モデルにするならこの両親
目が覚める。
朝はいつも憂鬱で、もっと寝ていたいと眠気が布団を剥ぐことを許してくれない。
アラームが鳴ったのは何度目だろう。一回目ならまだ6時30分で、四回目なら7時ということになる。アラームは十分おきに鳴る設定だ。
このアラームが一回目の6時30分なら、まだ時間はある。まだ寝れる。
私はけたたましい音で睡眠の阻害をしてくる機械に拳を振り下ろした。それで音は止む。時間は見ていない。見ていないので、6時30分と7時が同時に存在していることになる。それなら私は、6時30分であることを信じる。私の世界では、6時30分である。
「美穂ー。起きなさーい。もう7時よー」
そう思って布団に今一度潜り込んだというのに、今度は機械ではなく人の声が睡眠の阻害をしてくる。
部屋の扉を隔て、階段下からしている母の声。拳を振り下ろして音を止めることはできない。もしも届いても、お母さんにそんなことをするはずもないけど。
「美穂ー! 遅刻するわよー!」
「うぁあい……!」
大きく返事をしたつもりだったけど、明らかにお母さんよりも小さかった。寝起きで声が出るわけないし、ちょっとだけ、腹が立っていたというのもある。
布団の中で丸まりながらのうなり声にも似た返事で、しかしお母さんの呼びかけは止まった。私は大きく伸びをする。
「んんっ…………ぁあ」
観測されていないからまだ6時30分の可能性もあるというのに、お母さんが観測してしまった。そのため、世界が6時30分に収束してしまった。恨めしい。せめて伝えないでくれれば、私の世界はまだ平気だったかもしれないのに。
カーテンの隙間から漏れる朝日。私はその隙間を閉めた。
スマホを手に取る。自分の部屋はごちゃごちゃとしている。ベッドから降りると足は床の感触ではない。服とか何に使ったのか覚えてないしわくちゃの紙とか。
細い目と覚束ない足取りであっても、もう17年以上を過ごした自宅の間取りは身体が覚えている。まずはトイレ。
「ふう」
用を足す。スマホはすでに7時を5分過ぎた。
「美穂!」
「起きてるよ!」
「早く朝ご飯!」
「うぁい!」
トイレを出てリビングへ向かうと、玄関から物音がした。座って丸まった背中は大きく逞しい。靴を履いているらしい。
「ああ、美穂。おはよう」
ふり返りもしなかったというのに、お父さんは気配だけで私だと気付いたらしい。まあ、お母さんならキッチンで慌ただしくしているから、階段を降りてくる足音がしたから、ということだと思うけど。
「おはようお父さん。そうだ、聞いて。この前言ってた、文化祭で出したマンガ。買った人の中に編集者の人がいたんだって」
「へえ。どうだったんだ?」
「それがね、もしよかったらウチで連載しないかって」
「マジか!」
ようやくふり返る。満面の笑みはこっちが恥ずかしくなってきてはにかむ。でも、と付け足した。
「もちろん、まだ荒いところはあるし、直すところも必要らしいけど」
「でもプロがついてくれるってことだろ? スゲぇよ」
それは、そう。
自分で描いたマンガはどれも最高傑作のように見えてしまう。悪いこととは言わないけど、修正点がわからないというのは成長しないことを意味する。友達は遠慮して意見してくれない。それは私もそう。同じ漫研の人に対して、作ったマンガの良し悪しは言えない。どれだけ苦労したかもわかってしまうから。
その点、プロの編集者なら、的確なアドバイスをしてくれるはず。私の自尊心も傷つけず、上手い言葉選びを知っていそうで、連載が、出版がどうのこうのより、私はそっちのほうが嬉しかった。
「みーほー」
今度は私がふり返る。エプロンを着てお玉を持ったお母さんは、腰に拳を置いていた。ジッと睨まれている。
「すぐ食べる!」
ダッとリビングへ。しかし、あ、と思い出す。首だけ、玄関先に突き出した。
「行ってらっしゃい! お父さん!」
「おう。お母さんにもその話してあげろよ。喜ぶから」
「うん!」
「お母さんも。行ってきます」
お母さんから行ってらっしゃいの言葉がなかった。私は目を丸くする。
