そもそも、幽霊って救えるものなの
明くる日。
「千代ちゃん朝よ!」
目覚ましが鳴るよりも一時間近く早い時間に叩き起こされる。この頃、私は目覚ましを目が覚めきってからしか聞いていない。
「まだ六時じゃぁん……」
「朝ご飯作るんだから。お弁当も作るんでしょ!」
「朝よって台詞は、朝ご飯ができたよって意味じゃないの……」
「私は作れないんだからそんなわけないでしょ」
ドヤ顔があった。はいそうですね。……まったく、何をそこまで自信満々に言っているのか。
大きなあくびをしながら目を擦りながら階段を降りて洗面台の前に立って顔を洗う。未だ覚醒していない頭でフライパンをコンロの上に置き、火を点ける。
「かん」
「換気扇ね、はいはいわかってますよ」
耳にタコができるほど繰り返されている。私は次に換気扇のボタンを押す。
「朝は何を作ればいいの」
「最初は簡単なものでいいのよ。目玉焼きとベーコンを焼くだけでいいの」
「はいはい……」
冷蔵庫を開ける。ベーコンと卵を取り出す。
ベーコンを温まってきたフライパンに投入。じゅわ、ぱちぱち。
ぼんやりした頭ではずっと眺めていそうで、また焦がしてしまいそうだ。私は卵を割った。
「ん?」
私は卵を割った。卵を……
「あ」
「あら」
握り潰してしまった。
「どんな握力してるのよ」
「加減がわからなかった」
どうすればいい、と目で訊くと、彼女は一歩身を引いた。
「もう潰れちゃったから、それは朝ご飯用に卵かけご飯にしましょう」
屈んで、さっきまで彼女がいたシンクの下から小さなボウルを見つけ出し、そこに握り潰してしまった卵を入れる。
「殻も入ってる」
「取るのよ」
「面倒くさ」
「卵かけご飯ががりがりじゃりじゃりで、歯茎に刺さってもいいなら、そのままにしなさい」
「それは嫌だ」
菜箸の先端で摘まむようにしていたけど、この繊細な作業はイライラする。私は手を突っ込んだ。
となりで女の幽霊が、額に手を置いたけど気にしない。食べるのは私なんだし、これで味に違いなんか出るはずがない。
「ベーコン」
「……もっと早く言ってよ!」
火の勢いを弱める。でも焦げができてる。どうしてこうなるんだ。
「で、次は?」
「卵を、ちゃんと加減して割ってから、フライパンに入れる」
いちいち小言を入れてくるなんて。性格が悪い。
私はちゃんと力加減をして、四回、五回ぐらい角にコンコンと割れ目を入れて、親指を突っ込む。ぱかりと開いた卵は、中身だけがフライパンに落ちていく。今度は黄身と白身がちゃんと別れている。
「どんなもんだい」
「殻入ってるわよ」
「くそっ!」
私は、このどうにもならない焦れったい感覚に苛つきを覚え、つい殻を取り除こうと指を突っ込んでしまった。
「あつっ!」
当たり前だ。熱されたフライパンの上なんだから。
「何やってるのよもう。ほら、水。冷まして」
冷水で指の先を冷やす。可哀想な私。
「火傷してない?」
「たぶん……」
「しっかりしなさいよ」
「ウチは学食があるからそこでもいいんだけど」
「自炊ができると目利きができて結果的にお金が貯まるわよ」
なんて現金な。幽霊からそんな言葉は聞きたくなかった。
「それより、今度は目玉焼きが焦げるわよ」
菜箸で時折、目玉焼きを突くようにして、裏面がフライパンにくっつかないようにする。
「もういい?」
「まだよ」
「もういい?」
「まだ」
「まだぁ?」
「もういい」
火を止める。
この女の幽霊の目にはこの目玉焼きがどう見えているんだ。どこが基準を超えたんだ。判断がわからない。
弁当箱にベーコンを敷いて、その上に目玉焼きを置く。ちょっと大きい。蓋からはみ出てる。指で千切って口に放り込む。
「……へへっ」
