その必要は、ないよ
一年八組からもっとも近い男子トイレの出入り口が映っている。そこから笑いながら出てくる三人の男子。仁を始めとした取り巻きがふたりだ。そして、その数分後、僕が出てくる。ずぶ濡れになって、水滴を垂らしながら近づいてくる僕。
「ほらね」
これは昼休みのこと。仁に、なんで紫月の葬式に来なかったのか、と問われた日のこと。保健室の養護教員、大野先生か。あの人に訊けばわかることだし、クラスメイトもひどく動揺していたので覚えているだろう。
「なるほど」
そうして天知さんは、仁へ問いかける。
「羽生さん、これは?」
「し、知らねぇよ。つうか、あそこにこいつがいたことも知らなかった」
仁からの返答を受けると、天知さんは僕へ戻ってくる。
「萬好さんはなぜこの動画を撮影していたんですか」
「それはもちろん、証拠になると思ったから」
「では、仮に羽生さんがやったとして、なぜ昼休みの時間にトイレで仕掛けてくるとわかったのでしょう」
「いや、わかったというより……そうとしか考えられなかったから、というか……」
仕掛けてくるのは昼休みだろう。十分休憩にそんな暇はない。トイレで仕掛けてくるとわかった、というより、僕に仕掛けてくるんだから僕の行き先を見張るのは当たり前の行動だと思うんだけど……。
「僕はその日の朝も、実は仁に殴られててね。教室で起こったことだから、クラスメイトの誰かしらは証言してくれると思う。……してくれなくても、保健室で手当てしてもらった。大野先生のところに記録が残ってる。自衛をしようと思って行動するのは、そんなにおかしい?」
「いえいえ。おかしくないです。むしろ素晴らしいと思います。なかなかできることではありません。反撃に備えて証拠を集めるだなんて、誰でもできることではありませんから」
一昔前ならそうかもしれないけど、いまのネット時代、そういった動画の流出があればいくらでも反撃、制裁は加えられる。自分の身を守るため、それから攻撃の手段として、動画を撮るというのはむしろ安直な考えだと僕は思っている。
「動画の萬好さんはずぶ濡れです。トイレの中で何があったのか、考えただけで心が痛みます。しかし動画はトイレから出てくる姿しか見えないもので、わたしはただの憶測しかできません。実際には、どのようなことをされたんですか?」
じっと、天知さんは僕の目を見てくる。
「蛇口にホースを繋げられて、ゲームの的のようにされていたんでしょうか。それともトイレの便器の中に頭を突っ込まれたのでしょうか。あるいは、個室にいるとき、上から水を落とされたのでしょうか」
「……そうだよ。個室にいるとき、上から水が、急に降ってきたんだ」
まあ、よくある定番ないじめの一種だ。
天知さんは同情するような眼差しとなった。
「では、バケツでもひっくり返されたんでしょうか」
「……そうかもね。思い返せば、バケツを置くような音もした気がする」
緩く首を横に振って、小さく嘆息する天知さん。
「ですが、残念ですね」
「残念?」
「ええ。なぜ、動画はトイレから出てくる姿しか映っていないのでしょう。もしもトイレ内部に仕掛けられていれば、その瞬間、彼ら羽生さん一同が、バケツをひっくり返す決定的な瞬間が収められたのかもしれないのに……」
言い分は、あった。トイレにスマホを仕掛けるような場所がないことや、トイレの録画は盗撮行為にあたって僕が悪者になる危険性もあったとか。
でも、僕が何を言うよりも早く、残念です、と天知さんは繰り返した。
「本当に、残念です。懸命に萬好さんは戦っているのに、日本の法律、疑わしきは罰せずに照らし合わせると、ずぶ濡れになった要因は、羽生さんではない余地が残ってしまいますから」
日本の法律、制度、原則を嘆く天知さんに、僕は言った。
「でも、それだと仁以外に誰がやれたの?」
「そうですね。もしかしたら、ほかの個室に隠れたままだったのかもしれませんよ。わたしは女子ですので、男子トイレという構造にはあまり詳しくないのですが、男性は必ず個室の空きを確認するのでしょうか」
「しないな」
答えたのはわかめ男だった。
「では、もしも、その個室に身を潜ませている人がいたとしても?」
「気付かないな」
「ふむ。つまり、萬好さんがトイレに入った前、あるいは後に、その誰かが萬好さんのとなりの個室に忍び込んだのかもしれません。そうして、第三者Xは見事、萬好さんに羽生さんの仕業だと誤認させることに成功した」
「萬好が出て行ったあと、動画が止まったあとに、トイレから出て行くXがいた……ということか」
「ええ。羽生さんがやっていないというのであれば、この仮説も充分、成り立つと思いますけれど」
天知さんとわかめ男の間で、見当違いもいいところな仮説が広がっていく。ミステリーなら犯人は嘲笑っているところだろう。探偵に感謝しているに違いない。
