を冷めた目で見下す。
「やめろ!」
立ち上がったときにはもう、紫月の眼前にまで水が迫っている。残り一秒もない。
刹那。
「……ぁ」
よく、わからなかった。
僕の喉からは、声にならない音だけが漏れる。
とにかく、紫月はまだ無事だった。それだけは、明らかだった。
空から降ってきた剣が、紫月を飲み込もうとする水の首を両断したのだ。




