保健室の常連だったらしい
昼休みが終わってから、僕は教室に戻った。実は僕はクラスの人気者だったんじゃないか、と思い始めてきた。
朝も僕の登校、それから一挙手一投足、発言の一言一言でクラスメイトの感情を左右できて、行動を左右できて、彼らの話題に上がっていた。昼休みが終わって五時間目が始まるまでのわずか数分。そこで教室に戻ってきた僕を見て、やっぱりクラスメイトの視線は僕にだけ集まっていたし、驚きに目を見開きひそひそと小声で、僕を話題にしているところを見るに、実は人気者だったんじゃないか、と思わずにはいられなかった。
ぐっしょりと濡れて額に貼りつく前髪が鬱陶しい。制服も水を吸って重たくて、小学生の頃の着衣水泳を思い出さずにはいられなかった。
教室の中では、僕が一歩、一歩、と踏み出す度に鳴る、泥を踏むような音ばかりが響く。足も濡れた。靴下も濡れている。かなりの不快感だ。水溜まりを踏んで、靴の中に浸水されたら誰だって気持ち悪いだろう。僕はそれと同じ状況だ。
人気者の僕は視線に晒されることも慣れっこで、後ろの棚にある体育着を取り出した。教室に来た用件はそれだけなので、僕はそれを抱えてまた教室の出口へ向かおうとする。
「ま、萬好くん……、その、だ、大丈夫……?」
学級委員長が心配して声をかけてくれた。さすがは人気者の僕だ。
でも、大丈夫? って訊かれて、大丈夫じゃないって答えられる人はどれくらいいるのだろう。そして、もしも大丈夫じゃないって言ったら、学級委員長はどうしてくれるんだろう。
だから僕は、にこりと微笑んで、
「もしも授業に遅れたら、先生に保健室って言っておいて」
とだけ言って、保健室に向かった。
保健室に行くと、養護教員はまたきみか……という顔をしてから、僕のずぶ濡れの惨状を見て、慌てふためくようにした。
「だ、大丈夫……!? どうしたの……なにが……」
「着替えていいですか。それから、乾かしたくて」
「い、いいけど……まさか」
なにか、勘違いしていそうだ。
僕は笑って否定した。
「ああいえ。水道の蛇口を、ちょっと勢いよく捻ってしまって。それで、浴びちゃったんですよ。誰ですかね、あんなに硬く締めた人」
やれやれ困ったものだ。この学校にはとんでもないボディビルダーも顔負けなゴリラがいて、しかも力の制御ができないときた。
僕が単にひ弱なだけとは思いたくないので、顔も知らない誰かを強烈に批判しておく。
「そ、そう……それなら、いいんだけど……」
口ではそう言っているけど、まだ勘ぐっているようだ。まあ、どうでもいい。べつに信じても、信じてもらえなくても。
「……あ。パンツとかって、あったりしますか」
冬の時期は、制服の下に体育着も着ている。中学の頃からそうだった。一時間目が体育とかのときは、夏でもよくそうしている。そのせいで、半袖短パンの体育着までもが濡れてしまっていた。
保健室のベッド周りにあるカーテンを引いて、学ラン、ワイシャツ、スラックス、半袖短パンまで脱ぐ。インナーもパンツも濡れていた。微妙な濡れ感だ。我慢できなくもないけど……。
「はい。それから、タオル」
カーテンの隙間から、手が出てきた。ありがたい。準備がいい。蛇口が崩壊することはよくあることなのだろうか。業者に頼んだほうがいい。
「ありがとうございます」
パンツも履き替える。ブリーフだ。なんか……いや、まあ、贅沢は言えない。
いまが冬であることが幸いした。夏だったら僕はジャージを持って来ていない。
「萬好くん、だよね。その……大丈夫?」
「何がです?」
「……ううん。何でもない。何かあったら、いつでも来てね。保健室で聞いたことは、誰にも話さないから」
保健室には、たしかにそういった役割も果たしてくれている。カウンセリング、だったっけ? ちょっと違うか。正確な名前までは覚えていないけど、とにかく、保健室の先生は他の人に言いにくいことを聞いてくれるお悩み教室みたいなのがあったはずだ。これは小中と変わっていない。織田高校だけの珍しい制度とかでもないのだろう。
