すみませんでした
空になった紙コップに水を入れ、一息に飲み干す。くしゃっと潰してゴミ箱に放り投げると、ん~~! と伸びをした天知も席を立った。
統合失調症とは名前ぐらいしか聞いたことがない。詳細はあとで天知に訊くとして、逢坂は自分なりにも調べてみようとも思った。
部室を出る。天知は鍵を閉め、扉に手をかけ、施錠されたことを確認した。
「あとで天理くんにもお礼を言わないと」
「なにが?」
「廃墟に入るために許可取ったんでしょ? 鍵ももらって。先に中も見てもらって」
「ああうん。でもいいよ。部活をサボってたんだから。それぐらいは当たり前」
「たったいま、天理くんが忙しい理由を垣間見た気がした」
逢坂とて、幽霊は信じていないが廃墟に自ら乗り込もうと思うほどではない。ふつうに事故や虫、獣、それから不良や犯罪者がいる可能性だってある。そこに女子三人で乗り込むのは、ふつうにストップをかける。
それでも乗り込めたのは、天理が土地、ホテルの権利者に許可をもらい鍵を借り、何回か廃墟に訪れて誰も何もいないことを事前に確認してくれていたからだ。天知は平然と言うが、易々とできることでないことぐらい、逢坂でもわかる。
階段を降り、二階。生徒玄関が視界に入ってくる。
「鍵を返してくるから、先に帰っていいよ」
職員室へ部室の鍵を返すため、天知は職員室のある一階へ降りる。逢坂も一緒に、一階へ降りることにした。
「渡辺先輩には、どうするのが正しいんだろう」
「否定はしないことだね。でも肯定もしない。妄想は認めてあげちゃダメ」
「難しい」
「正直、わたしたちにできることはないよ。病院に連れて行けるのは、家族ぐらいかな。ただ、現実もあるって渡辺さんに知ってもらえる」
「妄想って、その夏希って人だけ?」
「ううん」
統合失調症であることも、それが再発であることも、薬を飲むのを自己判断で止めてしまったことも、そして、逢坂たちの前以外でも、妄想の住民と話している姿を、天知は知っているのだろう。
「渡辺さんは父親を亡くしてる。それが発症の原因でもある。それから、漫画が出版社の目にもついたって思ってるらしいけど、それも妄想。どちらも、そうであってほしいと思ってるんだね。まだ父親は生きてる、自分の漫画は面白い。そして夏希は、そんな渡辺さんを認めて守る壁みたいな人」
「……」
言葉が出なかった。
だから敵認定されないように、否定はしない、という結論に落ち着くのだろうか。
などと思っていると、一階に降り、特別棟から一般棟に降り、職員室が近づいてくる。それと同時に、何やら騒がしさも近づいてくる。天知と目を合わせる。彼女も知らないようだ。いまから知るよりも歩いたほうが早い、というのは明らかで、逢坂たちは角を曲がる。
すると、
「いいから出しなさいよ!」
そんな叫び声が廊下を響き、逢坂たちの頬も叩いた。
職員室の前にはひとりの女性がいた。彼女は男の教師と何やら言い争っているようで、職員室には入れさせないと身体を壁にする教師と、叫びながら誰かを要求している悲鳴をあげる女性。
四十代だろうか。五十代だろうか。服は長年着回ししているのかヨレているし、髪も乱れている。メイクもしていない。目元は赤く腫れていた。やつれているように見えたので、年齢以上に老けている、疲れ切った老婆のような印象を受けた。
女性は逢坂たちからは背中しか見えなかったが、男の教師とは目が合った。その教師がまずい、という顔をしたので女性がふり返ってしまい、逢坂とも目が合うことになってしまった。
老いた印象を受けこそしたが、その瞳はギラつきを帯びていた。まるで仇敵を見つけたかのよう。逢坂は思わず一歩、身を引いてしまった。戦いてしまった。
しかし天知はこれぐらい慣れているのか動じることなく、その睨みも真正面から受け止めて平然としている。
女性は職員室を諦め身を翻し、逢坂たちのもとにやって来た。その踏みしめるような一歩一歩からも、並々ならぬ感情が読み取れる。
逃げるという発想すらなかった。
「あんたたちでしょ!」
鬼の形相で唾を飛ばしている。が、逢坂に思い当たる節はなかった。何のことを言っているのか、さっぱり。
「はい?」
返事もできない逢坂とは違い、天知は冷静に訊き返した。
「何のことでしょう」
「とぼけても無駄よ! わかってるんだから!」
「だからなにを」
会話の形を成さない相手に、天知は面倒そうに再三、尋ねる。しかし、女性は背後から腕を握られていた。
それは職員室から出てきたであろう、佐白という教師だった。
彼女は逢坂の担任でもあり、天理の担任でもある。不健康そうな灰色の肌をしていて、それでいて目元には深い隈がある。口数もすくないことがあり、不気味な雰囲気を漂わせている佐白が、今日ばかりは感情らしい感情を、表情らしい表情を、表に出していた。
佐白は女性に敵意を見せることなく、むしろ同情するように言った。
「すみません、渡辺さん。佐白といいます。私が相談部の顧問をやっていました。このたびは」
佐白と女性が向き合った隙に、天知は目蓋を閉じた。この女性が誰で、何に怒っているのか、知ろうとしているのだろう。
その時だった。
ばしん、と、破裂音が鳴った。
逢坂も天知も驚きに目を見開く。佐白の灰色の頬が、赤くなった。それでも佐白は、他の教師たちも、彼女を非難するようなことはしなかった。ただただ、佐白は頭を下げるばかり。
「あんたのせいで……あんたがっ……夜中に子どもたちだけで廃墟に行かせるなんて、そんな部活がどこにあるのよ! なんで許可なんか出したのよ!」
先ほど、佐白が呼んだ渡辺。それがこの女性の名前か。夜中に廃墟とは、一昨日のことを言っているのか。だから顧問の佐白が叩かれているのか。
すこしずつ、話が見えてくる。しかし。
頭を下げる佐白を罵倒したかと思えば、ふたたび彼女はこちらにふり返った。
「あんたたちもよ! バカなことをして……なんで美穂を巻き込むのよ! あんたたちのせいで……あんたたちが…………あんたたちが、美穂を、……」
あまりの取り乱しように、続く言葉はなかったものの、逢坂は嫌な感覚を覚えた。
そこで、なにがあったのか、この女性にも、先輩であり部活仲間であり、病気を患っている渡辺の身にも、なにがあったのかを知ったであろう天知が、口を開いた。
「美穂さんが死」
しかし、逢坂は言わせなかった。
天知の声音が、佐白のそれと違ってひどく冷たく、無神経な鋭さを持っていると一文字目から察した逢坂は、天知の後頭部に手をやって、無理やりに頭を下げさせた。逢坂自身も、同じくする。
「ちょっ」
下げた頭の横目で天知と目が合う。尚も天知は不服そうに抗議しようとしてくるので、逢坂は言った。
「すみませんでした」
へたり込んでしまった、おそらく渡辺美穂の母は、顔を覆う。顔を覆って、啜り泣く。嗚咽混じりに、
「返してよ。……返してよ。美穂を……」
「……すみませんでした」
逢坂は、ひたすら謝るしかなかった。渡辺先輩がどうなったか、逢坂はそれを思うと、涙が出てくる。
天知は、頭を上げようと反抗することもなく、不服だと抗議の音を上げることもなかった。




