34
三月中旬、ソメイヨシノはまだ咲かない。
離れ離れになるクラスメイトたちと写真撮影をし、区切りがついたところで通い親しんだ校舎を出る。
仕事を無理して抜けて出てきた清香は式が終わったらすぐに帰ったし、みどりも両親と帰ることになっているため、有衣はひとりだ。
小学校の時も中学校の時もそうだったから、有衣にとっては既に当たり前のことで、特別な感情は特に湧かない。
けれど、まだ蕾しかない侘しい桜並木を抜けて校門を出たところで直輝の姿を見つけた有衣は、驚いて立ち止まった。
「卒業、おめでとう」
言葉と同時に、ミニブーケを差し出される。
こんなことをされたことは、今までに一度だって無い。
驚きと、嬉しさがじわじわと有衣を支配して、言葉が咄嗟に返せなかった。
「…ごめん、やっぱりもっと大きなものが良かったよね。花なんて普段全然買わないから、なんだか照れくさくて」
固まって受け取れず、何も言えないでいる有衣に、何を勘違いしたのか直輝が焦って言い訳をする。
有衣は慌てて首を振り、そっと受け取る。
「そうじゃなくて、びっくりして、嬉しくて。…嬉しいです。ありがとうございます」
本当に、嬉しかった。
それをどう表現してよいのか迷った有衣は、結局、直輝にぎゅっと抱きつくことにした。
まだ制服姿の有衣に抱きつかれた直輝は、一瞬だけ困ったような顔をしたが、引き剥がすようなことはせずにそっと腕をまわして抱きしめる。
式の後、ひとりきりで家路につくのは、慣れているようでもなかなか切ないことだったろうと思うと、制服を気にすることはできなかった。
どうせ今日で最後なのだし、と自分を納得させた直輝は、そのまま有衣のこめかみにキスを落とす。
そんな直輝にまた驚いた有衣は、直輝の腕の中からちらりと直輝を窺った。
「なに?」
「制服なのに、いいのかな、って」
「…最後だから特別」
有衣に妙な心配をさせていることが情けないやらおかしいやらで、直輝は小さく笑う。
密着した体から伝わってくるその振動に、有衣はおかしさとともにくすぐったいような愛しさを感じて、直輝の肩口に頬をすりつけた。
休憩時間に病院を抜け出してきた直輝は、有衣を自宅に送ると慌しく帰っていった。
部屋に上がった有衣は、姿見に映った自分の制服姿をじっと見つめる。
「最後、か…」
今日は高校生最後の日、この制服を着る最後の日、そして川名 有衣である最後の日なのだ。
有衣自身は何も変わるところが無いのに、三年間着てきたこの制服を脱ぐだけで、何かが変わってしまうような気がする。
明日からは直輝の妻となり晴基の母となるのだということが、急に現実として感じられ、有衣は軽く身震いした。
けれどそれは、怖れているわけではなく、少しの緊張感と武者震い的なものだ。
きゅっと唇を引き締めると、有衣は生まれ変わるような気分で制服に手をかけた。
最後の晩と言っても、生活はさほど変わらない。
直輝は恐らく清香とゆっくり過ごせばいいと思ってくれていたのだろうが、肝心の清香が仕事で帰って来ない。
けれどそれもなんだか味気ないからと、有衣は少しだけ豪華なお弁当を作って清香のもとへ向かった。
「あら、どうしたの」
「うん。ちょっと、来てみた」
お弁当を差し出すと、清香は嬉しいような切ないような、複雑な表情を浮かべた。
こんなことなら、今までももっとこうしてあげられたらよかった、と有衣も少し複雑な思いになる。
「やぁね、なんか湿っぽくなりそうだわ」
「…清香さん、明日からひとりになっちゃうね」
「そうねぇ。予想よりだいぶ早かったわね」
「ごめんなさい」
「何謝ってるの。せっかく受け入れてもらったんだから、感謝してさっさと嫁ぎなさい」
ひとり娘にその言い草か、とどちらからともなく笑いが漏れた。
広げたお弁当をふたりでつつきながら、最後の時間は穏やかに過ぎてゆく。
「ねぇ、清香さんも、結婚する前の日は緊張したの?」
「そうねぇ、なかなか眠れなくて、メイクさん困らせたりしたわ」
「ふぅん」
「不安?」
「……少し」
「大丈夫よ。普通にしてた有衣をみんな認めて大切に思ってくれたんだから、これからも同じ。普通にしてればいいのよ」
清香の言葉に、有衣の緊張が少しだけ緩む。
ほっとしたように笑った有衣に、清香もにっこりと笑みを返した。
翌日は土曜日で、しかも直輝の仕事の都合で約束の時間より遅くなったため、婚姻届は警備員に受け取ってもらうことになった。
事前に有衣とみどりとで窓口に来て、不備が無いかどうかチェックを受けていたから、今日の日付で間違いなく受理されるはずだ。
日付にこだわったわけではなく、ただ直輝と晴基と有衣と三人で揃って出したかったのである。
「おめでとうございます」
警備員の男性が言ってくれたのはお決まりの挨拶だが、それでも嬉しい。
三人で、お礼を返してから、晴基を真ん中にして手を繋いで駐車場に戻る。
歩道を歩く姿が外灯に照らされて、少し歪な三つの影が伸びるのを見て、有衣は家族になったのだなと嬉しくなった。
制服を脱いだこともあり、以前こうして手を繋いだときのように、アンバランスな感じはもうせず、嬉しさはさらに増す。
右手に直輝の、左手に有衣の手を繋いだ晴基も、上機嫌で手を少しだけ振り回すような仕草をする。
「きょうから、ゆいちゃんもずっといっしょ?」
「うん、一緒だよ」