軽く髪も拭いて、ジャージのファスナーも上まで上げる。この下は何も着ていない。パンツだけだ。ジャージの生地が直接、肌に触れている。違和感が凄まじい。
ささっと着替えてから、保健室の勝手口から出て制服を外に干しておく。冬なので太陽が燦々と輝いていても、気温は低いし寒ささえある。乾かない気がするけど、しないよりいいだろう。
体育着を詰めていた巾着バッグにパンツやらインナーやら半袖短パンやらを詰めて、カーテンを開ける。
「悪いけど、もう一度、これ、書いてもらえる?」
朝もお世話になったから、やっぱり僕の名前は覚えられているらしい。僕は彼女のことを養護教員としてしか認識していない。
渡されるままにクリップボードを受け取る。紙には、時間と名前、それから学年クラス、どうして保健室に訪れたのか理由を記入する欄があった。
今日の保健室への来訪者はそう多くない。朝方の僕がトップバッターで、その下に四人ほど続いている。どれもお腹が痛いとか、体育で擦り剥いたとかだった。
「べつに体調は悪くないですよ?」
「保健室に来た人は、どんな理由であろうと誰であろうと、そこに記録してもらうことになってるの」
「そうなんですね」
「理由を書くのが難しいなら、こっちで書いておくから」
ちょうど、五時間目の開始のチャイムが鳴った。でも来た時間は昼休みだから、昼休みでいいだろう。萬好芳樹 一年八組。
理由……書くのが難しいというより、なんて書けばいいのかわからない。着替えのため? そんなのでいいのだろうか。
ぺらりと紙を捲ってみる。やっぱり保健室には体調不良の生徒が集まっている。着替えなんてどこにもない。
「こら」
「あ……」
取り上げられた。
「個人情報」
「……すみません」
ならもうちょっと管理体制しっかりしたほうがいいですよ、とは言わないでおいた。
「パンツって、どうすればいいんですか」
「新しいのを、近い内に持って来てちょうだい」
「わかりました。失礼します」
一礼してから、僕は保健室を出る。一度、立ち止まった。保健室の外の壁には、心の保健室というピンクの張り紙が貼ってあった。まあ、ほとんどお悩み教室で合っているだろう。
校舎は静かだ。みんな授業中で、誰も出歩いていないからだろう。特に一階は、移動教室でないと授業では使われない。
「どうしたの?」
唐突に、壁から頭だけの紫月が現れた。ひょっとして、着替えも見られていたのだろうか。
「なにその顔」
「もしも天井から覗かれてたら、わからないなって思って。見た?」
「男の子のくせに何言ってるの。あたしに裸見られたら、恥ずかしい?」
「またそうやって質問で返す……」
はぁ、とため息をつく。でも。
「でも、べつに、恥ずかしくないな。いまさらだし」
「だよね」
「あ、見たんだ」
「いっけね」
「フェアじゃない。紫月も見せるべきだ」
「助けてくださーい。裸を強要されてまーす」
「ちょ、ちょちょっ!」
なんとか口を塞ごうと思ったけど、そうだった。紫月には触れられないし、その声が聞こえるはずもない。僕以外に紫月を、幽霊を認識できない限り。
そうなると、僕は宙に向かって手を振って何かを掻き消そうとしていることになるのか。しかも、前後がわからないから突飛な行動に見えてしまう。ぶつぶつ独り言をしゃべったあとにそれだから、地についた僕の評価が地下まで行ってしまう。
地下に行けば、黄泉の国でなら、紫月と一緒になれるだろうか。
「教室、戻らないの?」
「どうしよう。クラスメイトはきっと、僕がいなくて寂しい思いをしてるだろうけど」
「人気者だもんね。ずっと芳樹の話題で持ちきり」
「困っちゃうね。ジャージ姿で目立つだろうし」
「人気者は見た目から違うってことだ」
授業中に教室にずかずか入って行く胆力は、いまのところ僕にはない。すこし震えている。彼らはいま、なにを考えているだろう。
「それに、ほかにも気になることがあるし」
「?」
首を傾げる紫月。僕は彼女へ、射抜くような視線をした。
「紫月、保健室の常連だったらしいね」




