……何も見えないなあ……
僕の瞳を見て、仁はすこし動揺すると、逃げるように顔を横断歩道へ戻した。
「紫月は誰かに殺された、って言いたいのか」
「まあ、実際にそうなんだけどね。飲酒運転の車が信号を無視して、かなりスピードも出てたらしいから、そいつに殺されたんだけどね」
でも、僕が言いたいのはそうじゃない。仁ならわかるだろ?
「この横断歩道は、決して狭くない。見通しも悪くない。信号無視で直進してきた車がいて、しかも飲酒運転となればある程度、危険だってわかるはずだ。なのに紫月は、回避もしなかったらしい。犯人は罪から逃れるための言い訳かもしれないけど、ほかの通行人や目撃者も、紫月は避けなかったって言ってた。ただの事故じゃないはずだよ」
回避しなかったのが回避できなかったのなら、それだけの理由を作ったやつが犯人と言っても間違いではない。
「……まあ、たしかにおかしいよな。そもそもひとりで出掛けるだけなら、俺に嘘をつくのはまだわかるけど、お前に嘘をつくのはよくわからねえ。お前の束縛が激しかったとかじゃなければな」
「束縛なんてしたことなかったよ」
また仁たちと遊ぶのか、とうんざりしたし嫉妬もしてたけど、それだけ。僕は紫月の行動に干渉しなかった。
「スマホのデータとか復元して、連絡先を見れないのか? 最後に連絡してたやつが怪しいだろ」
「見たよ。でも、それらしいものはなかったね。紫月のスマホに入ってる人たちの名前は、ある程度顔が浮かんでる」
「そうか……」
仁は新たに缶に手を伸ばす。今度はおしるこだ。口の中がおかしくならないのだろうか。
「お、これはまだあったけぇぞ」
味が云々より、熱を気にしているらしい。
「仁は、最近、紫月の様子がおかしかったとか、いま思い返せば変だったなってこと、なにかない?」
「変だったこと……か」
よく見てたと豪語するほどの仁なら、他の人だったら無視しそうな些細なことでも、何か見抜いているかもしれない。そう思ったんだけど。
「わりぃ」
「……いや」
ほとんど家族のようで、本当に家族になって、恋人にまでなった僕ですら、紫月のことは何も知らなかった。仁は悪くない。紫月の表情や感情のコントロールを褒めるべきだろう。
「じゃあ、汚れてしまっている、ってどういうことを思い浮かべる?」
「汚れてしまっている……? 紫月がそう言ってたのか」
「うん。紫月は、何か悩んでいたらしいんだ。だから保健室に、養護教員によく相談にも行ってた。そこでは、紫月は萬好の名字を名乗っていたんだ」
「それは……」
「うん」
養子縁組を組んで、僕と兄妹になっても、紫月は学校では柏木の姓を名乗っていた。なのに、あそこでだけは、萬好と名乗っていた。僕はその悩みにこそ、紫月が死んだ理由が隠されているのではと思っている。
おしるこを一口、口に含むと、仁は空を見上げるようにした。その横顔は悲しそうで悔しそうで、涙を必死に留めているように思えた。
「嫌な想像しか出てこない」
「……うん」
僕も、養護教員からその単語を聞かされて、嫌な想像が過ぎった。口にする必要は、ないだろう。
「もしもそうだったら、誰かな。誰がやったんだと思う?」
「んなこと言われてもな。むしろ、悟られないようにするだろ。隠すだろ。ふつうに考えて」
乱暴されたらその事実を隠す傾向にある。内心ではボロボロなのに、気丈に振る舞っていつも通りにしてしまう。だからこそ、気付けない。
「紫月に付きまとってる人とか、紫月に何度も何度も告白して、それでも諦めない人とか。いなかったの?」
「紫月が告白されたとか、聞いたことがねぇ」
「……僕もだよ」
みんな好きなんだろうな、ってのはわかってたし、その中でも仁はわかりやすかったけど、だからといって誰々に告白されてた、という話は、本人からもうわさでも聞かなかった。
「そうなると、学校以外の連中じゃねぇのか? 中学の頃の付き合いとか、習い事とかしてなかったのかよ」
「習い事、は……中学のときは塾にも行ってたけど、両親を亡くしてからは辞めてた。中学の人との付き合いも、それこそスマホに残ってるはずだよ」
「だよな……」
別の高校の人と遊ぶ、同じ中学だった人だ、という話は僕も耳にしなかった。
もしもこの頃、連絡を取り合っていたのなら、埋もれていないだろう。僕も紫月と同じ中学だったんだ。多少は名前もわかる。