「きのう、ゆいちゃんこなかったから、さみしかったの」
「そっか、ごめんね。でも、今日からはずっとずっと一緒だからね」
「ずっとずっと?」
「そう、ずっとずっと」
「えへへっ」
「なぁに?」
「うれしいな! ね!パパ!」
「そうだな。嬉しいな…」
大きな声を出して体全体で嬉しいと言う晴基に、しみじみと嬉しいと言う直輝に、有衣の心の中にはじわじわと歓びが広がっていく。
視界が歪み、外灯の光がきらめきを増して、涙がこぼれそうになっていることに気づき、有衣は慌てて空を見上げた。
ドアを開けると、真っ先に晴基が玄関に飛び込んで靴を脱いで上がった。
「ただいまぁ」
有衣の背中を軽く押して先に中に入れた直輝も、さっと靴を脱ぐとすぐに上がる。
「ただいま」
「おかえりぃ」
直輝の声に応えたのは晴基だ。
有衣は、何度も部屋に入ったことがあるにもかかわらず、初めてのような気分になって緊張が増し、靴を脱ぐのにも手間取ってしまう。
先に上がった直輝と晴基は、急かすことも無く、ただ有衣が上がってくるのを待つ。
有衣がようやく上がると、待ち構えていたようにふたりが声を揃えた。
「おかえり」
今まで聞いたどの音よりも、温かい響きだった。
過ぎる幸福感は胸を詰まらせ、先ほどなんとか堪えたはずの涙がまた盛り上がってきたが、今度は堪え切れなかった。
「…ただいま」
言いながら、昨夜清香と話したことが脳裏によみがえった。
直輝も晴基も、そのままの有衣を認め、そのままの有衣を受け入れてくれる。
そして有衣も同様に、ありのままの直輝と晴基を認め受け入れているのだという確信がある。
それは今後も続いていくだろうし、それが家族というものなのだと思った。
「ゆいちゃん、どうしてないてるの?」
笑顔を浮かべつつも涙を流した有衣を、晴基は不思議そうに見上げた。
晴基の中ではまだ、泣くのは悲しい時だけなのだ。
「幸せなときも、涙が出ることがあるんだよ」
「ふぅん? じゃあ、ぼくはどうしてでないのかなぁ」
目の辺りを軽くさすりながら晴基がした子どもらしい質問に、直輝と有衣は穏やかにほほ笑む。
直輝はそっと有衣の手を繋いでその涙を宥めると、まだ首を傾げる晴基の背中を押して、リビングへ向けて足を進めた。
リビングのローボードの上には、相変わらず写真の置かれているスペースがある。
その中には、唯が写っているものもそのまま飾ってある。
直輝は有衣を迎えるに当たり、最初は片づけてしまおうとしていたが、有衣が反対した。
晴基の本当の母親は唯だけであり、唯と過ごした時間があったからこそ今の直輝と晴基がいるのだ。
写真を片づけてしまえば、そんな事実を覆い隠してしまうようで嫌だった。
今はもう、想いの優劣を気にして悩んだりもしないし、逆に生を誇るような気持ちも無い。
むしろ、直輝と晴基と共にいるための盟友のような気さえしている。
もしもできることならば、多分誰よりも先に唯に、永遠の誓いをしただろう。
そうしてじっと唯の写真を見つめていたところに、恒例行事のように濡れたままの晴基が走り込んできた。
その後ろから、やはり拭き切っていない直輝が晴基を追いかけて走り込んでくる。
「またふたりとも…」
呆れたような口調をすると、既に直輝に捕まった晴基が、肩をすくめるふりをして笑う。
「ちゃんと、ゆかもふくからー」
いつも有衣に言われる言葉を、自分から先取りして言う晴基に、直輝と有衣は噴き出すように笑った。
直輝の腕から脱け出した晴基が床を拭き始めると、直輝は少しだけ心配そうに有衣を見やる。
「また、見てたの」
唯の写真のことだ。
有衣が強く言ったのでそのままにしてあるが、やはり実は気にしているのではないかと気が気でない。
直輝のそんな心情は簡単に推測でき、有衣は今度こそ直輝の懸念を払拭しようときっぱりと答えた。
「心の中で、誓ってたんです」
「誓う?」
「直輝さんとハルくんを、ずっと大切にする、って。その部分は、きっと唯さんも一緒だったと思うから。
だから唯さんにまず誓いたくて、そうしたら、これからずっと忘れずに、2倍大切にしていけると思ったんです」
有衣の言葉は、唯の身代わりではないかと怯えて泣いていた以前の有衣の残像を、直輝の中から完全に取り払った。
底なしの愛しさと感謝で、体中が震えるような気さえする。
「ありがとう。俺も、君とハルをずっと大切にする」
直輝は、有衣をそっと抱き寄せると、誓いに封印するように静かに唇を寄せた。
その厳粛とも言える空気は、晴基の声で破られる。
「ちゅー! ぼくもする!」
駆け寄ってきた晴基は、直輝と有衣の間にあったほんの小さな隙間に体を割り込ませた。
苦笑した直輝が晴基の頬にキスをし、有衣も笑って晴基のもう片方の頬にキスをする。
満足そうにほほ笑んだ晴基の頭上で、直輝はもう一度有衣の唇に触れた。
今日からここが、ただ一か所帰るべき、温かな家となる。
それは、この移り行く世界でたったひとつ変わらない場所、そして、誓いを違えずに守られる安らぎの場所。
三人が本当に“家族”になるまで、でした。
家族って、温かくて、心地よくて、安らぐ、そんな存在というか場所でありたい、と思っています。
三人はきっとそう在り続けられると思います。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
多謝。