ふざけてなんかない
幼くても緊張はするし恐怖も覚える。むしろ、子どものほうがそれらに対処する術を知らないので、余計にそいつらは大きく見えたりする。
私は穂乃花ちゃんとの会話を楽しんだ。穂乃花ちゃんの意識が逸れるように、楽しい会話をした。いかに穂乃花ちゃんがママのことを好きか、この短い時間でも痛いほど伝わってきた。
高校から、穂乃花ちゃんのお家までは歩いて20分ぐらいだったか。穂乃花ちゃんの歩幅に合わせていたというのもあるので、距離にすればそこまで遠かったわけじゃない。あまり来たことのない方面だったので不安もあったけど、表札には中村と書いてあるので間違ってはなさそうだ。
家を前にしてからは、たぶん、私のほうがずっと緊張していたはずだ。
穂乃花ちゃんが首を傾げて見上げてくるので、私は大丈夫だよと笑顔を作る。そして、ゆっくりと、インターホンを押した。
「……はい」
暗い声だった。女性なのか男性なのか、よくわからない。掠れてもいた。
私は、ハキハキとした声音を意識した。
「すみません。私、千種千代といいます。すこし、お話いいですか」
「……」
答えがなかった。切れたことだけはわかった。声音からも、あんまりいい状態ではなさそう。娘を失ったのだ。話なんか、したくないだろう。ダメだったか。
でもまあ、まだ時間はある。いまはまだ八時だ。粘れる。あと12時間ぐらいなら、粘れる。
そう思っていたら、扉ががちゃりと開いた。狭い隙間から、顔だけが出てくる。
「ママ!」
ひどくやつれていた。記事にはまだ30歳とあったというのに、その老けた顔つきはあのおばさん幽霊よりも年齢を感じさせた。
「どちらさまですか」
インターホンから聞こえてきた掠れ声、暗い声と同じ。生気がないような声は、同一人物。
もちろん、彼女が穂乃花ちゃんの声に反応することはなく、私にだけ、問いかけてくる。
「中村、明日花さんですか?」
「そうですけど……」
私は、唾を飲み込んだ。意を決して、言う。
「私、幽霊が見えるんです」
反応は遅かった。
「は……」
怒るでもなく笑うでもなく、そもそも頭に言葉が入っていないような感じで、私はもう一度、言った。
「幽霊が、見えるんです」
ぴくりと目がひくついた。
「な、なにを……」
「私は穂乃花ちゃんと一緒にいます。ここに……ここに、穂乃花ちゃんはいます」
視線をとなりに落とし、穂乃花ちゃんの存在を訴える。私ですら触れられないのだから、明日花さんには感じることもできない。私には伝える手立てがない。悔しい。
「ふざ、……ふざけないで!」
「ふざけてなんかない!」
ふざけてなんかいない。ふざけてこんなことはしない。
ここにいる穂乃花ちゃんは生きていないかもしれないけど、それでも嘘ではない。ふざけた存在にはさせない。
「り、りんごのクマさんが食べたいそうです」
私は自分で言いながら、りんごのクマさんとはいったい何だ、と思っていた。りんごならうさぎじゃないのか、と。でも、穂乃花ちゃんは頑なにクマさんと言うのだ。
「もう一回、ご本を読んでほしいそうです。猫が飛び回って友達を作る? お話」
これもタイトルまでは覚えてないようだったし、内容もびゅーんとかばーんとか効果音が多くてよくわからなくて、解釈に非常に苦労した。ストーリーは間違ってないはず。
「それと、どんぶりを幼稚園から持って帰ってきてしまったらしいです。きつねさんの中に隠しているとか」
「ごめんなさい……」
「い、いまも、ごめんなさいって言ってますよ!」
しょんぼりしている穂乃花ちゃんに、私はそもそもどんぶりを持ち帰るとは? と訊きたい。しかもきつねさんの中に仕舞うって? どんぶりが入るきつねさんって、どんだけ大きいんだ。
「えぇっと……それから、それから……」
ヤバい。
ここに来るまで、穂乃花ちゃんからお母さんと楽しかった思い出とか、謝りたいこととか訊き出したのに、もう覚えていない。というか、子どもの会話は突拍子がなさ過ぎて、すぐに話が変わってしまうんだ。しかも理解できない単語だったり、想像に悩んでいる隙に。
「もう、大丈夫です」
自分でも意味がわからないことを言い続けている。幽霊が見えるだなんて発言をしたあとなのだから、明日花さんがそう拒否するのはごもっとも。ダメだったか、と扉が閉まるのを覚悟していたら、明日花さんは扉を押して玄関から出てきてくれた。
目を丸くしている私に、服への気遣いをする余裕もないであろう明日花さんは、寂しそうに笑った。
「クマさんのりんごって言うのは、ピックのことです。穂乃花ちゃんは、クマさんのピックが刺さってるりんごが好きなんです」
「あ、ああ……なるほど」
明日花さんが技巧派の職人で、りんごでクマを作っているわけではなかった。
「穂乃花ちゃんは本をご本と言います。たぶん、どんぶりはどんぐりのこと。柴犬のことをきつねさんって言うので、きっと……」
これでやっと、私の想像も追いついた。柴犬のぬいぐるみに、どんぐりを隠したのか。それなら納得だ。サイズ感も、問題ないだろう。
「そこに、いるんですか。穂乃花ちゃんは」
明日花さんは私のとなりをじっと、目を凝らしている。まるでそうすれば、いつか見えるようになる、とでも言いたげに。
私は、頷いた。
「ずっと、穂乃花ちゃんは明日花さんを探してたんです。待ってたんです。ひとりで、あの場所で。大好きなママが迎えに来るのを。大好きなママに、大好きだって言うために。ごめんなさい、って言うために」
「……ごめんなさい……?」
私は膝を曲げて、穂乃花ちゃんと目線を合わせた。その肩に両手を置く。
「穂乃花ちゃん。ママに何て言うんだっけ?」
モジモジしながらも、穂乃花ちゃんはちらとママを見上げた。明日花さんは私の視線を辿って穂乃花ちゃんがいる場所を見つめているけど、微妙にズレている。
「……ごめんなさい」
「うん。なにが、ごめんなさい、なんだっけ?」
「……ママのててを離しちゃったから。ちゃんとつないでって言われたのに」
ててっていうのは、たぶん、手のことだろう。
「ててを離しちゃってごめんなさいって言ってます」
下唇をぐっと噛んだ明日花さんは、いまにも泣き出しそうだった。
家の敷地から出てきて、明日花さんは道に膝をつく。腕を広げる。
「ママのほうこそ、ごめんね。ママは穂乃花ちゃんのこと、ずっと大好きだから」
たたっと駆け寄った穂乃花ちゃんは、大好きなママの胸に飛び込む。満面の笑みで、これでもう思いを残すことはないと胸に飛び込んで、そして、消えて逝った。
その場で穂乃花ちゃんを抱きしめながら、明日花さんは嗚咽を上げている。
もう私にできることはない。これで成仏ということなのだろうか。穂乃花ちゃんは、これで満足できただろうか。
私は、立ち去った。




