紫月は、なぜ死んだ
チャイムが鳴ると同時に、担任がやってくる。出席確認が終わった。大抵、朝はそれで終わる。けど今日に限っては、違った。出席簿を閉じても担任が教壇からいなくなることはなく、いつもなら伸びをしたり雑談が始まったりするのに、静まり返っていた。
やがて、担任は細く息を吐くと、重々しいその口を開いた。
「実は、先日、匿名の通報があってな」
その言葉に、いい続きは連想できないだろう。クラス中の空気が一気に張り詰めたのがわかった。同時に、みんなの念頭に僕があるであろうことも。
僕よりも前の席の人は、こんな状況じゃなかったらすぐにふり返って僕の顔を見ていただろう。となりの席の人からの横目が気になるし、背中には何人もの視線が刺さっている。
「このクラスでは、いじめが横行してる。……とな」
担任の、羽虫さえ見逃さないような目つきが、クラスの隅々まで行き渡る。それが彼本来の人間性によるものなのか、それとも発覚すれば自分の責任になる、面倒ごとになる、という自己保身による危機感から来るものなのかは、僕には判断がつかない。
ここ一週間、僕が陥っている状況にはまったく気付かなかったのだろうか。影が薄く、クラスメイトとの繋がりがないから居ても居なくても変わらないことは自覚しているけど、本当に何も気付かなかったのだろうか。それとも、気付いていて無視していたのだろうか。だとしたら、僕は……。
「誰か、思い当たる人、それか見かけた人、いれば、先生のところに来てくれ。それから、通報してくれた人も、できれば名乗り出てほしい」
たしかに、通報した人とはいったい、誰なのだろう。
僕はこの一年八組の敵だ。一年八組のアイドルであり、華でもある紫月の葬式に行かなかったのだから、敵になるのだ。その敵への攻撃を申告するのは、裏切り行為に等しい。いったい、誰がこんなことをしたのだろう?
じゃあ、と担任はそれで挨拶を終えて、教室を出て行った。
担任が出て行くと、クラスはすこしの騒がしさを取り戻す。でもそれはいつものような明るさではなく、耳障りな小バエのようなものだった。話題はやっぱり僕のことで、どこまでも人気者らしい。
今日という一日は、実に重苦しい始まりを迎えた。
始まりが重苦しいものなら、終わりは痛々しいものだった。
「っざけんなよっ!」
腹に蹴りが突き刺さる。
僕は叱られたこともあるけど、躾と称して折檻されたとか、そんなことはなかった。
「お前のせいで俺たちが疑われたんだぞっ!」
地面に倒れた僕の背中に強い衝撃が走る。
暴力とは馴染みのない人生を歩んできたもので、覚悟はしていたけど、覚悟があれば痛くないとかそんなことはなく、何を言いたいのかというと、めちゃくちゃに痛いってことだ。
「あぁ、昼休みの呼び出しって……やっぱり、そうだったんだ…………ははっ」
昼休み、仁とその取り巻きは校内放送で呼び出されていた。朝が朝だったので、誰もが呼び出しの用件はいじめの一件だと確信していた。
のろのろと僕が這っていると、仁は僕の襟首を掴んで無理やりに立ち上がらせてきた。そして、今度は胸ぐらを掴んで壁に勢いよく押し付ける。後頭部を強打した。後頭部は危ないんだけど、彼らにはそれがわからないのかもしれない。
「てめぇ……何がしてぇんだよ」
仁が凄んでいる。怖い。眼光が鋭い。ギラついた瞳だ。ほとんど鼻先と鼻先が触れ合いそうな距離感で、僕は思わず、噴き出してしまった。
「……あぁ?」
「いや、ごめん。何でもない」
「……んでもないじゃねぇだろ!」
顔面にパンチを喰らった。こればっかりは、痛くなかった。痛みを感じる暇さえなかった。
ただ、息がし辛いし、立ち上がれないので、ダメージとしては蓄積しているのだろう。
「今度変なこと言ったらマジで殺すからな」
朦朧とする意識の中で、仁がそう殺害予告をしてくれたことだけは、記憶に残った。
空が半分以下にしか見えないし、鼻での息ができない。お腹も背中も痛いし、立ち上がる気力がない。
「はっ、はっ、……はぁ」
でも僕は、
「は、はは、……はははっ」
笑った。抑えきれないほど、笑いが込み上げてきた。ここで死んだら僕は暴行の末に死んだことになるんだろうけど、死因は笑いすぎての呼吸困難だと思う。
「うわ、ホントにボコボコになってる」
半分以下の空に、紫月の顔が現れた。僕を心配しているのではなく、単に痛々しいものを見たという顔だ。
「ある意味で、紫月の予言通りになったな」
