死んだらもう会えない
生死の境目はどこにあるんだろう、と思った。
どこからが死で、どこからが生なのか。どうすれば死んでいて、どうすれば生きているのか。
古事記によると、高天の原があって、葦原中つ国があって、黄泉の国があるらしい。この三つの世界は地続きになっていて、高天の原から神様が中つ国に降りてくることも、中つ国から黄泉の国へ行くことも、可能らしい。
高天の原から中つ国へは、天の浮橋という橋を使うようで、中つ国から黄泉の国へは、黄泉比良坂という坂道を下っていくようだ。
それを考えると、生死の境目とはどこにあるんだろう、と思った。
イザナミはカグツチを産もうとして、大火傷を負って死んだ。イザナキは死んだイザナミが恋しくて恋しくて、黄泉の国へ、例の黄泉比良坂という坂道を下って、イザナミに会いに行った。
結果的にふたりは喧嘩離れのような形になってしまったわけだけど、イザナミは黄泉の国にいたわけだ。黄泉の国は死者の国、だなんて言うけど、イザナミはそこで生きていたわけだ。
やっぱり、僕にはわからない。
死者の世界で生きている。なら、死とは何なんだろう。生きているとは、何なんだろう。どれを取って生きていると定義して、どれが取れなければ死んでいることになるのだろう。
僕は生きているのだろうか。それとも死んでいるのだろうか。
「また難しいこと考えてる? 芳樹」
僕の表情から読み取ったのか、顔を覗くようにして紫月が言ってきた。
「難しい、ってほどじゃないけど」
「へいお待ち。チャーハンセット!」
カウンター越しに半チャーハンと豚骨ラーメンが置かれた。僕が注文したものだ。会釈して自分の前に引き寄せる。
とりあえず、レンゲでスープを一口啜った。紫月はうわっ、と嫌そうな顔をした。いまから僕が食べるんだけど。
「すこし、考えていたんだ。紫月は、死ぬってどんなものだと思ってる?」
「死ぬ? うーん、難しいこと考えるね」
難しいことだったらしい。
割り箸を割って、麺を啜った。
「イザナミは死んでもイザナキに会えた。イザナキは会いに行けた。僕は、死んだらもう会えないって考えてた。死ぬって、そういうことだと思ってた。でも、古事記によれば、死んだ人は黄泉の国に行くだけで、黄泉の国では死者はふつうに生活してる」
「ふつうに?」
「いや、ふつうに、っていうのはちょっと、語弊があるかもしれないけど」
そこはどうでもいいのだ。
「そうじゃなくて。この、いま僕が生きてる現世、中つ国? から、黄泉の国に行けて、死者と交流が可能だったって話をしてるんだ」
「ふんふん。で?」
「……で。そうなると、べつに生死の境目もないんじゃないかって思って。なんていうか、遠距離恋愛? と同じに思えてくるんだ」
「イザナミとイザナキは夫婦なので、単身赴任です」
「あ、はい」
いちいち細かいやつだ。
ラーメンにコショウをふりかける。鼻がムズムズする。くしゃみは飲み込んだ。もう一度、スープをレンゲで掬った。うん、ちょうどいい。
「うわぁ……」
今度は声にまで出してくる。
「人がせっかく食べているのに、食欲が失せる。どういう神経をしてるんだ?」
「どういう神経をしてると思う?」
「質問に質問で返す……」
ダメだ。紫月とまともにやり合ってはならない。
ならば、と仕返しをする。レンゲでスープを掬った。
「一口、飲む?」
「冗談でしょ?」
「何。僕と間接キスは嫌なの」
「それもあるけど」
「あるのかよっ」
「豚骨は口が臭くなるのでNGです」
濁りのあるスープに目を落とす。
「ちなみに豚骨は体臭にも繋がります。あんまり食べないほうがいいよ?」
それは言外に、
「僕が臭いって言いたいのか」
顎に人差し指を置いて、小首を傾げて、
「ん~」
と、笑っている。
僕はレンゲを大きな口で頬張った。この味を味わえないなんて、紫月も可哀想だな。
チャーハンも冷める前にとりあえず一口。綺麗な丘を崩して解して、レンゲで掬う。
「自分で作っても、どうしてもチャーハンはこうはならない」
「火力が違うからね」
「レシピの問題だと思う。見てきて」
「やだ」
使えないやつだ。
