……しょっぱいかも
織田犬のキーホルダーを指で回す。私はようやく、理解した。どうしてこのキーホルダーに目を奪われていたのか。
マリモくんはキーホルダーを買っていたけど、私は買わなかった。
「そっか……」
買う必要がなかったのだ。すでに持っているから。
「あそこに、寄ったんだ。私たちも……」
そこで、買ったのだ。あの事故の日。私もあのときの子どものように、母にねだったのだ。
「……思い出した」
あの日、何があったのか。どこへ行こうとしてたのか。
「えっ。思い出したって……記憶が戻ったのか?」
「うん。そうみたい」
「なんでいま……?」
「さあね。でもマリモくんも言ってたでしょ。ふとした瞬間に、って」
私にとってのふとした瞬間が、ここだっただけだろう。
「そうか……じゃあ、俺もここまでだな」
「えっ」
なんでそうなる。
「死んだ瞬間の記憶がないなんてな、嘘に決まってるだろ。覚えてるよ、全部」
「じゃあなんで」
そんな嘘を……
「事故のこと思い出したら、お前が一番傷つくだろ。記憶はないほうが、俺たちのことなんか、もう思い出さないほうが楽なはずだったんだけどな」
ずいぶん身勝手だ。その身勝手さに、私は翻弄されていた。
「でもまっ、いまのはお前にはちゃんと生きてる人間で側にいてくれる人がいる。あの後輩たちがな。それに、俺たちがいなくなれば、お前もふつうだ。幽霊なんか見えないふつうになれる」
「じゃあ、未練って……」
「格好つけるなら、兄として妹を心配してたってことだ」
「かっこよくないけど……」
「おい」
たしかに私は自分が変であることを自覚していた。幽霊が見えるから、と。そして、彼らに未練があるならそれも解消して成仏させてあげたいとも思っていた。でも、それは、いまの私は違う。
「べつにふつうじゃなくていい。変でもいい。居てよ。一緒に」
「そういうわけにはいかない。心残りはないんだから、もう居れないんだよ。じゃあな」
「待って!」
掴めない。兄は、消えた。満足そうな笑みで、消えて逝った。
父と母が戻ってくる。この話も聞いていただろう。私は、ふたりに申し訳が立たなかった。会わせる顔がないというのは、こういうことだったのだろう。私は咄嗟に、ふたりの顔を見てまず、こう言ってしまった。
「ご、ごめんなさい……」
それだけで、それがどんな謝罪を示しているのかわかっているようで、父と母は顔を見合わせると、父だけが残った。
「ごめ、ごめんなさい。ごめんなさい。お父さん。私のせいで……」
「違う。それは違うぞ。千代」
「違くない!」
だって、お父さんが死んだのは、みんなが死んだのは、私のせいなのだ。私が殺したのだ。
「私が、私が行きたいなんて言い出さなければ……あの日、高速にも乗らなかった……事故にも……」
夏休み、どっか行こうよと言ったのは私だ。どこに行きたいのかと言われて、行き先を選んだのも私だ。帰省なんかじゃない。私の希望で、私の行きたいところに行ったのだ。その道中で、事故に遭った。
「私が、私のせいで……みんな、死んだ…………!」
息ができない。
事故で死んだのはそうだけど、その事故に遭う原因を作ったのは、間違いなく私。なのに、その私だけが生き残ってしまった。どうして……どうして、私だけが……。
「げほっ、げほっ……おえ」
「千代のせいなんかじゃない。あれは事故だ。誰にもわからなかったし、誰のせいでもない」
口からも鼻からも目からもいろいろ垂れている。そんな私の背中を、お父さんは撫でてくれた。
「千代だけが生き残って、俺は千代だけでも生きててくれて、嬉しかった。でも、千代のその先が不安だった。絶対、千代は自分を責める。そんなことしないでほしかった。それが、俺の心残りだった。だから、記憶なんかなくていいと思った。それでいいと思った。思い出せば、千代は自分を責めるから。生きててくれるなら、なんでもよかったんだ」
「う、うぅっ……」
「だから、約束してくれよ。ちゃんと生きるって。じゃないと、俺は成仏できない」
「できなくていい! そのままでいいよ!」
「困ったなあ……ははっ」
いつものように、お父さんは頭に手をやった。
「まだお酒飲んでないよ!? 私と一緒にお酒飲まなくていいの!?」
「そ、それを言われると揺れるな……あんまりお父さんを困らせないでくれ」
「私をひとりにしないでよ……」
「……。……あんまり、俺にも時間ないからな。まあ、酒は墓にでも供えてくれよ。そうしたら、たぶん飲めるから」
父も消えた。消えて逝った。私はしばらく、蹲って泣きじゃくっていた。
「あらあら。もう、顔がぐちゃぐちゃじゃない。あーあ、袖で拭いてるから、赤くなっちゃって」
母がやって来た。私のぐちゃぐちゃの顔を見て、しょうがないわね、と嘆息する。
「千代ちゃん、お味噌汁、まだ作ってなかったわね」
いつだったか、約束したこと。もう覚えていない。
「ほら、お母さんは触れないんだから。千代ちゃんがやるのよ」
