第10話 辺境伯のお屋敷と、立派なたてがみ
ミルフェの町に、朝の鐘が鳴り響いた。
東門近くの小さなトリミング屋『ルナのハサミ』では、ルナ・ベルティアがいつもより早く起きて仕事道具の準備をしていた。
今日は、ミルフェ辺境伯のお屋敷へ出張する日だ。
昨夜は緊張からか、なかなか寝つけなかった。
「ブラシ、ハサミ、櫛、清潔な布……それから、毛並み用の香油も」
ルナは一つずつ確認しながら、大きな革のカバンに道具を詰めていく。
「忘れ物はないよね?」
「……忘れているものがある」
背後から、低い声がした。
振り返ると、レイグがいつもの場所で寝そべっていた。
「えっ、何?」
「……朝飯だ」
「もう! レイグったら!」
ルナは思わず笑った。
「ちゃんと用意してあるよ。おばあちゃんが台所で作ってるから」
「……ならば問題ない」
レイグは満足そうに目を閉じた。
そのそばでは白い小さな魔獣のミクが、淡い桃色の耳先をぴこぴこ動かしていた。
「みゅ?」
「ミク、今日はお留守番だよ」
「みゅう!」
「お屋敷でのお仕事だからね。ちゃんとおばあちゃんとレイグの言うことを聞いててね」
「みゅー……」
ミクは不満そうに頬を膨らませた。
もっとも、ふわふわの毛に覆われているので、膨らんだかどうかはよく分からなかった。
「ほほほ。ミクは寂しいんだねえ」
台所からエマが顔を出した。
「大丈夫だよ。今日はあたしとレイグがいるんだから」
「みゅ……」
ミクは小さく鳴くとルナの足元をくるりと回り、開いたままの大きいカバンをじっと見つめた。
そのとき、外から馬車の音が聞こえてきた。
「あっ、お迎えだ!」
ルナは慌てて窓へ駆け寄った。
店の前には、昨日の使者が乗ってきた立派な馬車が停まっている。
「ルナ、慌てなくても大丈夫だよ。落ち着いてお行き」
「う、うん!」
ルナは急いで上着を羽織り、カバンの留め具を閉じた。
そのカバンが、ほんの少しだけ重くなっていたことには気づかなかった。
「それじゃあ、行ってきます!」
「気をつけておいで」
「……無理はするな」
「うん! ありがとう!」
ルナは笑顔で手を振りながら馬車へ乗り込み、初めての貴族のお屋敷での仕事が始まった。
馬車はミルフェの町を抜けたあと、緩やかな坂道を上っていき、立派な石造りの門が見えてきた。
門の向こうには広い庭園が広がり、その奥に大きな屋敷が建っている。
ルナは初めて見る建物に、思わず窓に顔を近づけた。
「わあ……!」
白い石壁、赤茶色の屋根、整えられた花壇。庭には噴水まである。
「す、すごい……」
昨日の使者が、向かいの席で微笑んだ。
「こちらが、ミルフェ辺境伯家のお屋敷でございます」
「こんなに大きなお屋敷、初めて見ました!」
「ありがとうございます。長い年月をかけて、少しずつ増築されてきたものでございます」
使者は穏やかに答えた。
やがて馬車が止まり、ルナは案内されて玄関へ向かった。
入口には鎧を着た護衛が二人立っていて、ルナの持つカバンを見て一人が声をかけた。
「失礼。お荷物を確認させていただきます」
「あ、はい!」
ルナは緊張しながらカバンを差し出した。
しかし、そのとき使者が横から口を開いた。
「この方は辺境伯閣下がお招きしたトリマーです。仕事道具は私が確認しております」
「承知いたしました」
護衛は一礼し、道を開け、ルナはほっと息をついた。
屋敷の中は、さらに立派だった。磨き上げられた床に、壁には大きな絵画。
天井からは豪華な燭台が下がり、廊下には柔らかな絨毯が敷かれている。
「うわあ……」
ルナはきょろきょろと辺りを見回した。
そのたびに、カバンの中で何かが小さく動いた。
「……?」
ルナは足を止めた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ! 何でもありません!」
