いまのほうがいい感じ
学校には、遅刻せずに到着した。
「今日もギリギリだったねー」
友達の夏希が、まだ息が整わない私の頭をポンポン叩いている。ぜぇはぁ息をしているのでまともに返事ができない。
途切れ途切れ、息も絶え絶えで返事をする。
「まあ、まだ使ってない手が……ざっと考えて三つあるから」
「三つ?」
「重そうな荷物を持っていたおばあちゃんを助けていた、道に迷っていたおばあちゃんを案内してあげていた、体調の悪そうなおばあちゃんを支えてあげていた」
「どれもおばあちゃんだねー」
ざっと考えて、というか息を切らした状態で三つも出てくるのだから、冷静に前もって準備していればいくらでも言い訳は出てくるだろう。おばあちゃんに席を譲ってあげたとか。徒歩通学だけど。
「そういえば、わたしも読んだよ。美穂のマンガ」
「見ないでって言ったじゃん!」
がばりと立ち上がってしまったものだから、クラスメイトの視線が一気に集まる。私はしゅんと椅子に座り直して、机に突っ伏して顔を伏せて、もう一度、弱々しく言った。
「見ないでって言ったじゃん」
「見てほしいから売ったんでしょ?」
「そうだけど……そうだけどさあ……それとこれとは話が違うじゃん」
夏希は首をこてんと傾げた。そのほんわかとした顔は私と違って女の子らしく可愛らしい。きっと夏希は私のように遅刻の一分一秒を争って全力疾走はしないのだろう。したとしても、私のように汗ダラダラにはならない。夏希の汗はいい匂いがするに決まっている。
夏希はどちらかというと、この織田高校で超がつく有名人の天知しろあと同じ部類にいる。女の子は花、と言ってもそれに当てはまるのが天知しろあとこの夏希で、私のような女の子は花とは形容できない。身体は臭くなるし脇汗も掻く。
その柔らかい雰囲気でいい匂いがする夏希に、私のマンガが読まれたと思うと、これ以上に恥ずかしいことはない。お父さんやお母さんに読まれるよりも、かなりきつい。
「マンガ……っていうか、創作って、ほとんど自分の癖みたいなものだからさ。夏希も、性癖を世間に公開したくないでしょ?」
「だったらマンガにしなきゃいいんじゃないの?」
まさしく正論。何も言い返せない。
「私のことを何も知らない人ならいいんだよ。でもさ、私のことを知ってて、顔も名前も知ってる人に読まれるのは、違うわけでさ」
「ふーん?」
あんまりわかってなさそうだ。でもまあ、いい。たぶん、こういうのは創作をしたことがある人じゃないとわからないのだろう。
マンガを読んでも完璧に自分の好みにガッチリ当てはまるものはないのだ。読んでいる度に、私だったらこうするのに……と、自分の趣味嗜好が邪魔をしてくる。だから私はマンガを描いた。
端的に言うと、誰も私を満足させてくれなかった、ということになる。
「夏希もマンガ描いてみたらわかるかもよ?」
「マンガは読むものかなー」
大半がそうだろう。
「でも、美穂ちゃんのことがよくわかったよ」
「……」
「美穂ちゃんが乙女だってことがね」
「だから読んでほしくなかったんだよ……」
顔を覆った。熱い。とっくに秋に入ったというのに。
「ええ? でも、自分だけが知ってるイケメンなんて、誰でも想像しちゃうよ~」
「だから言わないでよ……」
「かわいいねー、美穂ちゃん」
頭をポンポンされる。机に顔を押し付ける。机の冷たさが気持ちいい。顔の熱を全部吸い取ってくれている。夏希の頭ポンポンも、まあまあ気持ちいい。
一日の授業を乗り切って、私は漫研に向かった。教室の扉を開けると、
「ええ!? 辞めちゃうの、勿体ない!」
半分叫びのような声が響いた。
ちょうどいいのか悪いのか、私が扉を開けてしまったがために廊下へ声が漏れてしまっただろうか。視線も集まっている。びっくりしつつ、私は小さく謝った。
「すみません……」
扉を閉め、そそくさと自分の椅子を引く。自分の、と言っても定位置になっているだけでそういった取り決めはないんだけど。
カバンを置いてからそっと様子をうかがった。漏れ聞こえる話を聞く限り、漫研を辞める人がいて、部長がそれをどうにか引き留められないかと言葉を尽くしているらしかった。