キッチンから急かされる。急かされるまま、私は手を動かした。
鍋に水を入れて、コンロに火を点ける。沸騰するまで待つ。
「お母さんも、いなくなるの……」
鼻を啜る。鼻声だった。目も痛い。擦りすぎたかもしれない。
「そうね」
「やだよ」
「そんなこと言ったって。しょうがないじゃない。むしろ、感謝するべきよ。ほかの家族がみんながみんな、こうやって死んだあとの時間があるわけじゃないんだから」
「なら、成仏しなくていいじゃん」
「どういう意味よ」
そのままの意味だ。なにがおかしい。
「これはせっかくもらった最後の機会なの。図々しいことをしていれば罰が当たるわ。きちんとお別れをする。それだけ」
「お母さんはいいの」
「……よくはないわね」
「じゃあ」
「ほら、味噌の準備」
ぶくぶくと、水が沸騰してきた。冷蔵庫から味噌の箱を取り出す。
「お玉で味噌を掬って、菜箸で溶かしていくの」
「あ」
「あ」
鼻水が入ってしまった。
「まあ、いいアクセントになるわね」
「これを毎回するのは嫌だけど……」
味噌を溶かす。溶けきれないけど、もう面倒いのでいい。菜箸で潰す。
「ちょっと」
「なに」
「……はぁ。で、味見してごらん」
「お玉でいいの?」
「お玉でいいの」
お玉ですこし掬って、口に含む。
「どう?」
「うん、いつもより薄い」
「でしょうね」
「わかってたの?」
「明らかに少なかったもの」
じゃあそのときに言ってほしい……。
「追加すればいいの?」
そうお玉を味噌に突っ込もうとすると、
「ダメよ!」
ストップが飛んだ。
「お湯につけたんだからもうダメ」
「え。じゃあいつもどうしてるの。スプーン?」
呆れたような顔をされた。
「それで薄かったらどうするのよ」
「またスプーン?」
「何個使う気?」
それは、終わらないとわからないけど……。
「これはいい教訓だと思って。薄い味で飲みなさい」
「えぇ……」
「何回かやってれば覚えるわよ。お兄ちゃんにも教えたけど、千代ちゃんには教えてなかったから」
朝も昼も夜も、勝手に出てくると思っていた。もちろん、そんなはずがなくて、作ってくれる人がいたわけで、お母さんは毎日これをやってくれていたわけだ。今度からは、自分でやらないといけない。……今度からは、自分ひとりで……。
「そしたら次、冷蔵庫には何がある?」
冷蔵庫の中身を覗く。
「豆腐とか? ニラ、わかめ、油揚げ……」
「あら、ネギって買ってなかったかしら」
「……買ってないね」
「本当に?」
「あ、あぁ! なんかあった。奥に。誰だろうこんな奥に仕舞ったの」
「千代ちゃん以外にいないでしょう。好き嫌いしない」
「だあってー」
ネギは嫌いだ。絶妙な臭みがある。
「豆腐の切り方を教えるから。手の上で切るのよ」
「手で切る?」
「手をまな板代わりにするの」
「手を切るってこと?」
「ちょっと黙ってなさい」
はい。
蓋を剥がすと黄色っぽい汁? が溢れる。それを手の上に乗せた。
「で、こう、こう」
お母さんも左手に豆腐を乗せているイメージで、右手を包丁に見立てて指示してくれる。まずは左手と平行に包丁を入れるらしい。
「こう?」
「そう!」
で、次は包丁を左手に垂直に降ろしていくらしい。
「こう?」
「そう!」
「なんだ簡単じゃん」
包丁を引き上げると、サイコロのサイズになった豆腐がぽろぽろとシンクに流れていった。
「三秒ルール」
「やめなさい!」
大人しく、捨てておく。
「ニラは自分の好きな、食べやすいサイズに切って。ニラは血液をさらさらにしてくれるのよ」
「始まったよ」
細かく切るのは面倒くさいので、一口大ぐらいに切る。するとあら不思議、包丁は十回も要らなかった。
「わかめも入れていいの」
「わかめは入れないの」
「入れないの」
「そう。お椀に直接入れていいの」
「へえ……」
油揚げも適度に、包丁もすくない数で済ませる。
準備できた具材たちを投入してから、改めて火を点けて再度、味噌汁を温める。程よく温まってきたらしい。お母さんが口を出してきた。
「味見て」
お玉で掬って、一口。
「うん。味噌汁」
「当たり前でしょう。味噌汁作ってるんだから」
火を止める。お椀によそる。わかめも追加しておく。
「では、いただきます」
箸で軽くかき混ぜて、お椀に口をつける。
「……うん。美味しい」
「まあまあね」
「素直に美味しいでいいんだよ」
「お母さんが作ったほうが美味しいわよ」
「わかってるよ!」
私のほうが美味しかったら、それこそおかしいだろう。
「でもまあ、お味噌汁が作れれば大丈夫よ。この先も生きていける」
「とんでもなく信頼されてるね、きみ」
「これからも練習するのよ。そうすれば、お母さんの味にも近づけるかもしれないから」
「はーい」
どうしてお母さんの指示に従っているのに、私の味はお母さんの味と違うんだろう。……お母さんの味噌汁の味って、どんなだっけ。
「次はさ」
顔を上げる。私はため息をついた。
「……しょっぱいかも」
消えて逝た。




