第9話 森の奥で開店した小さな美容室
ミルフェの町に、爽やかな朝が訪れた。
東門近くの小さなトリミング屋、『ルナのハサミ』ではルナ・ベルティアが大きな籠に荷物を詰めていた。
中身は水筒、昼食のパン、清潔な布、ブラシ、それから大切なハサミ。
「よし、これで準備完了!」
「……ずいぶん大荷物だな」
店の奥で寝そべっていた巨大な灰色狼、レイグが片目を開けた。
「今日は森に薬草を採りに行くんだよ。石鹸に使う香草が少なくなってきたから」
「……それは聞いた。だが、なぜハサミまで持っていく」
「何かあったときに必要かもしれないでしょ?」
「……森で散髪屋でも開くつもりか」
「ふふっ。お客さんが来たらどうしよう?」
「……看板を立てるか。『狼の案内つき、森の美容室』とな」
「あはは! それ、ちょっと楽しそう!」
レイグは大きなため息をついた。
「……冗談のつもりだったのだが」
そのとき、白い毛玉が籠の中に飛び込んだ。
「みゅっ!」
「あっ、ミク!」
淡い桃色の耳先をぴこぴこ動かしながら、ミクがパンの包みの上に座っていた。
「今日は森に行くの。ミクはおばあちゃんとお留守番ね」
「みゅう!」
「だめだよ。森には危ない場所もあるんだから」
「みゅーっ!」
ミクは籠の縁にしがみつき、必死に訴えた。
そこへ、エマが台所から顔を出した。
「おやおや。置いていかれるのが嫌なんだねえ」
「そうみたい。でも、まだ小さいから……」
「ほほほ。今日はあたしと一緒に、おいしいおやつでも作ろうか」
「みゅ?」
ミクの耳がぴくりと動いた。
「甘い果物を少し入れた、ふわふわのお菓子だよ」
「みゅっ!」
ミクは籠から飛び出し、エマの足元へ駆け寄った。
「……あっさり寝返ったな」
レイグが呟いた。
「食べ物には弱いんだね」
「……誰に似たのやら」
「レイグじゃない?」
「……心外だ」
ルナは笑いながら籠を背負った。
「それじゃあ、行ってきます!」
「気をつけておいで。森ではレイグの言うことをよく聞くんだよ」
「はーい!」
「……俺の苦労が増えそうだな」
こうして、ルナとレイグは森へ向かった。
ミルフェの東門を抜けて草原をしばらく歩くと深い森が広がっていた。朝の光が枝葉の隙間から差し込み、地面にはまだ露が残っている。
小鳥のさえずりと、風に揺れる葉の音。町とは違う、静かで豊かな世界だった。
「わあ……気持ちいい!」
ルナは大きく息を吸い込んだ。
「……足元に気をつけろ。昨夜の雨で滑りやすい」
「うん!」
「……その右の石は踏むな」
「えっ?」
ルナが足を止めると、目の前の石がぐらりと揺れた。
「あっ、本当だ!」
「……左の木の根を越えれば歩きやすい」
「レイグ、森の道に詳しいんだね!」
「……俺を何だと思っている」
「えーっと……大きな昼寝好きの狼?」
「……帰るぞ」
「待って待って! 冗談だってば!」
ルナが慌てて追いかけると、レイグは歩調を緩めた。どうやら、本気で怒ったわけではないらしい。
森の中を進みながらルナは目的の香草を探しだした。木漏れ日の当たる斜面に細長い葉をつけた植物が群生している。
「あった! 森香草だ!」
ルナは膝をつき、葉を一枚摘んで香りを確かめると、爽やかな香りが鼻をくすぐる。
「これを石鹸に混ぜると、洗ったあとの毛並みがいい香りになるんだよ」
「……なるほど」
「レイグも好きでしょ?」
「……悪くはない」
「じゃあ、今度たっぷり使ってあげるね」
「……ほどほどに頼む」
ルナは必要な分だけ香草を摘み、根を残して籠に収めた。
森の恵みは取りすぎないことが大切で、エマから何度も教わった約束だった。
その後も二人は、木の実や薬草を探しながら森を歩き、昼近くになったころレイグが突然足を止めた。
「……待て」
「どうしたの?」
「……何かいる」
レイグの耳がぴんと立ち、鼻先を風上へ向け静かに匂いを確かめる。
「……馬の匂いだ。それに、血と折れた枝の匂いが混じっている」
「馬?」
「……野生の魔獣だろう。少し先にいる」
ルナは胸の前で手を握った。
「怪我をしてるのかな?」
「……分からん。だが、様子がおかしい」
「見に行ってみよう」
「……俺が先に確かめる。お前はここで待て」
レイグは音を立てずに数歩進み、茂みの陰から先を見た。