女の幽霊も認めてくれた。うん、そりゃそうだ。捨てるほうが勿体ないのだから。
次はボウルの中に放置していた、握り潰された可哀想な卵。菜箸でかき混ぜる。
「空気を入れるのよ空気を」
「ふー、ふー」
「バカじゃないの」
「説明が下手って言われない?」
やれやれ、と失望しているけど、私だって同じだ。初心者にはもっと優しくするべき。私じゃなかったらとっくにやる気が逃げてる。
「ボウルを傾けるの。で、ただかき混ぜるんじゃなくて、こう、……円を描くっていうか」
「……こう?」
とりあえずボウルを傾けて、菜箸で円を描くようにしてみる。
「それじゃあただかき混ぜてるだけでしょ!」
「円を描くも同じでしょ!」
「ああああ貸してみなさい!」
そして、彼女は私からボウルを奪い取ろうとして、すり抜けた。
呆然と、彼女は自分の手を見つめる。すっかり忘れていたようだ。自分が幽霊で、物体に触れないことに。
あまりにも悲しそうな顔をするものだから、私も不憫に思えてくる。
「べつに、時間はあるから。ちゃんと教えてよ」
なぜかアラームが鳴る一時間も前に起きているので、朝には時間の余裕がある。焦ることはなかった。
「……そうね」
私は菜箸で円を描くようにする。
「ていうかそもそも菜箸の持ち方が違うわよ。臼で米挽きしてるんじゃないんだから」
「元気になったようでよかったです」
ていうか臼で米挽きって何だよ。専門用語使うな。
私はべつにお弁当はあとは白米があれば充分なんだけど、女の幽霊がベーコンエッグと白米だけのお弁当を見て、あり得ないと首を横に振ったので、細やかな気遣いでトマトとブロッコリーを添えると、渋々と頷いてくれた。
彼女の指南は料理に限らず厳しいので、朝ご飯を作りながらお弁当を作りながら洗い物まで同時進行する手腕だった。二本の腕しかない私が阿修羅に敵うはずもなく、朝ご飯の席についた頃には自然とため息が出てしまったものだ。
「次はお味噌汁よ」
家にいても特にすることがないので、たまにはと早めの登校をしていると、女の幽霊が末恐ろしいことを囁いてきた。
「そんなにインスタント飲んだこと、ダメなの?」
卵かけご飯を用意して、それだけ? と言われたので私はその言葉を待ってましたとインスタントのお味噌汁を見せつけたのだが、そのせいで、次が決まってしまった。お味噌汁を作ることが決まってしまった。
「べつにダメじゃないわよ。でも、ちゃんと作ったほうが美味しいし安いしそれに一回作れば夜ご飯にも飲める。お昼にだって持って行けるし、自分好みにもできるし」
「はい、作ります」
そう言わないと延々と語っていそうだ。
私も日本人だから味噌汁で幸せの味を摂取できるし、特に寒いこの季節では一口目が至福の一時。でもそこまでのこだわりはない。今日のインスタントだってちゃんと美味しかった。ちなみに今日はなすだった。
「そういえば、ほかの幽霊たちは?」
「さあ。どこかで何かしてるんでしょ」
無頓着だ。幽霊同士であっても大して興味がないのか。まあ、私も同じ人間だからって全員に興味があるわけじゃないし、日本人だからってだけで無条件に好意は持たないから、そうなのかもしれないけど。
「それより、話してて良いの。周りからは千代ちゃん、独り言ぶつぶつ話しながら歩いてる変な人よ」
散々自分たちから話し掛けてきたくせに、いざ私が応じると案じてくれるのは、どういう矛盾だ。
「まあ、いっかな。いまはいつもと違って制服姿すくないし。同じ学校の人ならいざ知らず、ただすれ違っただけの通行人なら、もう会わないだろうしね」
だから変な人だって思われても、実害はない。思った人も、わざわざ私の存在を流布するようなことはしないだろう。話のネタにはするかもしれないけど、それも私の知らないところだ。