きっと道具が揺れただけだろう。
そう思い、ルナは再び歩き始めた。
やがて案内されたのは、屋敷の奥にある広い中庭で、そこには大きな日よけと石造りの水場が設けられていた。
そして、その中央に。
「…………え?」
ルナは思わず足を止めた。
そこにいたのは、巨大なライオンだった。
いや、普通のライオンではない。
黄金色の体毛に、赤銅色を帯びた立派なたてがみ。
その体は大人の馬ほどもあり、太い前脚には鋭い爪が備わっている。
金色の瞳は静かに輝き、ただ座っているだけで周囲の空気を引き締めていた。
「こ、この子が……?」
「ガウロンだ」
低く、よく通る声が響いた。
振り返ると、立派な服を着た壮年の男性が立っていた。
背筋が伸び、威厳のある顔立ちをしている。
「私がミルフェ辺境伯だ。よく来てくれたな、ルナ・ベルティア」
「は、はいっ! お招きいただき、ありがとうございます!」
ルナは慌てて深く頭を下げ、それに対し辺境伯は穏やかに微笑んだ。
「そう緊張することはない。今日はガウロンの世話を頼みたいのだ」
「はい!」
「我が家では代々、ライオン系の魔獣と暮らしてきた。ガウロンも、幼いころからこの屋敷で育った大切な家族だ」
辺境伯はガウロンへ目を向けた。
「普段は専属のトリマーが世話をしているのだが、あいにく急病でな。しばらく休ませることになった」
「そうだったんですね」
「幸い命に関わる病ではないが、回復するまで無理はさせられん」
辺境伯は少し困ったように笑った。
「ところが、ガウロンのたてがみは待ってくれなくてな」
ルナは改めてガウロンを見た。
確かに、立派なたてがみのあちこちに毛の絡まりがある。
首の下には大きな毛玉までできていた。
「わあ……これは、梳かすのが大変そう」
「そうなのだ。しかもガウロンは、慣れない者に触られるのを好まん」
ガウロンが低く鼻を鳴らした。
「グルル……」
ルナは思わず背筋を伸ばした。
「だ、大丈夫でしょうか……?」
「無理はせんでよい。ガウロンが嫌がるようなら、今日は顔合わせだけでも構わん」
辺境伯はそう言って、ガウロンの首筋を優しく撫でた。
巨大な魔獣は、主人の手を受け入れて静かに目を閉じた。
その姿を見て、ルナは少し安心した。
恐ろしい外見だけれど、この子は辺境伯を信頼しているのだ。
「……分かりました。まずは、ご挨拶から始めます」
ルナはゆっくりとガウロンへ近づいた。
「こんにちは、ガウロン。私はルナっていうの」
ガウロンは金色の瞳を向けた。
「グルル……」
「今日は、たてがみをきれいにさせてもらいたいんだ」
ルナは無理に触れず、少し離れた場所でしゃがんだ。
ガウロンはじっと見つめている。
逃げる様子はないが、歓迎しているわけでもなさそうだった。
「……緊張するなあ」
ルナは小さく呟いた。
その様子を、辺境伯と護衛たちが静かに見守っていた。
やがてルナは立ち上がった。
「それでは、まず道具を準備しますね」
カバンを床に置き、留め具を外す。
そして、蓋を開けた。
「みゅっ!」
「…………え?」
カバンの中から、白い毛玉が顔を出した。
淡い桃色の耳先が、ぴこぴこと動いている。
「みゅう!」
「ミ、ミク!?」
ルナの声が中庭に響いた。
護衛たちが一斉に身構える。
「何者だ!」
「ま、待ってください! うちの子です!」
ルナは慌てて両手を振った。
「勝手についてきちゃったみたいで……!」
辺境伯は目を丸くした。
「ほう……これはまた、小さな魔獣だな」
ミクはそんな騒ぎなど気にも留めず、カバンからぴょんと飛び出した。
「みゅ!」
そして、目の前の巨大なガウロンを見上げた。
ガウロンもまた、小さな白い生き物を見下ろした。
「グルル……」
「みゅ?」
一同が息を呑んだ。
ルナは慌ててミクへ手を伸ばした。
「ミク! こっちにおいで!」
しかし、その声が届くより早く。
ぴょん!