しかし、すぐに戻ってきた。
「……まずいな」
「どうしたの?」
「……若い馬型の魔獣が、茨に絡まっている。後ろ脚を動かすたび、余計に締まっているようだ」
「大変! 助けなきゃ!」
ルナが駆け出そうとすると、レイグが前に立った。
「……待て。俺が近づけば、あいつは余計に暴れる」
「どうして?」
「……狼だからな」
レイグは静かに答えた。
「……あいつにとって俺は恐ろしい相手だ。助けるつもりだが、向こうはそんなことは分からん」
「……そっか」
「……俺はここで待つ。お前も無理はするな。危険だと思ったら引き返せ」
「うん。分かった」
ルナは深く頷いた。
レイグは風下の茂みへ下がり、姿を隠した。
ルナが一人、ゆっくりと木々の間を進んでいくと、小さな沢のそばにその魔獣が見えてきた。
馬に似た体つきだが、普通の馬より耳が長く、首筋には柔らかそうなたてがみが豊かに伸びている。
毛色は淡い栗色で、脚には濃い茶色の模様があり、そして長い尻尾の先はふさふさしていて、ところどころ銀色の毛が混じっている。
額には角もなく、神秘的な光を放っているわけでもない。ただ、この森で生まれ、この森で生きてきた一匹の野生の魔獣だった。
後ろ脚と尻尾には棘のある蔓が幾重にも絡みついており、動くたびに茨が引っ張られ、魔獣は苦しそうに鼻を鳴らしている。
「……大丈夫?」
ルナが声をかけると、魔獣は勢いよく顔を上げた。
「ヒヒィンッ!」
耳を後ろへ倒し、前脚で地面を蹴る。
明らかに警戒していた。
「ごめんね。怖がらせちゃったね」
ルナはその場で足を止めた。
近づこうとせず、ゆっくりしゃがむ。
「私はルナ。……って、名前を言っても分からないよね」
小さく笑ってみたが、魔獣はまったく笑わなかった。
当然である。
「うん。そうだよね」
ルナは籠を静かに下ろした。
そして、しばらく何もしなかった。
魔獣が鼻を鳴らす。
ルナは動かない。
風が吹き、木の葉がさらさらと揺れる。
やがて魔獣は、少しだけ耳を起こした。
「……痛いところ、取ってあげたいんだ」
ルナは優しく話しかけた。
「でも、嫌だったら無理にはしないよ」
魔獣はじっとルナを見つめ、その目には強い警戒が残っていた。
ルナは少しずつ距離を縮めた。
一歩進んでは止まり相手の様子を見て、魔獣が身を固くすればまた下がる。何度もそれを繰り返した。
ようやく、ルナが手を伸ばせる距離まで近づいたときだった。
「ヒンッ!」
魔獣が突然、後ろ脚を跳ね上げた。
「きゃっ!」
ルナは慌てて身を引いた。
蹄が地面を強く蹴り、泥が跳ねる。
もう少し近ければ、蹴られていたかもしれない。
ルナの心臓がどきどきと鳴った。
「……びっくりした」
茂みの向こうで、レイグが低く唸った。
しかし、飛び出してはこなかった。ここで自分が姿を現せば事態が悪くなることを知っていたからだ。
ルナは息を整えた。
「……怖いのは、あの子も同じだよね」
そして、もう一度、静かに声をかけた。
「ごめんね。急がないから」
魔獣は荒い息をついていた。
後ろ脚に絡んだ茨は、動くほど深く食い込んでいる。
ルナは、エマの言葉を思い出した。
怖がっている子には、まず安心できる場所を作ってあげる。
きれいにするのは、そのあと。
「……そうだよね、おばあちゃん」
ルナは小さく呟いた。
それから、籠の中から清潔な布を取り出した。
地面に広げ、そこに自分のハサミを置く。
魔獣に見えるよう、ゆっくりと動かした。
「これで、絡まった蔓を切るだけだからね」
魔獣は耳を動かした。
もちろん、言葉を理解したわけではない。
ただ、ルナがすぐに襲ってこないことを少しずつ確かめているようだった。
さらに時間が過ぎ、木漏れ日の位置がゆっくりと移っていく。
やがて魔獣は、疲れたように頭を下げた。
ルナは慎重に後ろ脚のそばへ移動して、蹴られない位置を選び無理に体へ触れないよう気をつける。
まずは、脚を締めつけている蔓の外側を切った。
ぱちん。
小さな音がした。
魔獣がびくりと震える。
「大丈夫。もう少しだよ」
ルナは動きを止め、落ち着くのを待った。
そして、また一本。
ぱちん。
絡まった蔓が緩んだ。
その隙間から、傷ついた皮膚が見えた。
「……痛かったね」
ルナは顔を曇らせた。