「でもさ、この前だってめちゃくちゃ人気だったじゃん」
「はあ。でもあれは元々漫研で出すつもりはなくて……他に描くものもないし……」
「べつに案は他の人に任せてさ。漫画だけでもいいんだよ?」
「うーん……。でも、そろそろ受験も考えないとだし……」
「まだ十月だよ?」
「……」
お互い、意志は硬いようだ。
部長は彼女に残ってほしいようだし、彼女はどういう形であっても残るつもりはないらしいし。
拮抗の時間は、部長と目が合うと破られた。
「あ、渡辺さん」
それは私の名字だった。渡辺美穂というのが私の名前だった。
「ちょっとこっち来て」
なんで呼ばれたのかわからないけど、とにかく呼ばれたのだから行ってみることにする。
「渡辺さんからもさ、言ってあげて? 栗原さん、漫研辞めたいんだって。勿体ないでしょ?」
部長の気持ちもわかるし、勿体ないでしょ? という言葉には同意しかなかった。それでも、栗原さんが一瞬だけ向けてきた横目に籠もった意志から、私の言葉では無理なことがわかった。
栗原さんはたしか下の名前を彩矢といったはずだ。栗原彩矢。それでどうして私が呼び出されたのかわかった。私は栗原さんとクラスが一緒なのだ。と言ってもそれだけ。関わりはない。後ろ姿を見ても栗原さんだとはわからなかったぐらいに、私と栗原さんに交友はない。
栗原さんの瞳には漫研を辞めるという確固たる意志に加え、巻き込んで申し訳ないという謝罪も込められていた。大丈夫だよ、と笑っておく。
「たしかに、勿体ない。栗原さんが文化祭で描いたあの『山の麓に住む天使について』。面白かったし、続きも読みたいと思った。絵も丁寧だったし」
「でしょ?」
部長に同意してみせると、部長は仲間を得たと強く頷いてほらと栗原さんに向き直った。
「なんで辞めたいの?」
純粋に、あのマンガは面白かった。漫研が総出で押し出すほどだったから、悔しさもあったけど納得だった。ストーリーも絵もどれも丁寧で引き込まれたし、才能と一言では片付けられないパワーも感じた。
同級生に、それもクラスメイトに、こんな近くにいたのかと嫉妬もあったけど、もっと読みたいという欲求が上回った。だから、栗原さんがこれで辞めてしまうことは悲しかったし惜しいと思った。
「特に描きたいものはないし、漫画ももういいかなって。描くのは楽しかったけど、それでもやっぱり漫画は読むものなのかもしれないって。受験もあるから」
「燃え尽きた?」
「そんな感じかも」
「じゃあ、しょうがない」
燃え尽きたのならもう燃えない。
「え、えぇ、でも……」
まだ部長はごにょごにょしてる。
「燃え尽きた人にまた火を点けてももう燃えない。部長は無理やり描かされた漫画が読みたいの?」
長らく名残惜しそうにしていたけど、味方である私が敵に回ったものだから、分は悪い。がっくりと頭を垂れた。
「渡辺さんなら味方してくれると思ったのに……でもわかった……でもまた何か描いたら教えてね!」
部長もとことん、栗原さんの漫画に惚れきってしまったのだろう。気持ちはわからないでもない。
「あ、栗原さん。じゃあ最後にひとつだけ、訊いてもいい?」
「なに?」
「面白いマンガのコツって?」
栗原さんは屈託のない笑みを浮かべた。
「そんなものはない」
えぇ、と思ったけど、すぐにバカな質問をしていることに気付いた。
そして栗原さんは顔を近づけて、私にだけ、聞こえるような声で言う。
「そもそもあれ、私の漫画じゃないから」
「え」
「それから渡辺さん。いまのほうがいい感じだよ」
言葉を失う。
まるでその顔が見たかった、とでも言いたげに、栗原さんは満足げな顔をした。教室を出て行って、それから、部長が訊いてくる。
「何だって?」
「……自分が面白いと思えるものを描け」
「ふぅむ。まさしく、だ」
あれは栗原さんの漫画じゃない。どうやら栗原さんは、とんでもなく謙虚らしい。ストーリーも漫画もほとんど彼女が描いて、漫研部員はアシスタントでしかなかったというのに、あれは漫研の漫画だと。
なんて謙虚な。
というか最後の台詞は何だったんだ。いまのほうがいい感じ……呆けてるほうがいいのか?