ミクはガウロンの大きな前脚に飛びついた。
「きゃあっ!」
ルナの悲鳴が響いた。
護衛たちは剣の柄に手をかけた。
ところが、ガウロンは動かなかった。
ミクは前脚の毛をつかみ、よいしょ、よいしょと登っていく。
そして、ついに赤銅色を帯びた立派なたてがみへ到達した。
「みゅう!」
たてがみの中へ、白い体がすっぽり埋まる。
ガウロンは金色の瞳をゆっくりと細めた。
それから、重々しく鼻を鳴らした。
「……グルル」
怒っているようには見えなかった。
むしろ、どこか呆れているようだった。
たてがみの中から、白い尻尾がぴょこんと突き出した。
「みゅっ!」
その瞬間。
「……ふっ」
辺境伯の口元が緩み、中庭に大きな笑い声が響いた。
「はっはっはっは! これは驚いた! 我が家の誇り高きガウロンが子守りをしておるぞ!」
護衛たちは顔を見合わせ、辺境伯の笑い声につられるように表情を緩めた。
ルナだけが真っ赤になって頭を下げていた。
「も、申し訳ありません! 本当に、申し訳ありません!」
「よい、よい。ガウロンが嫌がっておらぬのだからな」
辺境伯は笑いながら手を振った。
「むしろ、こんな姿は初めて見た。いつもはあれほど気難しいというのに」
ガウロンは静かに目を閉じた。
そのたてがみの中では、ミクが満足そうに丸くなっていた。
「みゅう……」
ルナはほっと胸を撫で下ろした。
「……よかった」
辺境伯は微笑んだ。
「どうやら、今日は良い日になりそうだな」
それから、ルナの方を向いた。
「さあ、仕事を始めてくれ。小さなお客様も、そこにいて構わん」
「あ、ありがとうございます!」
ルナは改めてブラシを手に取った。
「それじゃあ、ガウロン。よろしくね」
ガウロンは静かに鼻を鳴らした。今度は、先ほどよりも少し穏やかな声だった。
ルナはまず、たてがみの毛先からゆっくりとブラシを入れ、絡まった毛を無理に引っ張らず、少しずつほぐしていく。
「わあ……すごく立派なたてがみだね」
ガウロンは目を閉じたまま、動かなかった。
「でも、ここはちょっと絡まってるかな」
ルナは指先で毛玉を確かめ、丁寧にほぐした。長年使い込んだブラシが柔らかな音を立てる。
さら、さら。
赤銅色の毛が、少しずつ本来の輝きを取り戻していく。
その途中、ミクがたてがみの中から顔を出した。
「みゅ?」
「ミク、そこは今から梳かすところだよ」
「みゅっ!」
ミクは慌てて別の場所へ移動した。
ところが、そこもまたルナが次に梳かそうとしていた場所だった。
「あっ、そこも!」
「みゅ?」
ルナは思わず笑ってしまった。
「もう、ミクったら!」
辺境伯も楽しそうに笑っている。
「はっはっは! まるで、たてがみの中でかくれんぼをしているようだな」
ところが、その直後だった。
ミクの白い姿が、たてがみの中からすっかり消えてしまった。
「あれ? ミク?」
ルナはブラシを止め、辺りを見回した。
足元にも、ガウロンの背中にもいない。
「ミク、どこに行ったの?」
「みゅっ!」
声は聞こえる。
けれど、姿が見えない。
ルナが首を傾げたとき、ガウロンの顎の下で何かが揺れていることに気づいた。
ふさふさの赤銅色のたてがみ。
その下から、一本の白い尻尾がぶら下がっていた。
ぷらぷら。
右へ、左へ。
「……あれ?」
ルナが覗き込むと、尻尾がぴたりと止まった。
「ミク?」
「みゅっ!」
返事とともに、白い尻尾がまた元気よく揺れ始めた。
ミクはガウロンの顎の下に広がるたてがみに、すっぽり潜り込んでいたのだ。
その光景を見た辺境伯が、とうとう吹き出した。
「ぶはっ! ガウロン、お前、顎の下に尻尾が生えておるぞ!」
護衛の一人が慌てて顔を背けた。
どうやら笑いをこらえているらしい。
ガウロンは金色の瞳を細め、重々しく鼻を鳴らした。
「……グルル」
しかし、ミクを追い出そうとはしなかった。
ルナは笑いながら、そっと手を差し入れた。
「ミク、そこは今からきれいにするところだよ」
「みゅう?」
たてがみの下から、白い小さな顔がひょっこり現れた。
その頭には、赤銅色の抜け毛が一房乗っていた。
