僕と兄妹になることを意味する
家に帰る。家は暗い。
「ただいま」
たぶん、返事はあった。でも小さいので、
「……ぇり」
ぐらいしか、わからなかった。
リビングの電気を点ける。父さんは、放心状態に近しかった。紫月が死んでから、こうだ。紫月の両親が死んだときよりも、母さんが死んだときよりも、紫月が死んでからのほうがダメージが大きいように思える。まあ、母さんが死んだときは、紫月が僕と父さんをよく励ましてくれたから、というのもあるだろう。本当の娘のように、ひょっとすれば僕よりも可愛がっていた節がある。
「食べてないの、父さん」
朝に作っておいたパンはすっかり冷めている。
「食べないならラップしておいてって言ったのに」
この家もいまは衛生上、綺麗とは言えない。長時間放置されていたパンは捨てるしかない。
冷蔵庫の中、昼ご飯もそのままだ。すっかり父さんはやつれている。年齢以上に老けて見える。
「食べられるときに食べてよ」
返事はない。何か言っている。ぶつぶつと。もしかしたらさっきも、おかえりなんて言ってないのかもしれない。
まあ、いいや。
家も荒れている。片付けたいところなんだけど、父さんがいると掃除もできない。父さんなりに意味のある荒れ具合らしいし。キッチンは使えるからべつに困ってない。リビングに降りなければいいだけの話だ。
二階に上がる。よしきの部屋を通り過ぎると、しずくの部屋という札がかかっている扉がある。僕の札はもう十年以上使われているので色褪せているけど、紫月の札はまだ一年も経っていないので新品同様だ。
「……何してるの」
近い。扉と僕の隙間に身体をねじ込んでいる、というか、ほとんど触れ合っている。いや、触れないのですり抜けている。紫月の胸が僕の胸に食い込んでいる。悲しいな。
「芳樹こそ、何してるの」
近い。紫月が僕に顔を近づけてきた。キスできそうだけど、胸同様、感触も体温も何も感じられないですり抜けてしまうのだろう。
「ちょっと紫月の部屋に失礼しようかと思ってね」
「思ってね、じゃない。だから何してるのって言ってるの」
「いま説明しただろ?」
「いまのは答えが聞きたいんじゃないの。自分が何しようとしてるかわかってるのか、改めて考える時間を与えるための質問なの」
「うん。よく考えた。失礼します」
まだごちゃごちゃ何か言ってるけど、いくら紫月が僕の前に立ちはだかっても僕の進行の妨害はできないわけで。
紫月の身体を透過した僕の手はドアノブを握る。
「ちょっとどこ触ってるのよ!」
だからドアノブだ。
部屋に入る。部屋は……うん。綺麗だ。まるで新築の部屋に訪れたみたいだ。ベッドがあって机があって、それで終わり。言い換えれば、生活感がない。段ボールが隅にいくつか重ねられているので、引っ越してきた一日目って感じがする。
「ああ、乙女の秘密が……これは責任問題ですよ」
「いくらでも取るよ」
むしろ取らせてほしい。どうやって取ればいい。どうやったら取れるという。
「けっきょく、荷ほどきは終わらなかったね」
「僕に手伝わせないで、自分でやれば終わってたと思うよ」
「だってあたしひとりだけ作業してるだなんて、悔しいじゃないですか」
「捻くれてるなあ……」
紫月がこの家に来てからもう一ヶ月は経っているのに、段ボールは封が切られていない。理由は単純だ。なぜか強制的に僕が手伝わされていたから。自分ひとりでコツコツやっていれば、本腰入れれば一日で終わるのに、僕に段ボールを開封させていた。しかも自分はベッドで寝転んで、あれやこれやと口だけ出す始末。
思い返すと、僕はただの奴隷だ。紫月の私物を僕が整理する。いちいち紫月の確認を取らないといけないから手間が増えるし、見られたくない物を僕が引っ張り出すと怒る。僕に丸投げしなければいいだけなのに。
懐かしい、というほど昔のことじゃない。それなのに、僕がこの部屋の姿を見て感じたのは、懐かしい、だった。
「もしも父さんに、ここに紫月はまだいるよって言ったら、父さんは立ち直るかな」
「頭がおかしくなったって思われて終わりだよ」
「いまの父さんはとても正常とは思えないから、逆に噛み合うかもしれない」
「どうやって信じさせるの」
