僕、なにして……?
それで家に帰って、リビングで呆然自失とへたり込んでいる父を見て、僕は包丁を握っていた。
リビングの周りだけは、父がずっといるので片付けもできなかった。書類とか、お皿とか箸とかいろんな物がその辺に散乱している。皿の上には微妙に食べ残しがあって、あれはもう食べないのかどうかわからない。
丸まった背中、ずいぶん小さくなった背中、後ろからでもわかる痩せてやつれた姿。僕はその父に、殺意を抱いて包丁を握っていた。
「よ、芳樹……?」
紫月が、何かを言っている。
おかしい。
僕は、父を殺さないことに決めたのだ。殺してはダメなのだ。殺したら……。
なのに、家に帰ってから、僕の父を見てから、この衝動が止められない。殺意がほとんど無意識に、キッチンから包丁を取り出していた。
紫月が遠のいていく。父も遠のいていく。そこは、家でもなかった。
包丁を握って、殺意と理性の間で揺れる僕だけが、いた。
「理不尽だと思わないの?」
すると、囁くような女の子の声があった。僕はなぜか、
「あ、天知さん……?」
と、言っていた。
辺りを見渡す。
真っ黒な謎の空間に、天知さんの姿はない。あの声も、天知さんよりも低い声だ。なのに、どうしてか、僕は天知さんだと思ってしまった。
「よーく、考えて」
声は、続く。
「あなたはあの子と幸せな人生を歩むはずだった」
謎の空間に、理想の未来図とでもいうべきかそれが、映し出された。
成長した僕と、成長した紫月。結婚式を挙げている。子どもがいる。
「でも、それは、壊された」
亀裂が走る。
「あっ!」
僕は声を上げて、バラバラに砕けた破片のようなものを拾い集めようとした。でも、破片は僕の手に触れると砂のようにさらりと溶けて、風に攫われてしまった。
「あなたたちは、最初から、ダメな存在だったの。認められない存在だったの。それは誰のせい? 誰が悪いの? あなたたち? ……ううん。いまそこにいる男のせい」
……そう。僕らは、この男のせいで、どう足掻いても結ばれない存在になった。そういう星の下で誕生してしまったのだ。産まれたその瞬間から、僕らは、世界に認められない存在だった。
「しょうがないよね。どうやっても、何をしても、あなたたちに幸せな未来はない。ふつうの未来もない。しょうがない。誰だって、殺してしまう。あの子は悪くない。あっちが先に、幸せを奪って壊したんだから、同じことをされても、文句は言えない。あなたが殺してしまうのも、しょうがない。ううん。むしろそれで、帳尻が合う。あの人はそれでやっと、償いができるの」
そう。生きていればいいことがあるとか、復讐は何も生まないだとか、そんな綺麗事があるけど、そうじゃない。いまが辛いのにどうして先の話をするのか。いまの辛さを解決するための復讐は、生きる原動力を生む。復讐はマイナスを0に戻す作業だ。復讐を遂げてやっと、何かが生めるのだ。
紫月は、奪われた。僕も、奪われた。なのになんで、こいつは何も奪われない。地獄を生きる? ……違うだろ。死んで、地獄に落ちるべきだろ。
「未来はどうなるかは、誰にもわからない。あなたが地獄を生きてほしいと願っても、もしかしたら誰かがあの人を支えてしまうかもしれない。希望を見出してしまうかもしれない」
「それはダメだ!」
紫月の幸せを奪って、未来を奪って、命を奪って、なのにこいつだけ希望を見つけるだなんて、そんな未来、あっちゃいけない。あってたまるか。
「絶対に、そんなことは許さない」
「だったら、いまの内に殺さないと。いま、殺さないと」
そう。いま殺さないと。いま殺せば、そんな未来は絶対に訪れない。
「ほら」
空間がすこし開く。やつの背中だけが見えた。首の裏に、この刃を突き立てる。それだけで終わる。簡単なことだ。
「大丈夫。すぐに終わるから」
すこしずつ、近づいてくる。無防備な首裏。
僕は包丁を掲げて、その首裏に、まっすぐ振り下ろす。
「芳樹!」
「……!」
はっとする。
声が、聞こえた。……気がした。
僕の包丁は微妙に軌道がずれてしまったようで、テーブルに突き刺さっていた。やつの耳の横を通って、だんっ! と。
「ひぃい……!」
やつはそれでやっと、気付いたようだ。渇ききった瞳に、誰かが映っている。……それが僕だって気付くのに、すこし時間がかかった。
その隙に、やつは玄関から転がるようにして出て行ってしまった。
「あーあ。ほら、逃げちゃったよ。いいの? 追いかけないの?」
「逃げた……殺さないと」
「うんうん」
包丁を引き抜いて、
「芳樹!」
玄関に出る。
「芳樹!」
扉を押すと、目の前に、いた。紫月が。
「……あれ」
僕は、我に返った。
「うわっ。……え? なんで包丁?」
僕は包丁を握っていた。なんでだ。怖くなって、無意識に手を離してしまう。からんからん、と包丁は地面で跳ねた。
「え。え。……え? なんで、紫月……泣いてるの?」
思い返すと、紫月の泣き顔というのは、初めて見たのかもしれない。
「あれ……」
なぜか、視界がぼやけてる。
「はは……っ」
なんで僕も、泣いてるんだろう。
「はは、……はははっ」
「怖かった」
「ご、ごめ……僕、なにして……?」
「怖かった……!」
「ご、ごめんって」
紫月は腕を広げてきた。
紫月の泣き顔は初めて見たけど、紫月が泣いているところは、これで二度目か。
僕が紫月に告白して、晴れて恋人になって、帰ってからすぐ、僕の家に来た紫月も、こうして泣いていた。
笑って僕の胸に飛び込んできた紫月を、僕は強く抱きしめた。紫月は僕の胸に顔を隠して、たぶんきっと、泣いていた。
『幸せすぎて涙が出る』
なんて笑いながら言ってたけど、本当は、あの日もこうやって、怖かったんだろう。
僕は紫月を、抱きしめた。