「ふふっ! ミクまでライオンさんみたいになっちゃった!」
辺境伯は腹を抱えて笑った。
「はっはっは! これは傑作だ!」
ルナもつられて笑ってしまった。
最初はあれほど緊張していたのに、いつの間にか肩の力が抜けていた。
ルナはミクをそっと抱き上げ、そばに敷いた布の上へ座らせた。
「ここで待っててね。終わったら、また遊んでいいから」
「みゅう……」
ミクは少し不満そうだったが、やがて丸くなった。
その間に、ルナは作業を進めた。
毛玉を一つずつほぐし、必要なところだけハサミで整える。
首の下にできた大きな毛玉は、皮膚を引っ張らないよう慎重に処理した。
「……よし。ここもきれいになった」
ルナは額の汗を拭った。
ガウロンのたてがみは想像以上に豊かで、手入れには時間がかかった。
けれど、作業を進めるうちに、ガウロンの表情が少しずつ柔らかくなっていく。
やがて、低い喉鳴りが聞こえた。
「グルルル……」
ルナは手を止めた。
「……怒ってる?」
辺境伯が首を振った。
「いや。あれは機嫌が良いときの声だ」
「本当ですか?」
「ああ。長年一緒に暮らしているから分かる」
辺境伯は嬉しそうに微笑んだ。
「どうやら、お前の腕前を認めたようだな」
「よかった……! 最後に、少しだけ香りをつけるね」
ルナは胸を撫で下ろし、仕上げに少量の香油を手のひらへ伸ばした。
そのあと、香油を毛先になじませ丁寧に整えていき、ルナは両手をそっと広げた。
「《毛並みの祝福》」
柔らかな風が、ガウロンのたてがみを包み込んだ。
強い風ではない。
春の日差しのように温かく、毛の一本一本を優しく撫でる小さな魔法だった。
赤銅色の毛がふわりと持ち上がり、ゆっくりと落ち着いていき、ガウロンは気持ちよさそうに目を閉じた。
やがて、たてがみは見違えるほど美しくなり、赤銅色の毛が光を受けまるで炎のように輝いている。
「できました!」
ルナは一歩下がった。
ガウロンはゆっくりと立ち上がった。
巨大な体が動くと、周囲の空気まで揺れるようだった。
そして、大きく首を振った。
ふわり。
整えられたたてがみが、見事に広がった。
「おお……!」
辺境伯が感嘆の声を上げた。
「素晴らしい! これほど立派な姿を見るのは久しぶりだ!」
護衛たちも思わず見入っていた。
ガウロンは堂々と胸を張り、低く吠えた。
「ガオオオォン!」
中庭に、力強い声が響いた。
ルナはびくりと肩を震わせたが、すぐに笑顔になった。
「ふふっ。気に入ってくれたみたい!」
そのとき、ミクが布の上から立ち上がった。
「みゅっ!」
そして、再びガウロンへ駆け寄った。
ガウロンはゆっくりと頭を下げた。
ミクはそのたてがみに、ぽふんと飛び込んだ。
「みゅう!」
辺境伯はまた大きく笑った。
「はっはっは! せっかく整えたたてがみが、また乱れてしまうな!」
ルナも笑った。
「そのときは、また梳かしてあげます!」
ガウロンは何も言わず静かに目を細め、その姿はまるで小さな子どもを見守る父親のようだった。
仕事を終えたルナは、辺境伯から丁寧に礼を言われた。
「今日は本当に助かった。専属のトリマーが戻るまで、また頼むことがあるかもしれん」
「はい! いつでもお声がけください!」
「ガウロンも、お前を気に入ったようだ」
ガウロンも静かに鼻を鳴らし、ルナは微笑んだ。
「ありがとうございます。私も、ガウロンのお世話ができて嬉しかったです」
辺境伯は満足そうに頷いた。
「では、帰りの馬車を用意させよう」
ルナは道具を片づけ、ミクを抱き上げた。
「さあ、ミク。今度こそちゃんと一緒に帰ろうね」
「みゅっ!」
ミクは元気よく鳴いた。
ルナが乗った馬車が屋敷の門に近づいたとき、彼女が窓から振り返ると、遠くに立派なたてがみを持つガウロンの姿が見えた。
「またね、ガウロン!」
ガウロンは動かなかった。
ただ、金色の瞳で二人を見つめており、それだけでルナには十分だった。
帰りの馬車の中で、ミクはルナの膝の上に丸くなっていた。
「今日はびっくりしたよ、ミク」
「みゅ?」