「それに、そういう人いるしね」
「あら。そうなの?」
なにか勘違いしていそうだ。
「うん。スマホを耳に当てなくても、耳につけたイヤホンだけで会話してる人いるでしょ。それとまあ、おんなじじゃない?」
前から歩いてくる人が、ひとりでぶつぶつ呟いてたとしても、通話している可能性だってあるのだ。はたから見れば、彼らと私は同じく変な人であり、同じく通話しているだけの人になり得るのだ。
「へえ。イヤホンだけで通話ができるの。便利な時代ねぇ」
「そんな古い人だったの?」
実は明治とかの人だったのか。でもイヤホンの存在は知っているし、服装はいまも珍しくはない。ただの機械音痴。そういうのに疎いおばさんだったのか。
いやな予感がした。
校門前まで歩いていくと、そのいやな予感にも近づいていくようだった。徐々にそれは大きくなっていって、その正体も判明する。
泣き声と、子ども。
このセットを目の当たりにして、いい気分にはならないだろう。さらに私の予感をいやな予感たらしめる理由が、そこにはあった。
周りの誰も、気にしていない。
通勤中の車はそもそも気付いていないのかもしれないけど、小さな女の子が目を擦りながら大声で泣きじゃくっているというのに、自転車も通行人も素通り。私と同じ制服姿を着ている人もまるで見えていないかのように、校門をくぐっていった。
「あの子、幽霊でしょ」
答えは要らなかった。
ちりんちりんと鈴の音を鳴らして、軽快に走る自転車が女の子に突っ込んだというのに、どちらにも接触はなかったのだから。すり抜けは女の子がこの世のものではないという何よりの証拠。
「幽霊ね」
女の幽霊がいまさら答えてくれる。
「はぁ」
私はため息をついて、足早にこそこそと、何も聞こえない何も聞こえないと呟きながら、校門をくぐる。
「ああいう幽霊が一番、面倒くさい」
女の幽霊が苦笑するので、私は誤解されているのではと補足する。
「あなたたちみたいな幽霊とか、不気味に恨み辛みを吐きながら両肩にのし掛かってる幽霊とかは、適当にあしらえるし何かあったんだろうな、で終わるけど、ああいうのはよくない。心にくる。しかも子どもっていうのがよくない。子どもが泣いてたら、可哀想だし気になっちゃう」
「じゃあ、助けてあげたら?」
「そんな発想なかった」
私が助けるだなんて。生身の人間ともロクに関わりがないというのに、いきなり幽霊を助けるだなんて。
「まあ、私にはできないことだね。私は幽霊が見えるだけだから。そもそも、幽霊って救えるものなの?」
返事はない。
下駄箱から、上履きを取り出す。
「それに、面倒くさいし」
通学路で制服姿はあんまり見かけなかったからといって、登校している人がいないというわけではなかった。
二年六組の私のクラスには、すでに三人ぐらいの生徒がいた。この時間帯はそれこそ部活の朝練があったりするので、登校している人は思っているより多いのだろう。
ふたりは部活の朝練でもサボっているのだろうか、ジャージ姿で駄弁っている。もうひとりは、机に齧り付いてペンを走らせていた。
早めに登校したはいいものの、することがない。暇だ。暇なのはいいとして、退屈なのはよくない。もしも私がひとりだけなら、この幽霊とも話すんだけど。さすがに教室で独り言はできない。幽霊も自重してくれているのか、口は閉じている。
行ける場所としては図書室ぐらいだけど、腰が重い。顎肘つきながら、なぜ腰が重いか考えてみる。
「……」
考えるまで間もなく、答えは出た。
「はぁ」
退屈だというのに、頭の中にずっと滞在している面倒な輩がいるからだ。