仁がおしるこの缶を傾けるのを見て、僕も喉の渇きを思い出した。ほうじ茶の片手で包めるペットボトルがある。これも温かい。キャップを外して、口をつけた。
口を離してキャップを締めていると、仁の視線を横から感じた。
「なに」
「もしも、紫月を殺した、死ぬ原因を作ったやつがいたとしたら……お前は、どうするつもりなんだ?」
「仁だったらどうするんだ?」
「質問に質問で返すなよ。俺が訊いてんだ」
その目を見れば、答える必要なんてなさそうだけど。きっと、仁だって同じことをするだろう。
「殺すよ」
唇を噛んで、仁は視線を下げる。やっぱりか……と、僕は仁の予想に沿った返答ができたらしい。
「俺に向けた憎悪とか執念とか、あんなの見せられたら、むしろ殺すのが生易しいって思えちまうな」
あの時点では、僕からすると仁は死ぬ原因を作った憎き相手だったけど、そこに悪意があったわけじゃなかった。だから、命を取るまではしなかった。
でも、紫月を陵辱して、身も心も弄んで、生きる希望を奪って死からの回避すらできないところまで落としたようなやつには、一秒たりとも生を与えない。生きていればもしかしたら希望が現れてしまうから。そんな希望も持たせたくない。
まあ、この辺の価値観は、人それぞれだろう。
「で? そいつを殺したとして、それで? お前はどうするんだ?」
それで? ……どうするんだろう、僕は。
紫月が死んだ世界で、僕はどうするんだろう。
「……何も見えないなあ……」
「あ?」
「仁は? 仁だったら、紫月を殺した犯人がいたとしたら、どうする? 殺さないの?」
「だからこっちが訊いてるっつってんだろ……」
はぁ、と盛大にため息をつきながら、仁は頭を掻いた。
「俺もたぶん、殺すだろうな。自分を止められる気がしねぇ」
「よかった」
じゃなかったら、僕はここまで、事情を話していない。僕のことならまだしも、紫月の事情を。
犯人に対する感情はまったく同じで、犯人に行う仕打ちもまったく同じ。だというのに、微笑んでいる僕と違って、仁は苛立ちが多分に含まれていた。ふいに目が合うと。殊更に不機嫌になる。
そこに僕は、葛藤のような迷いのようなものを、見た気がした。そして、
「学校のやつらでもねぇ。学校外での関係もねぇ。そうなったらよ、お前。ひとりしか、いねぇんじゃねぇの?」
悩んでいるのが洒落臭い、といった風に、仁は乱暴な口調だった。
「それは?」
仁が躊躇うのは、根底に気遣いがあるからだろう。
「……お前の親父は?」
じゃなかったら、もっとさっさと言えたはずだ。
「……まったく、考えなかった」
僕の父が、紫月へ乱暴をしていた。どうして僕は、そのことを考えもしなかったのだろう。
僕は自然と、無条件に父へ全幅の信頼を寄せていたようだ。
「まあ、当たり前だろ。父親を疑うなんて、息子ができるはずねぇ。俺も、そうだ。自分の親父がそんなことしてるだなんて、思いたくないからな。だけど、お前からすれば親父でも、紫月からすればただの男だ。それに、お前の親父は、紫月の世話をしに家に行ってたんだろ? そんときは、どうだったんだ」
「どうだった、って……?」
「……お前も一緒だったのか? それとも、お前の親父と紫月のふたりきりだったのか? って話だ」
「その時々、だ。僕が一緒だった日もあれば、そうじゃない日もあった」
「じゃあ、充分、やれただろ」
「そう、だね……」
頭が真っ白だ。仁から言われても、相槌を打つぐらいしかできない。いまの説明も、わかったようなわかってないような……僕自身が、わかりたくないと理解を拒否しているような……。
仁は、僕がこうなるとわかりきっていたから、言うか言うまいか、迷っていたのだ。仁の懸念通りになってしまった僕へ、仁は責任でも感じているのか舌打ちすると、乱暴に頭を掻き毟った。
「……だから紫月は、養子縁組も渋ってたのかな……」
「……かもしれねぇな」
自分を犯して、脅かそうとする男と同じ屋根の下で暮らし、書類上は親子ということになるのだ。これ以上ない屈辱で、これ以上ない地獄だっただろう。
「なのに、僕は……」
養子になる件を、僕が原因だと的外れな分析をしていたのか。もしかしたら、僕が、僕だけが、救えたのかもしれないのに……。