「勝手にカバンに入っちゃだめなんだからね」
「みゅう……」
ミクは少ししょんぼりしたように耳を伏せた。
ルナは思わず微笑んだ。
「でも、ガウロンと仲良くなれてよかったね」
「みゅっ!」
ミクは嬉しそうに鳴いた。
そして、ルナがカバンを開けて道具を確認していると、するりと中へ潜り込んだ。
「あっ、また!」
「みゅう!」
ミクはカバンの中で丸くなり、満足そうに目を閉じた。
「もう……。そこが気に入っちゃったの?」
ルナは苦笑した。
「でも、帰ったらちゃんとおばあちゃんとレイグに謝るんだよ」
「みゅ……」
夕方になり、馬車は『ルナのハサミ』の前へ到着した。
「ありがとうございました!」
ルナは御者に礼を言い、カバンを持って店の扉を開けた。
「ただいまー!」
すると、エマが勢いよく振り返った。
「ルナ! ミクを見なかったかい!?」
「えっ?」
「朝から姿が見えないんだよ! 店も二階も、庭も探したんだけど……」
その後ろでは、レイグが落ち着かない様子で部屋を行ったり来たりしていた。
「……ルナ」
「レイグ、どうしたの?」
「……ミクがいない。匂いも途中で途切れている」
いつも低く落ち着いた声が、今日は少し硬かった。
「あっ、それなら!」
ルナはカバンを開いた。
「みゅう!」
白い毛玉が元気よく顔を出した。
「ミク!?」
エマが目を丸くした。
レイグも、その場でぴたりと足を止めた。
「……そこにいたのか」
「うん。私のカバンにこっそり入って、お屋敷までついてきちゃったの」
「まあまあ! なんて子だろう!」
エマは胸を押さえ、大きく息を吐いた。
ミクはカバンから飛び出すと、何事もなかったようにレイグへ駆け寄った。
「みゅっ!」
そして、いつものように大きな前脚にしがみついた。
レイグはしばらくミクを見下ろしていた。
「……勝手にいなくなるな」
「みゅ?」
「……探したんだぞ」
ミクは首を傾げたあと、レイグの胸元に顔を埋めた。
「みゅう……」
レイグはそれ以上何も言わず、静かに伏せた。
ミクはその前脚の間に入り込み、安心したように丸くなった。
エマが二人を見て、くすりと笑った。
「ほほほ。ずいぶん心配したんだねえ、レイグ」
「……当然だ。まだ小さい」
「そうだねえ」
エマは優しく頷いた。
「すっかり家族だものね」
レイグは答えなかった。
ただ、ミクが眠りやすいように、前脚の位置を少しだけ変えた。
ルナはその様子を見ながら、今日の出来事を思い返した。
立派なお屋敷。
威厳ある辺境伯。
そして、大きなライオン系魔獣のガウロン。
最初は緊張で胸がいっぱいだったけれど、終わってみればとても温かな一日だった。
「ねえ、おばあちゃん」
「なんだい?」
「今日ね、ガウロンっていう大きなライオンの魔獣をお世話したんだよ」
「ほう、それは立派なお客様だねえ」
「うん! でもね、すごく優しい子だったの」
ルナは笑顔で話し始めた。
ミクがカバンから飛び出したこと。ガウロンのたてがみにしがみついたこと。辺境伯が大笑いしたこと。
エマは楽しそうに耳を傾けた。
「ほほほ。そりゃあ、さぞかし驚いただろうねえ」
「本当にびっくりしたよ!」
レイグは静かに目を閉じたまま聞いていた。
やがて、低い声で呟いた。
「……そのライオンは、ミクを嫌がらなかったのか」
「うん。むしろ、遊ばせてくれたんだよ」
「……そうか」
レイグは短く答えた。
「……ならば、礼を言わねばならんな」
「え?」
「……小さなやつの面倒を見てくれたのだからな」
ルナは思わず微笑んだ。
「ふふっ。レイグって、やっぱり優しいね」
「……普通のことだ」
そのとき、ミクが寝ぼけたように小さく鳴いた。
「みゅ……」
レイグは何も言わず、そっと目を閉じた。
窓の外では、「千年樹」の葉が夕風に揺れていた。
大きなライオンと、小さな白い魔獣。
そして、心配性の大きな狼。
今日も『ルナのハサミ』には、魔獣たちの温かな物語が一つ増えたのだった。
(つづく)
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