幸い、傷は浅く出血もほとんど止まっているようだった。
しかし、棘がいくつも毛に絡まり、尻尾まで引っ張られている。
ルナはハサミで蔓を短く切り、一本ずつ丁寧に取り除いていった。
また、長いたてがみにも、小枝や枯れ葉が絡まっていたので、全部をきれいに整えようとはせず、動きを妨げるものだけを外していく。
今は美容よりも、この子が自由に動けることが大切だった。
「……よし。これで最後」
ぱちん。
尻尾を引っ張っていた蔓が切れたとき、魔獣は後ろ脚をそっと動かした。今度は何にも引っかからなかった。
「よかった……!」
ルナはほっと息をついた。
魔獣はゆっくりと立ち上がり、脚を確かめるように数歩歩き、それから急に顔を上げた。
「ヒヒィンッ!」
「わっ!」
ルナは慌てて後ろへ下がった。
魔獣は彼女に近づくことなく、沢の向こうへ駆け出した。
最初は少しぎこちない足取りだったが、すぐに力強い走りになり、栗色の体が木々の間を抜け、長いたてがみが風になびく。
その姿は森の奥へ消えていき、振り返ることはなかった。
「……行っちゃった」
ルナは小さく呟いた。助けられてよかったことは間違いないのだが、ほんの少しだけ寂しさもあった。
「……無事に行ったようだな」
背後から、レイグの声がした。
いつの間にか茂みから出てきていた。
「うん。ちゃんと走れてたよ」
「……ああ。よくやった」
「でも、最後まで怖がられちゃった」
ルナは苦笑した。
「ちょっとくらい、仲良くなれるかなって思ったんだけど」
レイグは森の奥を見つめた。
「……あれでいい」
「え?」
「……あいつは野生の魔獣だ。人間を警戒することがあいつの命を守る」
「……そっか」
「……お前を嫌っているわけではない。ただ、森で生きていくんだ」
ルナはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「うん。そうだよね」
木々の向こうから、小鳥の声が聞こえてきた。
「元気でね」
ルナは誰もいない森の奥へ、小さく手を振った。
返事はなかったが、あの子にはあの子の暮らしがあるのだから、よかったのだ。
ルナの店へ来る魔獣たちのように、人と一緒に暮らすことだけが幸せではないのだ。
「……ところで」
レイグが口を開いた。
「なあに?」
「……森の美容室は、どうだった」
ルナは一瞬目を丸くして、それからくすくす笑い始めた。
「お客さん、料金を払わずに帰っちゃったね」
「……野生だからな」
「でも、元気になってくれたから、それでいいよ」
「……そうか」
「うん!」
レイグは静かに頷き、ルナに話しかけた。
「……ならば、今日の仕事は成功だ」
ルナは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、レイグ!」
「……俺は何もしていない」
「そんなことないよ。レイグがいたから、安心して森に来られたんだもの」
「……そうか」
レイグは短く答え、帰り道へと向き直った。
帰り道、二人は沢のそばで少し遅めの昼食を取った。
ルナはパンを取り出し、レイグには持ってきた干し肉を渡した。
「はい、レイグ。今日はありがとう」
「……肉か」
「うん。お礼だよ」
「……悪くない」
レイグは満足そうに干し肉を食べ始めた。
ルナもパンをかじりながら、森の景色を眺めた。
風が心地よく、木々の葉がきらきらと輝いている。
「また来たいな」
「……薬草が必要なら、いつでも案内する」
「ふふっ。頼もしいね」
「……当然だ」
「でも、帰ったらお昼寝するんでしょ?」
「……それも当然だ」
「あはは!」
森に、ルナの明るい笑い声が響いた。
夕方近くになって、二人はミルフェの町へ戻った。東門をくぐると見慣れた石畳と家並みが迎えてくれた。
「ただいまー!」
ルナが店の扉を開けると、白い毛玉が勢いよく飛び出してきた。
「みゅううっ!」
「わっ! ミク!」
ミクはルナの足元をくるくる回り、次にレイグへ飛びついた。
「みゅ! みゅ!」
レイグは小さく鼻を鳴らし、ミクが足元にまとわりつくのを黙って見守った。
その様子を見て、エマが笑った。
「ほほほ。ずっと待っていたんだよ」
「おばあちゃん、ただいま!」
「おかえり。薬草は採れたかい?」