「そりゃあ、紫月しか知らないこととか。母さんとの秘密……は、ないとしても。紫月の両親との思い出とかは? それか、僕の母さんと紫月の母さんの思い出。ふたりは昔からの友達だったらしいじゃないか。もちろん、僕が知らないことでね」
腰を降ろす。段ボール箱の封をカッターで切る。
「そんなもの、ないよ」
「まあ、僕もふたりが友達だった、ぐらいしか知らないからな。だから昔から家族ぐるみでの付き合いがあった。家もとなり同士だったし」
「まさに幼馴染みだね」
「まさか僕と僕の父さんしか残らないとは思わなかったけどね」
「私たち家族はそういう星のもとに生まれたのかな?」
嫌なことを言う。
その段ボールの中身は、僕にはよくわからない趣味のものだった。メイク道具であることはわかるけど、
「あ、それ高いから丁寧に扱ってね」
「中古で売れたりするのか?」
「後生大事に扱ってよ。あたしの遺品なんだから」
遺品。遺品がこんなに……まあ、部屋ごと残すっていうのも悪くないけど……。
「メイクか。紫月もメイクするんだな」
「え。ひど。メイクすらしないって思われてたんだ」
「しなくてあれだったら、したらもっとかわいかったんだろうな」
微妙な間が空く。ちらと目を上げる。僕の身を案じるような顔つきだ。何か変なものでも食べた? と言いたそうな。
「なんか芳樹、変わったね」
僕もちょうど、そう思っていたところだ。何か変なものを食べただろうか。幽霊が見えるという変な現象には出会っているけど。
「たしかに。いままではそんなこと、言わなかった」
「生きてた頃はかわいいなんて口が裂けても言わなかったのに」
「死んでからもっと言っとけば良かったって思ったんだ」
「遅いね」
「本当に」
メイク道具だけで段ボール箱がひとつ埋まっていた。僕にはよくわからない。同じようなものがなんで三つも四つもあるんだ。
「僕にもメイクした姿、見せてほしかった」
「実はあれがメイクした姿だったのです」
「風呂上がりにもメイクしてたのか」
「女の子は大変なのです」
じっと見つめる。
「な、なに」
「幽霊になってもメイクしてるんだな」
紫月はつまらなそうに唇を突き出した。
悩みを僕には打ち明けてくれなかったし、メイク姿も見せてくれたことはなかったし、やっぱり紫月は僕が彼氏では嫌だったのだろうか。それこそが悩みで、本当はやっぱり、仁が好きだったんだろうか。
「道理で、ウチに来るのを拒んだわけだ」
「……え? なにが道理で?」
「父さんが、紫月を娘にしようとしてたけど、紫月は渋ってただろ? 父さんからすれば、ほとんど娘の紫月を施設送りにはしたくなかっただろうし、本当の娘のように思ってたから養子縁組を組もうと思ってたんだ。でも、それはつまり、僕と兄妹になることを意味する。それが嫌だったから、拒んでたんだなって」
ふっと自嘲する。
時折、父さんはとなりの家へ、つまり柏木家へ行って、紫月の様子を見に行っていた。紫月にとってはそれで充分で、高校卒業後は一人暮らしでも始めようと思っていたのだ。でも父さんの熱意とか熱弁とか、その辺に負けて、ウチに来ることになった。萬好紫月に、僕と兄妹になってしまったというわけだ。
「だったらそもそも、芳樹と付き合わないよ」
ムスッとしてる。
「どうだか」
さらにムスッとしてしまった。
「この偏屈が」
そう言って、紫月はどこかへ行ってしまった。
翌朝は、下駄箱を開けると人気者の幕開けだった。
「……」
僕の後ろを通り過ぎる人が、つい覗き見てしまった光景にしてはあまりにも衝撃が強すぎたらしく、硬直していた。その頭の中では憶測が広がっているだろうけど、まあ、おおむねその憶測は間違ってないと言える。
彼とは違う生徒がまた後ろを通り過ぎた。僕を嘲るような調子で、一緒に登校してきた友人にこそこそ耳打ちしている。
たぶん、クラスメイトかクラスメイトでないかで、僕に向ける反応が大きく変わってくる。
この人気者らしく、ぎゅうぎゅう詰めになった下駄箱を見て僕に同情するようなやつはクラスメイトではなく、当然の報いだと僕を笑うやつらがクラスメイトなのだ。
上履きは使えないので、僕は靴下のまま職員室に降りて、スリッパを手に入れた。