僕は這うようにして動き、その辺に投げ捨てたままのカバンを引きずって寄せる。横ポケットには小さな穴が空いている。どのくらいのサイズの穴かというと、カメラのレンズが外に出るぐらいのサイズの穴だ。
いまだけは痛みを忘れて、僕はスマホを確認した。録画の再生は、僕が下校しようとしたところから始まる。
急に、映像が左右に揺れた。それは僕の肩に腕を組んでくる人がいたからだ。
「ちょっと付き合ってくれよ」
低くドスの利いた声で、一見すると仲の良い人たちが肩を組んでいるようにしか見えないけど、事実は僕を逃がさないようにと両脇を固めただけ。
それからすこし、動画を飛ばす。人目のつかない校舎裏まで連れて行かれたと思えば、映像はぶれる。コンクリートの地面が近い。このときは、僕が背中を蹴飛ばされたときだ。カバンが肩から落ちた。
遠いところでは、僕が無様に地面に転がっていた。そのときにできた頬の擦り傷を思い出す。
そこからは、まあ、見なくて良い。僕が可哀想だ。
「うん、ちゃんと撮れてる」
それがもっとも大事なところだ。
「紫月が証言台に立てれば、こんな痛い思いしなくても済むのにな」
「いじめの事実はございません! って?」
「僕の味方じゃないのかよ」
「嘘ついたらダメでしょ」
「それは、暴行はいじめじゃなくて立派な犯罪ですっていうことだよね?」
立ち上がる。自分の身体のくせに、重たい。足を引きずるようにして、僕は保健室に向かった。
保健室を廊下からではなく、勝手口のほうからノックする。カーテンが開いた。開いた瞬間、養護教員は目を見開いてすぐに鍵を開けてくれた。
「ど、どうしたの!?」
鏡を見ていないし、映像では僕が袋だたきになっているだけなのでどこまで悲惨な姿になっているのかはわからない。でも彼女の慌てようを見る限り、惨憺たる結果らしい。
「ちょっと、階段から落ちてしまいまして」
養護教員は、息を飲んだ。僕が適当でありきたりな言い訳を放ったことと、隠したいという意志も悟ったように、息を飲み込んだ。
「そこに、座って」
椅子に座る。棚からよくわからない薬品とかを持って来て、救急箱も持って来て、
「ちょっと、沁みるわよ」
遠慮なしに、僕の顔に消毒液を含ませた綿を当ててくる。
「いっ……」
「痛いって言ったでしょう」
たぶん、殴られるより痛い。殴られたほうがマシ。
「もうちょっと加減してもらっても……」
「じゃあ、何があったか。本当のことを話す?」
それは対等じゃないなあ……。
「萬好くん、一年八組でしょ。あそこ、職員室でもちょっと話題になってたわ」
「いじめのことですか」
「ええ」
もしかして……と、薄々察しているようで、ここで僕が否定してもあんまり意味がないようなので、しょうがない、と観念したふりでため息をついた。
「じゃあ、僕の質問に答えてくれたら、僕も正直に話します」
「ええ。なに?」
救急箱から取り出した大きめな絆創膏が、頬にくっついた。
「紫月は……萬好紫月は、ここで、先生に何を相談していましたか」
紫月が何か言いたそうな顔をしていた。文句がありそうだ。でも、この場でいくら騒いでも僕は全部無視する。
養護教員は、一度作業の手を止めたけど、すぐに再開した。人中に垂れて流れて固まった血を拭ってくれる。乾いているので、かさぶたを剥がすようなぺりぺりとした痛みがあった。
「悪いけど、それは言えない。誰にも言わないっていうのが約束で、だからみんなここに相談に来てくれるの。話したら、誰もここを信用できなくなる。ずっと、ひとりで抱えることになる」
紫月がホッとしたように胸を撫で下ろした。
「もう紫月は死んでますよ」
紫月は何を!? と怒りのポーズを取っている。
「それでも、よ」
紫月は養護教員の背後に取って、腕組みしながらうんうんと頷いている。台詞をつけるなら、
『ほれ見たことか』
といった具合か。
「わかりました」
「ごめんなさいね。でも、だから萬好くんも」
「やっぱり、紫月は何か悩んでたんですね」
養護教員は表情を失った。遅れて、自分の失敗を悟ったようだ。
「そ、それは……」
先生は、相談内容は言えないと言った。つまり、相談自体はあった。相談すること、悩みが……。僕の知らない、僕にも言えない、悩みが。
「それに、先生には、紫月はここで、萬好という名字を名乗っていた」
クリップボードの紙で、僕は紫月の名前を見た。べつにそれだけでは、紫月が悩んでいると確信までには至らなかった。体調不良でも、申告したように重い体質なんだったとしても、納得できた。萬好紫月という署名を見るまでは。あの名前を見たからこそ、僕は、確信したのだ。