「だ、誰なんだそいつは……っ」
仁は天知さんの的外れな推理、その穴、矛盾、違和感にも気付かないようで、第三者のXの名前を求めている。
「そうですね。そこまではわかりません」
期待が外れたとばかりに、仁は肩を落とす。
「ですが、知る方法はあります」
「それは!?」
忙しないやつだ。
「バケツを警察に提出しましょう」
「け、警察……?」
いきなり公的機関、それも国家権力の登場に、仁は勢いが削がれたのか戦いた。学校内の問題に、スケールの大きい警察が出てきては、尻込みもするだろう。子どもの喧嘩に親が顔を出せば途端に、自分たちのしでかしていることの重さを自覚して、震え上がるようなものだ。
「はい。これは立派な事件ですよ。萬好くんは暴行、傷害、器物破損、そして金銭の強盗という被害に遭っています。そして、羽生さんたちはその事件の犯人とされ、謹慎処分になっている。冤罪ということです。これは、人員も時間も設備もある警察の手に委ねるのが得策だと思われます。被害者と加害者が同じ訴えをすれば、この一件の怪しさも見えてくるかもしれません」
「で、でも……なんでバケツなんだ?」
「バケツをひっくり返して水を落としたんです。指紋がついているでしょう」
「し、指紋……」
科学的な、たしかな論拠だ。想定していなかった、という仁を、僕はバカにできない。僕もそこまで気にしていなかった。
「だけどバケツは、掃除でも使われているんじゃない?」
「それは僥倖ですね。掃除メンバー以外の指紋が出ればその人が有力な容疑者、出なければその掃除メンバーの中に犯人がいる」
僕の反論もすぐに却下される。
「それから、萬好さんにはお財布の提出もして頂きましょう。池に浮いていた、とありますけれど、もしかしたら指紋、何かしらのDNAは残っているかもしれません。萬好くんのお財布を、他人が勝手に触れることは滅多にありません。触ってもいいと許可を出した相手がいれば覚えているでしょうし、それ以外の人物と、バケツから検出できた人物が一致すれば、間違いないと言っていいでしょうね」
天知さんの視線は鋭い。
「まさか、これだけ用意周到に証拠を収めている萬好さんが、お財布という物的証拠を雑に扱うはずもありませんからね?」
僕が何を言うよりも早く、天知さんは釘を打ってきた。打たれた杭の僕は、大人しくなるしかない。
「冤罪って言ったけど、殴ったのは本当でしょ」
逢坂さんが思い出したように指摘した。
「では、器物破損と金銭の強盗は冤罪、としておきます」
ならば僕は、根本的な間違いを正すとするか。天知さんの推理は的外れだ、と思った理由を、指摘するとしようか。
そう思って口を開いたものの、僕よりも早く、
「……あ、あれ? でも、そうなると、ちょっとおかしくない?」
そう声をあげた人がいた。
「おかしい? どこがでしょう、逢坂さん」
また僕と仁をほっぽって、今度は天知さんはメイドの逢坂さんと会話をする。
「誰かが個室に隠れていたっていうのはわかるんだけど、そうなると、羽生くんか萬好くんのどっちかは気付くはずなんじゃない?」
……緊張しているのか。緊張しているのならなんで緊張しているのか。よくわからないけど、なんだか声が上ずっている気がするし棒読みな感じもする。メイドさんも人見知りは激しいほうなのか。
きっと、メイドさんの普段とは違うのだろう。天知さんはしばし絶句したようで、眉がぐっと寄っていた。数秒の微妙な間の後、ハッとした天知さんはこほんと咳払いして、
「なぜどちらかは……」
釣られたのか天知さんも棒読みになっていた。もう一度、強めに咳払いして、仕切り直す。
「なぜどちらかは気付くことになるんですか?」
「だ、だってさ、バケツをひっくり返すのって、羽生くんたちがトイレから出て行ったあとってことになるじゃない? そうじゃないと、羽生くんはさすがに気付くでしょ? 個室でバケツの水が降るような音がするんだから」
「そうですね。いくら嫌っている相手であろうと、そんなことが発生すれば、音にびっくりしてふり返ってしまうのが人間ですね」
反射的にふり返って、個室の上にバケツがあれば、仁の性格を考えるとその個室を多少強引にでも開けるだろう。
「どうなんですか」
問われた仁はもちろん、
「い、いや! そんなことはなかった……あったら気付かないはずもねぇし、忘れるはずもねぇ」
と、否定する。
現に、僕がずぶ濡れでクラスに訪れたときは、クラス全体が、全員が、仁たちを含めたすべてが、唖然としていた。その驚きも、あの個室にいたのは萬好芳樹だったのかーといった類いのものではない。何が起こったんだ? というほかのクラスメイトと同じ困惑による驚きだ。