「行ってきますだって。お母さん」
お母さんは呆けていた。
私が声をかけると、お母さんは、え、あ、と動揺を隠せないようでいたけど、やがて、深く頷くといつも通り笑った。
「行ってらっしゃい」
それでお父さんは家を出て行く。
私はリビングでテーブルについて、適当に朝のニュースを流し見しつつ、耳を素通りしつつ、ぽけーっとする。
「先、食べてていいから」
「んー」
と返事しながらも、私は箸を持たない。お母さんがテーブルにつくのはあと5分もない。それぐらいの誤差だったら待つ。
手を拭きながらお母さんも椅子に座った。ふたりで手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
まずは味噌汁。ずずっと啜る。身体が中から温まっていく。はあ、と一息。無意識に漏れてしまう。
同じように味噌汁に口をつけたお母さんが、訊いてきた。
「お父さんと、何を話してたの?」
「ん~。えっとねー」
にやにやが止まらない。
私が勿体ぶっていると、お母さんはしょうがない子ね、と笑った。
「もしかしたら私……漫画家になるかもしれないんだよ……!」
「あら」
さすがにそこまでの話だとは思ってなかったのか、お母さんも驚きを隠せないようだ。
「すごいじゃない。ずっと夢だったものね」
「うん。文化祭で、漫研でマンガ売ったでしょ? 編集者の人の目に留まってさ。連絡が来ちゃった。スカウトってやつ?」
「お母さんも読んだわよ」
「え」
それは聞いてない。
「もしかして文化祭来たの!?」
「土曜日にね」
「聞いてないよ!」
「言ってないもの」
ふふふ、と上機嫌に白米を口に入れるお母さん。ぐぬぬ、と箸を握りしめた。
「お父さんと一緒に?」
一瞬、空気がぴりっとした気がした。でも気のせいでしかないみたいで、お母さんはすぐに微笑みを顔に戻す。
「お父さんも美穂のマンガ、面白かったって言ってたわよ」
「くそぉ……いつ来たんだろ……」
来ないでと言ったのに……。
「そんなに嫌だった?」
「……」
お母さんとお父さんが来るのが嫌だったわけではない。
「漫研に来たんならわかってると思うけど、私のスペース、狭かったでしょ? ほら、パンフレットにもデカデカと、等身大パネルなんか置いちゃったりしてさ」
「なんかあったわね」
「栗原っていう人が原作のマンガが漫研で大絶賛されてさ。押し出されちゃってさ。私とか他のマンガは端に追いやられちゃったんだよ」
「それが恥ずかしかったんだ?」
だから来てほしくなかったのだ。
「でも、プロの目に留まったのは美穂のマンガだったんでしょ? じゃあいいじゃない。自信持ちさないよ」
たしかに、そうだ。
文化祭のパンフレットでもアピールされて、等身大パネルなんか作っちゃって、私のマンガをそれと勘違いして買ってった人もいるけど、編集者が気に入ってくれたのは私のマンガなのだ。
「ところでお母さん」
「なに?」
「お父さんと喧嘩した?」
玄関でお父さんを見て呆けて、お父さんの名前を会話に出すとぴりついた空気のようになって。三度目、核心的な言葉を出せばふたたび、お母さんは真顔になった。まるでお父さんの顔はもう思い出したくない、とでも言いたげだった。さすがに三度目は気のせいと無視できない。
にっと笑うと、お母さんはため息をついて、玉子焼きを口に放り込んだ。
「なんで喧嘩したの? なんで喧嘩したの?」
「言いません」
「いいじゃん教えてよ。マンガに使えるかもしれないしー」
「使わなくてよろしい」
「あーあー。これで漫画家の夢が遠のいたー」
散々駄々をこねると、娘の夢を潰すわけにはいかないと、お母さんはふたたび、ため息をついた。
「はぁ。お父さんがね」
「うんうん」
「約束を破ったの」
「約束?」
浮気か。すこし身構えた。
「記念日、一緒にお祝いしてくれなかったの。こういうのは大事にしようって約束してたのに」
「それはお父さん、ダメだね」
「でしょう?」
私がもしもラブコメを書くなら、この両親がモデルかもしれない。