「うん! それにね、森で野生の馬型魔獣を助けたんだよ!」
「まあ、それは大変だったねえ」
ルナは籠を下ろし、今日の出来事を話し始めた。
茨に絡まっていたこと。
レイグが距離を取って見守ってくれたこと。
そして、最後には元気に森へ帰っていったこと。
エマは静かに耳を傾けていた。
「そうかい。よく頑張ったね」
「でもね、おばあちゃん。あの子、最後まで私を怖がってたんだ」
「それでいいんだよ」
エマは優しく微笑んだ。
「野生の子は、野生のままでいるのが一番幸せなこともあるからね」
「うん。レイグも同じことを言ってた」
「ほほほ。さすがレイグだねえ」
レイグは何も言わず、いつもの場所に腰を下ろした。
そのときだった。
コンコンと、店の扉が控えめに叩かれた。
「あら? お客様かな?」
ルナが扉を開けると、そこには見慣れない男性が立っていた。
年の頃は四十ほど。
濃紺の上着をきちんと着込み、胸元には銀色の紋章が輝いている。
その後ろには、立派な馬車が停まっていた。
「失礼いたします。こちらは『ルナのハサミ』で間違いございませんか?」
「はい。そうですけど……」
男性は丁寧に一礼した。
「私は、ミルフェ辺境伯家に仕える者でございます」
「へ、辺境伯家!?」
ルナは思わず声を上げた。辺境伯といえば、この町を含む広い領地を治める大貴族である。
そんな家の使いがどうして小さなトリミング屋に?
「実は、当家でお世話している魔獣のことで、ご相談がございます」
「魔獣の……?」
「はい。ぜひ一度、お屋敷までお越しいただきたいのです」
ルナは目をぱちぱちさせた。
「わ、私がですか?」
「左様でございます」
男性はもう一度、深々と頭を下げた。
「辺境伯閣下からの、正式なご依頼でございまして、もしご都合がよろしければ、明日、お迎えに上がります」
ルナは振り返った。
エマはにこにこと微笑んでいる。
レイグは静かに目を細めていた。
そしてミクは、何も分からないまま元気よく鳴いた。
「みゅっ!」
レイグは小さく鼻を鳴らした。
ルナは慌てて姿勢を正した。
「あ、あの! 私でよろしければ、精いっぱいお世話させていただきます!」
男性は安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます。では、詳しいお話をさせていただきましょう」
こうして、森での小さな冒険を終えたばかりのルナに、思いがけない新しい仕事が舞い込んできた。
それは、これまでとは少し違う特別なお客様との出会いの始まりだった。
そして、その夜。
夕食を終えたルナは、レイグの背中をブラシで梳かしていた。
「ねえ、レイグ」
「……なんだ」
「辺境伯のお屋敷って、どんなところなんだろうね」
「……知らん」
「大きいのかな?」
「……おそらくな」
「魔獣も、すごく珍しい子だったりして」
「……かもしれん」
「なんだか緊張してきちゃった」
レイグは目を閉じたまま答えた。
「……お前は、いつもどおりにすればいい」
「いつもどおり?」
「……相手が誰であろうと、毛を整えるだけだろう」
ルナは少し考えた。
それから、ふっと笑った。
「……うん。そうだね」
「……ああ」
「ありがとう、レイグ」
「……礼はいらん」
レイグは静かに目を閉じた。
そのそばでは、ミクがレイグの大きな尻尾に包まれ、気持ちよさそうに眠っている。
「みゅ……」
窓の外では、千年樹の葉が静かに揺れていた。
森の奥では、今日助けた馬型魔獣が今ごろ仲間たちと自由に駆け回っているのかもしれない。
「……なあ、ルナ」
「なあに?」
「……お前は、礼も言わん相手によくそこまでできるな」
ルナは少し不思議そうに首を傾げた。
「え? だって、困ってたんだもの」
「……そうか」
レイグはそれ以上、何も言わず、尻尾の中で眠るミクを起こさないよう静かに目を閉じた。
ルナはそんなレイグを見て、優しく微笑んだ。
明日は、辺境伯のお屋敷で新しいお客様が待っているが、ルナのすることはきっと変わらない。
困っている魔獣がいたらできることをする。ただ、それだけなのだから。
(つづく)
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