「そうなると、羽生くんたちが出て行ったあとに、Xは萬好くんの個室にバケツをひっくり返したってことになる。でも、そうなると、萬好くんはわかるはず。羽生くんの仕業じゃないって」
「どうしてですか?」
的外れではあるものの、天知さんは筋道立てて推理をして、それらしい理屈を付け加えて知識も豊富で機転が利かないはずもないのに、ここだけ鈍感だ。
「だって、羽生くんたちは出て行ったんだよ? 個室にいても、人の出入りはわかる」
「気配を殺してこそこそと出て行ったのかもしれません」
「さっきの動画だと、羽生くんたちは笑ってたよ。出入り口の笑い声は個室まで聞こえる。出て行ったこともわかる」
「なるほど!」
まるで思いつかなかった、とでも言わんばかりに拳を手の平にぽんと打ち付けている。逢坂さんはジトッとした目だった。僕も、彼女と気持ちは近しい。わざとじゃないのか。言わせたのではないか。
「どうなんでしょう」
自分の推理が崩されているわけなのだが、天知さんはそれをまったく気にもしないで、友人が珍しく披露した推理の成否を僕へ、キラキラと輝かしい目で求めてくる。
僕は観念して、小さく、ため息をついた。
「うん。もちろん、仁たちがトイレにいるにもかかわらずに水を浴びせられて、仁がそのことを黙っている、なんてことはない」
「では、羽生さんたちが出ていったあとということになりますね。すなわち、第三者Xが潜んでいた」
天知さんは、なんて人だ。
みんな、きっと、彼女に騙されていたんだ。
淑女然としたご令嬢でお嬢様で、礼儀正しく物腰柔らかで所作が丁寧で、住む世界も産まれた世界も生きる世界も違う美少女。この小さくてか弱そうで女の子らしい見た目の内側には、とんでもなく恐ろしい怪物が潜んでいた。
彼女は美少女の皮を被った、得体の知れないバケモノだ。
その瞳は汚れを知らない雲ひとつない青空なんかではなく、何にも動じない揺らめくことのない鏡のような水面なんかではなく、僕に、自分の口で白状しろと罰してくる、底の知れない冷徹な氷河の裂け目だった。
「早速、学校に戻るとしましょう。一刻も早く、バケツの保存をしなくては。そして、萬好さんにはお財布を持って来てもらうとしましょう。合流は警察署で。よろしいでしょうか」
「お、おう!」
と、仁は前のめりになる。そりゃあ、いじめていたという冤罪が晴れて、罪が軽くなるのだから、乗り気にもなるか。
「その必要は、ないよ」
浮き掛けた腰を伸ばして、仁はまっすぐ見下ろしてくる。
「んでだよ。お前をいじめてた犯人だぞ?」
「だから、そんなの探す必要はないって」
「だからなんでだって訊いてんだよ。……てめぇまさか、俺が犯人のままでいいとか思ってんのか」
僕が黙っていると、
「っざけんな!」
また大声を出して、僕の肩を掴んだ。今度は胸ぐらではなかった。成長だろうか。いいや、そんなことはない。きっとわかめ男をビビったのだ。
また注目が集まった。仁も学ばないやつだ。こういう相手は、力でわからせないといつまで経っても学ばないのだ。そして、パワーバランスが判明したこの場で、収められるのは、彼だけ。
「そうやって、また、自分で自分の立場を悪くするのか?」
わかめ男の二度目の仲裁は言葉だった。僕が暴力の餌食に遭っていないからだろうか。
「あぁ?」
わかめ男のほうが握力はあるけど、殴り合いなら勝てると思っているのか、見た目から影が薄い彼を相手に負けを認めたくはないのか、仁は食って掛かる。
「羽生。お前はずっと、萬好に乗せられてるぞ。自分が挑発されていることも気付いていないんじゃないか?」
「挑発……? 俺がいつこいつに……」
挑発といえば、へいへいかかってこいよお尻ぺんぺーん、といった感じだろうか。たしかにそれなら、僕はそんなことはしてない。仁が想像している挑発なら、僕はしていない。けど、べつに、挑発とはそれだけではない。
わかめ男がコーヒーをゆっくり傾けると、その続きを引き継ぐように、天知さんは口を開いた。
「羽生さん、これが最後の質問です」
これに嘘はつけないだろう。仁が唾を飲み込むのがわかった。
「あなた、あなた方は、萬好さんをいじめていましたか?」
「……いいや」
「では。萬好さん。あなたにも、最後の質問です。羽生さんにいじめられましたか?」
「いいえ」
僕の即答を訊いて、仁の目の色が変わる。また殴られそうだ。けどべつに、いい。世の中は手を出したほうが負けだ。だから仁は謹慎処分になった。手を出したから悪者となって、いじめをするのは悪者だから、いじめの犯人も仁たちということになる。
でも今回ばかりは、殴られなかった。仁は、天知さんに、感謝するべきだろう。
「そろそろ、迷惑ですね。場所を変えましょうか」
天知さんは、そっと手を合わせて微笑んでいた。僕からすると、これだけの目撃者が多いほうが好都合だったんだけど。