チャーハンは簡単に作れる。作るだけなら、それはそれは簡単に作れる。でも、美味しく作れるかどうかは別問題だ。自分で作ると、パラパラにはならないし黄色くもならない。べちゃべちゃしてるのだ。なんでなんだろう。
「はい、餃子セット、しょうゆ大盛り濃いめ固めのお客さん」
「あ、わたしです。どうも、ありがとうございます」
「で、こちらが味噌ラーメン。半ライスもつ煮」
「はい。私です」
どこかで聞いたことがあるような声な気がした。いや、聞き覚えがなくても、すこし気になった。
このラーメン屋には男の店員しかいなくて男の客しかいなくて、それも僕以外の人はみんな、恰幅がいいのだ。店主はもちろんのこと店員、それからひとつ空いたとなりのカウンター席の作業服っぽい人も、横幅が僕の二倍ほどある。
店構えもあんまり入りやすいものではない。女子が入ってくるイメージがなかったもので、その聞き覚えのある声の主はもっとここにいるイメージがなかったもので、僕はついふり返ってしまった。
「意外と健啖家なんだね、天知さんは」
その名字の下に続く名前は、この場の全員が知っていても不思議ではない。僕の通う織田高校の、いや、織田市市長よりも有名な天知しろあが、こんなむさ苦しいラーメン屋にいたのだ。
さらりと音を奏でそうな切り揃えられた白い髪は、ここの熱気や湯気に毒されてしまわないか不安だ。汚れをいっさい知らない澄んだ青空のような瞳が濁ってしまわないか不安だ。
「見過ぎ」
紫月に指摘され、僕は顔を前に戻した。心配しているのだ、と言っても一方的なものだし、天知さんからすれば楽しい昼食をぶち壊されていい気はしないかもしれない。まあ、視線に晒されるのは彼女にとってはごくふつうの日常だろうけど。
「その細い身体のどこに収まってるの」
天知さんの対面に座ってた黒髪の女子は、友達だろうか。天知さんには負けるが劣らない顔立ちだったのは、一目見てわかった。天知さんをかわいいと称するなら、彼女はきれいだろう。美人な系統だった。
「運動してるから、いっぱい」
よく食べてよく運動する。素材の良さだけではないということだ。天知しろあのあの美貌は。
「あ、そう」
黒髪の彼女は話を断ち切るようにした。学校での取り巻きならまずしないことだが、取り巻きと天知さんがふたりで食事をすることもないだろうし、天知さんのしゃべり口調も敬語は外れて柔らかい声色が乗っているので、それほど親しい間柄なのだろう。
「濃くて固いものを食べて、濃くて硬いもので」
「そっちも一口ちょうだい」
「いいよ。シェアってやつだね。友達みたいじゃない? 写真を撮ってネットにあげてみる?」
つまりふたりは友達じゃないらしい。家の関係で、と言われても天知さんなら頷ける。
「あのさ、べつにいいんだけど、なんで私を誘ったの? 天理くんを誘えばいいじゃない」
くん付けなので男なのだろう。天知さんには親しい男もいるのか。これはまた許嫁というやつだろうか。
そういえば、うわさでは近頃、天知さんは昼休みになるとどこかへ消えると聞いた。ちょっと前には一緒に下校している男子がいるとも。同じ学校に許嫁がいるのか。
「うわ、あいちゃん凄いこと言うね。とんでもない、けしからん!」
どうやら相手方はあいちゃんというらしい。
「けしからん?」
「ラーメン屋にかいくんと来れるはずがないじゃん」
「ないんだ?」
「ないの」
なんでないのだろう。たぶん、あいちゃんも同じ疑問を抱えていただろう。紫月を見上げる。
「口臭」
「なるほど。じゃあやっぱり、天理くん? かいくん? って野郎は、天知さんのこれか」
僕は親指を立てた。
「サムズアップ。なにがよかったの」
「男って意味だよ」
「小指なら女、しか知らなかった」
だったら反対でわかるだろ。
「あとさ、そのあいちゃんってのやめない?」
「なんで。じゃあ、いかちゃん」
ふたりの会話は続く。あんまり盗み聞きするのもよくないけど、ついつい耳が集中してしまう。
「それはもっとやめて。あまちゃんって呼ぶよ」
「誰がアマだ!」
「そこじゃないんだけど。どちらかというと、海に潜るほうの海女でしょう」
「磯臭いってこと……?」
「……じゃなくて。嫌でしょ。私も嫌。だっていかじゃないもん。私は人間。あいちゃんってのも、なんだかムズムズする」