「だから僕が初めて保健室に来たとき、先生は僕のことを心配したんだ。萬好なんて名字はそうそういない。僕と紫月の名前が一緒だったから。紫月が死んだから。鼻血のことなんかじゃない。紫月が死んだことで、僕を心配してたんだ」
人を問い詰めるようなこと、僕はしたことない。得意でもないと知った。治療してもらってる相手にするべきじゃない。でも、僕はそうするしかない。これが、手掛かりなのだから。
「紫月は、先生に何て言っていたんですか。僕のこと、何て言っていたんですか。なんで紫月は、ここでは萬好と名乗って……紫月は、なぜ死んだんですか」
僕の前で膝を突いている先生は、目を伏せて小さく、睫毛を震わせた。無言のままに、鼻に栓を詰めてくる。不快感がある。鼻呼吸ができない。口呼吸をしていても、なんだか毛が鼻の奥に入ってきているような感覚がする。
「紫月さんとは、どういう関係だったの」
僕の熱意が通じたのか、先生はそう尋ねてきた。慎重に、言葉を選ぶ。
「家が、となりでした。幼馴染みたいなもので、……付き合ってました」
「……そう」
目を丸くして驚いたような顔をする。たぶん、誰でもそうだろう。どう考えても釣り合ってないのだから。僕らが幼馴染だってことも、知っている人はいない。
「でも、どうして名字が同じなの?」
「……紫月の両親は、中二の頃に死んでるんです。交通事故で。僕も、母を亡くしてる。だから僕の父が、紫月の世話をしていることが多くて。僕らは三人で家族みたいなものだったんです。それで、ウチに来ないかって父が何度か誘ってたんです」
「養子ってこと?」
「はい。でも、紫月は断っていて……それが、中学の三年の頃、受験が終わったぐらいに、紫月がちょくちょくウチに来ることになって。正式な手続きは、最近で、学校にも旧姓の、柏木のままで通してたみたいで……まあ、僕らは、兄妹になったんです。どっちが兄とか姉とか、その辺は考えてなかったですけど」
義理の兄妹になった。
はたから見れば羨ましいシチュエーションなのかもしれないけど、もう紫月はほとんど僕の家で過ごしているようなものだったから、何かが変わったかと言われるとそんなことはなかった。僕が、というより、父さんと紫月が手続き上ですんなりと進むためといった面が大きかったと思う。
「付き合ってたのは、いつから?」
「中一の頃からですね」
「萬好くんは、結婚とか、考えてたの」
「な、何ですかそれ」
「紫月さんは、考えていたそうよ」
「え……」
見上げる。テレテレとしていた。顔を手で覆っている。真っ赤だった。知りたかった事実で、知りたくないような事実だった。せめて、紫月の口から……紫月が生きている頃に、聞きたかった。
「考えたことはなかったです。けど、それは、あまりにも紫月がいる生活が当たり前過ぎたからで。たぶん、僕は勝手に紫月と結婚するものだと、考える間でもなく自然にそう思っていたんだと思います」
いま、僕は紫月のために生きているけど、もしもこれが達成したらどうやって生きていけば良いのか、そもそも生きていく意味があるのかわからないぐらいには、僕にとっては人生とは紫月そのものなのだ。
僕は、紫月をジッと見つめた。
「この気持ちはいまも変わらないし、この先も変わらない」
指の隙間から紫月と目が合う。ジトッとした目つきで、物言いたげそうにしていたけど、終ぞ言うことはなかった。保健室の壁をすり抜けて行ってしまう。
養護教員は、そっと笑った。
「聞いてるこっちのほうが恥ずかしくなってくるけど、気持ちがいいわね」
「恥ずかしい恥ずかしいって思ってたら、手遅れになってしまって、一生伝えられなくなってしまうので」
「その通りね」
死んでからわかる。失ってから気付く。なんて、本当に愚かだ。バカの極致だ。
豪運で強運なことに、僕は失ってからも紫月と出会えた。また繰り返したくはない。
「でも、紫月さんが悩んでいるのも、ちょっとわかるわね」
「何がですか」
「萬好くんは、まっすぐだから」
「……はい?」
紫月はよく捻くれてるとか言うし、僕もそういう自負がある。どこがまっすぐなのだろう。
「紫月さんの悩み、内容までは言えないわ。でもね、紫月さんは、こう言っていたわ」
僕は聞き逃さないように、全神経を注いだ。
「あたしは芳樹と一緒になるには汚れすぎている。……って」
「そ、れは……」
どういう、意味だ。




