に、逃げよう!
「お父さん、探しに行かなくちゃ」
「べつに、どうでもいいよ」
「死んじゃったらどうするの」
「たしかに……」
勝手にどこかで、それこそ事故にでも遭ってたりしたら困る。
「はぁー」
面倒くさいけど、あいつには生きててもらわないと困る。紫月のためにも、僕のためにも。
皮肉なことに、僕が紫月と一緒にいるためには、僕の父が生きていることが必要なのだ。
「お前が、萬好芳樹か」
玄関の向こう、自宅の塀の向こう、鍵もない鉄柵の向こう。歩道にぽつんとひとりの女性がいた。こんな時間に、何の用だろう。
「はい。そうですけど……」
どちらさま? と訊く前に、彼女は、
「で、そこにいるのが萬好紫月、だな」
まっすぐ、紫月の場所を見ていた。紫月の姿が、幽霊の姿が、見えていた。
嫌な予感と、すこしの恐怖で答えられずにいると、
「どうなんだ。答えろ」
苛立ちを含ませた様子で、急かしてくる。
「そ、そうですけど……」
そう紫月が認めた瞬間、彼女は水を放ってきた。
いや、それは水、なんて生易しいものじゃない。消防士が火災に向けて放つような放水よりも勢いがいい。飲まれればひとたまりもないであろう激流、奔流、怒濤のそれらがどれも相応しい水が、僕らに放たれた。
「ちっ」
僕らは動けなかった。でも水に飲まれて溺れることもなかった。
僕らの目の前で、水は何か壁に遮られたかのように防がれていたのだ。制服の胸ポケットを探る。それは、あのわかめ男にもらったお守りだ。そのままにしていたそれが、この壁を作っていると、僕は本能的に理解した。
「に、逃げよう!」
「に、逃げる!? どこに!?」
「わからないけど!」
これまた本能的に、僕は逃げた。逃げないと、まずい気がした。何か、得体の知れないバケモノを相手にしているような、畏れがあった。
消防士が消防車とホースを持ち出さないと水を放てないというのに、そのホースもふたりがかりでも慣れないと制御できないというのに、それ以上の水の勢い、水量を片手を上げただけで放てる人を見て、畏れを抱かず逃げようとも思わない人間はいないだろう。
僕は裸足で、リビングの掃き出し窓から外に出た。塀を乗り越えて裏から逃げる。
「お、追ってきてるよ!」
紫月がふり返って状況を伝えてくれた。けど、
「なんで!?」
「わからないよ!」
僕らの名前を呼んだ。僕らであることの確認をした。ちゃんと、萬好芳樹と萬好紫月が狙いだってことだ。でもなんで!?
なんで。
なんで。
その問いは、考えてわかることではない。僕は頭よりも、足を動かした。
必死に、住宅地を駆け回る。僕は全速力で、汗を掻いて息を切らして肺を破っているというのに、あの女性の姿は消えない。
頭ではなく足ばかりを動かしていれば、僕の足はいつものように慣れた道を辿っていた。一日に二回、行きと帰りに使う道。登校と下校に使う通学路。行き着く先は、わかりきっていた。
「……あっ!」
僕は、自慢じゃないけど運動ができない。体育祭はやりたくない派の人だし、やりたい人だけがすればいいと思っているし、なぜ球技大会があるのに体育祭もあるのかと疑問に思っている。
僕の体力は、通学路の片道すら持たない。結果、転んでしまう。
体力のすくなさはもちろんだし、よくわからない本能的な畏れもあるし、裸足だから、というのもある。僕の足裏には、小石が埋まっていた。
転んで一瞬、怯む。その隙を、あの女は見逃さなかった。
「……ダメ!」
紫月が僕の前に出た。水が迫ってくる。紫月が、僕の身代わりに。僕の盾になっている。
また、僕は何もできない。
「……くっ!」
畏れを抱えたまま、僕は突撃した。
僕は紫月に触れられない。紫月もまた、僕に、この世のものに干渉できない。なら、僕の前に身を盾にする、なんてこともできない。
紫月の背中に突撃する。僕は紫月をすり抜けて、紫月よりも前に出た。
「よしき……っ!」
僕の視界が水でいっぱいになる。滝壺に飛び込んでも見られない光景だろう。決壊したダムとでもいうべきだろうか。
水が僕に触れる。僕は歯を食いしばって、目を強く瞑り、身構えた。
「ちっ」
しかし、僕が水に攫われて溺れることも、上下左右がわからなくなることも息苦しくなることもなかった。
「あぁ……っ」
残ったのは、火傷。水に襲われたにしては残る結果が不釣り合いな、火傷。僕の肩口から先は服が焼け落ち、肌も腕全体が赤く爛れている。
熱い、というより、沁みた。まるで、傷口を海水に浸したような。
遠くに、女はまだいる。
何かに邪魔された、といった感じではなかった。水が自ら、左右に分かれたように思えた。そうであるなら、彼女は、どうして、……僕の目の前で、水を逸らした? ……まさか。
紫月が、僕の傷の惨状を見ておろおろしている。触れることもできないし、そもそも触れてはいけないだろうし、と、僕の側で膝を折って、いまにも泣き出しそうにしている。
「……い、行こうっ!」
僕は紫月の背を守るようにして、ふたたび走り出した。