「えぇ。でもさ、あだ名は友達につけるんでしょ?」
ということは、ふたりは友達なのか。家の付き合いとかではないらしい。それにしてはたしかに天知さんも砕けているから、それはそうなのかもしれない。
「でもあだ名がないと友達じゃない、ともならないよ」
「ぶー」
「いや、べつに天知さんのことを友達じゃないとか、仲良くなりたくないとか思ってるわけじゃないよ。ただ、あだ名とかってつけようと思ってつけるものじゃないし、友達だからこうする、こうしないと友達じゃない、っていうのはちょっと暴論な気がするの」
「まあ、言ってることはわかる。餃子はラー油入れていいの?」
「そう。だから、私たちには私たちの形があると思ってるの。天知さんだって、天理くんとの関係を一般論の枠組みに落とし込められたら嫌でしょ? ラー油は入れないで」
「たしかにそれは嫌だ……。ラー油苦手なんだ……ふうん?」
「その顔を天理くんに見せてやりたい」
あいちゃんはラー油が好きじゃないらしい。天知さんの声音は弱点を知ってしたり顔でもしていそうなものだった。
「引き込まれる悪い顔、ってタイトルかな? どんな顔も魅力的になってしまう。困ったものだね」
あいちゃんのため息が聞こえてきた。
「じゃあ、私は今まで通り天知さんって呼ぶから」
「わたしは、逢坂さん?」
「そう」
「……」
気まずそうな沈黙だ。
「ど、どうしたの?」
逢坂さんが動揺していた。さっきまで自分を強く持っていたのに。相当、天知さんの表情に変化でもあったのだろう。
「なんか急に距離ができたね。もつ煮ちょうだい」
「……しろあさん、は? ……いいって言ってないんだけど」
妥協した。
「ちゃんはどう? あだ名じゃないし、下の名前で呼ぶのはふつうじゃない? 餃子はあげたよ?」
「しろあ……ちゃん? べつにくれたらあげるって言ってないけど」
「うん。じゃあわたしは、愛花ちゃん。……もつ煮、かいくんが作ったほうが美味しいよ」
「ちゃん呼びか……。あと、そういうこと言わない」
折れに折れた結果だ。ちゃん呼びは嫌なのだろうか。
「紫月ちゃん」
「……キモっ」
「ひどい」
「会話を盗み聞きしてることが、だよ」
「言い返せない……」
いや、紫月も盗み聞きしてただろう。じゃなかったらこの流れも理解できないだろう。
「そういえば、男の人って溜まるって言うよね? たしかに男の人は溜まったらだして発散できるからわかるけどさ、でも女の人も溜まるって言うよね?」
危うく、水を噴き出すところだった。カウンター席の作業着の人は咽せている。
いったい何の話をしているんだ、いやいや僕の勘違いかもしれない。まさか天知さんがそんな下ネタを。しかもかなりどぎつい食い込んだ話をしているはずがない。
ちらと様子をうかがうと、逢坂さんも唖然としていた。
「なにがどうなったらそういえば、でそんな話が始まるの」
「あれ、何の話かまだ言ってないんだけど、わかるんだ。ムッツリだね、やっぱり。ムッツリ愛花ちゃん」
それは僕にも刺さる。僕らに刺さる。
「……じゃあ、何の話だったの」
それは奥歯よりも奥の喉の底から絞り出すような声だった。
「もちろんその話なんだけど」
「じゃあ、なにがどうなってそういえば、なの。いまそんな話してた?」
「お腹いっぱいだな、って思って」
「どっちがムッツリよ……」
「失礼だね。わたしは日本語を学術的な視点で見てるんだよ。語学の観点からいうと、まったくの誤用ではないか、ってね」
「うんうん、それで?」
「だから、溜まっているとして、男の人は発散できるけど、女の人は余計に溜まるんじゃないかって。だってこう、お腹に受け止め」
僕は席を立った。
「ごちそうさまでした」
「またお待ちしてます」
危ない。危ない危ない。
天知さんも、案外危機感が足りていないのかもしれない。僕の口が軽かったら、すぐに学校中では天知さんのよくないうわさが広まっている。いや、誰も信じないか。そもそもラーメン屋にいたという時点で、怪しい。
僕は念のため、ガムを噛むことにした。
「ガムのミントと豚骨が混ざって最悪」
「……どうしろと」




