天知には天知なりの
しばらく、啜り泣く声が続いた。その後、教師が渡辺母の肩を支えるようにして立たせた。
「私は彼女についているので、ふたりは、帰ってください」
頬を赤くしたままの佐白に言われる。答える間もなく、佐白も渡辺母を伴って職員室に消えていった。
「鍵、返してないんだけど」
静まり返った廊下で、天知が言ったのはそれ。
「明日でいいでしょ」
いま、返せる空気ではない。職員室をノックすれば、さすがの天知とて、邪険にされる。
鍵をカバンに放った天知と、階段を上り二階の生徒玄関で靴を履き替え、校門から高校の敷地を出る。右に折れて信号で立ち止まる。目の前を車が素早く駆け抜けていく。信号が青になって、同時に足を前に出した。
いくつか、それを繰り返した。どれだけの信号で立ち止まって、どれだけの横断歩道を渡ってきたのか、覚えていない。通学路は頭に入っているのでいまの場所からも逆算できそうだが、歩道のタイルしか視界にないのでいまがどこかも正確にわからない。
まあ、わかったとしても、逆算する気にはならないのだが。
「渡辺先輩って?」
あやふやな問いかけをしてしまった。が、天知は答えてくれる。
「交通事故で亡くなった。日曜日の、お昼過ぎのこと」
「つまり昨日ってことね……」
はぁ、と小さくため息をつく。
「じゃあ、あの女の人は……?」
「渡辺さんのお母さん」
憂鬱だ。憂鬱な気分だ。しかし言ってしまえば、それだけだ。あの母親のように取り乱すことはない。
短い関係性の逢坂ですら憂鬱な気分なのだから、母親が襲われている感情とは、いったいどんなものなのだろう。想像は遠く及ばず、想像は想像に過ぎず、取り乱すのも不思議ではないほど、激しい感情なのだろう。
「さっき、何を言おうとしたの?」
「渡辺さんが死んだことを、まるでわたしたちのせいだ、みたいに言われたからね。さすがにそれはおかしい」
「だから、渡辺さんが死んだのはわたしたちのせいじゃありません、筋違いです。って、言おうとしたの?」
「うん。交通事故で死んだんだから、加害者は車の運転手。というか渡辺さんが飛び出たんだからね。ある意味では、車の運転手も被害者だよ」
天知が知ってきた、渡辺の身に起こったことを想像してみる。
「それに、道路に飛び出すような不安定な心理にさせたのは、あの母親だから。わたしたちは丁寧に渡辺さんと向き合っていたのに、あの人はそれをぶち壊して、渡辺さんが見ているのは全部妄想だって突き付けたの。そりゃあ家も飛び出すし道路にも飛び出る。車が迫ってきても、接触するまで本物とは思わないから避けようともしない」
日曜の昼過ぎに交通事故。家を飛び出した、道路に飛び出した。
母親が妄想だと突き付けたのは、渡辺が起きてからすぐなのだろう。土曜は深夜から廃墟で一緒だったし、帰りが日付を跨いでもおかしくはない。
「つまり、渡辺さんが死んだのはお母さんのせいで、お母さんはその責任を私たちになすり付けようとしている。……天知さんはそう言いたいんだね?」
唇をきゅっと噛み、眉間はぐっと皺が寄る。
天理の言葉を思い返す。天知はまだ人間に適応できていない。神様の基準で物事を考えている。
神様なら、そうなのだろう。天知を代弁した逢坂の言葉は正しいのだろう。しかし、そうではないはずだ。
天知は頷かなかった。代わりに、こう言う。
「間違ってる?」
善悪という概念を知らない無邪気な子どものようでありながら、怒られていること、自分が間違っているのではないか、と自省をしているところもある。縋るような瞳は、間違ってると一言で切って捨てるのはできなかった。
「間違ってるとは思わない。天知さんが言おうとしたことは、そうだよ。正しい。でも、正しければいいっていうものでもないと思う。だってそれって、機械でいいじゃん。人間じゃないよ。私たちは人間。でしょ?」
機械や神様なら余計な感情は抜きで理屈の上で動くのかもしれない。天知の言葉は一寸の違いもなく正しく、それを言うことも正しかったのかもしれない。しかしそれは同時に、あの母親が母らしく子を想うことも否定している。
「あのお母さんの立場にもなってみてよ。夫を亡くして、娘を一人で育てなくちゃいけない。なのにその娘は、いない夫と会話している。それに合わせなくちゃいけない。私たちですら五分十分が限界なのに、同じ家で家族がそうなってしまったら……。自分も悲しいはずなのに、娘の妄想に付き合って夫と会話しなきゃいけない。まるで生きているかのように振る舞わないといけない。おかしくなっても不思議じゃないでしょう?」
「……」
あの場で、天知が言おうとしていることは相応しくなかったことはわかる。わかるが、それをどう説明して納得させるかを、理屈で表現するのは難しい。なぜなら、これは感情の問題だから。
「説明するの、難しいね。だからたぶん、納得するのも理解するのも難しいと思う。感情を言葉に落とし込めるのって、元々無理なんだと思う。でも、……そうだな。天理くんなら、ああしてたと思う」
だから逢坂は、強引ではあったけど、そうしたのだ。
「かいくんなら?」
「うん」
「わたしの頭を抑えて下げさせた?」
「うん」
それで幾分か、理解できただろうか。納得できただろうか。
逢坂の理解や納得とは違っていい。天知には天知なりの落としどころ、解釈があればいい。
天理がやっていることも、きっと、そういうことなのだろう。




