紫月は事故で死んだ
仁は乱暴に僕へ紙を押し付けてきた。もう見たくない、と。まるでそうすれば、その事実がなかったことになるとでも言いたげに。
「つまり、どういうことだ」
「僕の父さんと、紫月の母の間にできたのが紫月で、僕は父さんと母さんから産まれた」
「あれか。托卵ってやつか」
「どうだろうね。でもまあ、不倫関係にあったのは明白だよね」
そういう行為がないと子どもは産まれない。そういう行為があったということは、そういう関係性にあったということだ。
「確認しようにも、僕の母も紫月の両親も死んでる。残ってるのは僕の父だけだけど……あれじゃあ、ちゃんと反応してくれるかもわからない」
まるで自分の娘が死んだように悲しんでいた僕の父は、本当に娘を失っていたってわけだ。
「まあ、仁からすればよかったんじゃない? 僕と紫月は兄妹。結ばれたらいけない存在だった。付け入る隙はあったってことになるよ」
「本気で言ってたら本気で殴るぞ」
「ごめん。冗談」
「つまんねぇよ」
まったくだ。殴られたほうがよかったかもしれない。
深々と息を吐き、頭を抱えた仁は、言う。
「けど、母親は違ぇんだろ? その……ダメなのか?」
「法律的にはアウト。結婚はできないね」
もう一度、仁はため息をついた。
僕はすこし、不思議に思った。
「そこまで仁が落ち込むことなの?」
付け入る隙がある! とは思わなくても、僕と紫月が兄妹だったってだけで、そこまで感情を荒立てるのか。
「当たり前だろ。……好きな人の不幸だ。これ以上ないだろ。……あぁ、胸糞わりぃ」
「やっぱり仁っていい奴だね」
「お前をボコボコにしたのに?」
「ボコボコにしたのに」
僕だって同じことをした。物理的に肉体的にいたぶったか、社会的に精神的にいたぶるかの違いでしかない。
「それで、汚れすぎている……の件だけど、仁はこの意味、どう解釈した?」
「そりゃあ……そういうことだろ。言わせんなよ」
「うん。僕の父さんが紫月に乱暴した、って意味だよね。でもさ、べつの意味もあるよね。べつの意味でも、通じるよね」
「どういう意味だ」
「足を洗うっていうじゃないか。手を汚す、ともね」
「それは、犯罪的な意味か」
「うん」
それも、僕らの描いている構図は逆転する。
「この場合は、紫月が加害者だ」
紫月が犯人。紫月が何かをして、手を汚した。汚れすぎているということは、すでに、取り返しのつかないことをした、ということだ。
「僕と紫月が兄妹だった。母親違いのね。それを知ると、いままでの見え方がすべて変わってくる。紫月がどんな思いを抱いていたか、どんな行動に出たか。あの交差点に行く理由が何だったのかも、ようやくわかった」
催促はなかった。けど僕はその目から訊かれているのがわかった。あるいは、俺に言っていいのか、と仁は訊いていたのかもしれない。ここまでくれば、仁でもある程度、話は読めているだろう。
「あの交差点は、紫月の両親が死んだ場所だ。紫月の両親の事故……あれはきっと、紫月が仕組んだものだ。そして、紫月は僕の父のことも殺そうとしていた。あれはその下見でもあったんだ」
「下見……」
そこまでは考えていなかった、と小さく口の中で、仁は繰り返した。
「けど、事故だったんだろ? 事故だったってことは、その……事件性がないって警察が判断したってことだろ?」
「紫月の両親の事故、あれは飲酒運転によるものだった。紫月の母が、紫月の父を迎えに行った帰りのことだったらしい。これはあくまで僕の見立てでしかないんだけど、紫月の母はお酒を飲まないんだ」
元々弱いのか、そもそも好きじゃないのか、よくわからないけど、僕ら家族と夕飯を囲んでも、遠くで旅行をしても、あの人がお酒を飲んでいる姿は見たことがない。なんで覚えているかっていうと、僕の父と母、それから紫月の父がお酒で飲んで潰れているのを布団まで運んでやるのが恒例だったから。
「でも、警察とか赤の他人はそんなこと知らない。仮に不自然に思っても、中学生の娘が証言してしまっては、嘘だって暴こうとはなかなか思わないよね」
「……紫月が飲ませて、紫月が嘘の証言をして……」
「たぶん、そういうことなんだと思う」
事故に見せかけて、紫月は殺した。手を汚した。父も母も殺した。だから汚れすぎたのだ。ふたりも殺したのだから。
「下見……ってのは?」
「仁だったらどうする? 好きな人が……それこそ、紫月と兄妹関係にあって、結ばれてはいけない存在だったら。それも、親の不貞行為が原因だったら」
「……憎いな。殺すのも、まあ……理解できる」
それは、行動に出た紫月への最大限のフォローでありながら、最大限の非難でもあった。僕だったら紫月と同じことをするけど、仁はしないらしい。やっぱり仁は人徳者なのだろう。
それか、僕と紫月にはやっぱり同じ血が流れているんだ、というべきか。
「僕は、その両方を殺すと思う。子どもが産まれるには男と女が必要だ。でも、紫月が殺したのは母だけだ。僕の父にも責任はある。のうのうと生きていて、許せるはずがない。だからって、紫月が殺せるはずがない。包丁を持っていても、相手は男だ。抵抗される。寝室に忍び込む……っていうのもあるけど、僕はちょっと、寝ている父の上に馬乗りになって、返り血を浴びる紫月ってのは、想像したくない」
弱々しく笑ってみせると、仁は肯定もしなかったが否定もしなかった。
そんな可能性は充分にあるけど、僕はそう思いたくない。ただの願望だ。ただの願望でも、わかってくれるらしい。
「そうなると、誰かに殺してもらうしかない。なら、一度成功してるやり方をするしかない。場所の下見をしていて、死んでしまった」
僕らに何度も嘘をついていたのは、ほかにもいい場所がないか探していたのかもしれない。利用できる何かがないか探していたのかもしれない。でもけっきょく、同じ場所に戻ってきた。
そこで、本当に事故に遭ってしまったのは、なんて皮肉な運命なんだろう。
「ってことは、……紫月が死んだのは、事故だったのか?」
「うん」
僕は、深くため息をついた。
「本当に本当に、紫月は事故で死んだ。避けようとすらしなかったのは、……運命の力みたいなものを感じたから、らしい」
「……」
両親が死んだ場所で、次の計画を立てていたときに、両親と同じ方法の事故に遭遇してしまった。まるでそういう力が働いているようで、世界が帳尻を合わせてきているかのようで……お天道様は見ている、と思えば、そこで死ぬのが運命のように思えて、動けなかったらしい。
僕はもう一度、深いため息をつく。手すりに乗せた腕に、顎を乗せる。顎を乗せて、顔を埋める。
チャイムが、鳴った。




