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第11話 小さな鹿と、はじめての夢

本日、二回目の投稿となります。

 ある朝、ルナは懐かしい夢を見ていた。

 まだ六歳だったころ。祖母エマの店で過ごした、忘れられない三日間の夢を――。


 ミルフェの町に、爽やかな夏の朝が訪れた。

 東門の近くにある魔獣専門のトリミング店「エマのはさみ」

 その店先の大木「千年樹」は青々とした葉を広げ、枝の間からは、小鳥たちの元気な鳴き声が聞こえていた。

 大きな布のカバンを両手で抱え、両親とともに祖母の店の前に立っていた六歳のルナが元気よく呼んだ。

 「おばあちゃーん!」

 すると、扉が開いて白髪交じりの髪を後ろで束ねた女性が顔を出した。

 「おやおや。ずいぶん元気なお客様だねえ」

 「おばあちゃん! 三日間、お世話になります!」

 ルナはぺこりと頭を下げた拍子に、抱えていたカバンがずり落ちそうになる。

 「おっとっと」

 祖母のエマが慌てて受け止めた。

 「ほほほ。そんなに大きな荷物を持って、どこへ旅に出るつもりだい?」

 「お泊まりだよ!」

 「そうだったねえ」

 エマは笑いながら、ルナの頭を撫でた。今日は両親が仕事で三日ほど家を空けるため、ルナは祖母の店に預けられることになっていた。

 横にいた母がしゃがんでルナの服の襟を直しながら、話しかけた。

 「おばあちゃんの言うことをちゃんと聞くのよ」

 「うん!」

 また、さらにその横にいた父もルナに話しかけた。

 「それから、仕事の邪魔をしないようにな」

 「うん! ……たぶん!」

 「たぶん、か」

 父が苦笑すると、エマが声を上げて笑った。

 「大丈夫さ。この子は昔から魔獣を見るのが大好きだからね」

 母はルナの頬を優しく撫でた。

 「じゃあ、三日後に迎えに来るからね」

 「はーい!」

 ルナは元気よく手を振った。

 父と母は何度も振り返りながら、町の通りを歩いていった。

 その姿が角を曲がって見えなくなると、ルナはエマを見上げた。

 「ねえ、おばあちゃん」

 「なんだい?」

 「今日も魔獣さん、来る?」

 「もちろんさ。ここは魔獣のトリミング屋だからね」

 「やったあ!」

 ルナは両手を上げ、エマはそんな孫娘を見て目を細めた。

 「さあ、まずは荷物を置いておいで。それから朝のお茶にしよう」

 「はーい!」

 ルナは店の中へ駆け込んだ。木の床がとんとんと軽い音を立てる。

 店の中には、乾かした薬草の香りと、清潔な布の匂いが漂っていた。

 壁には大小さまざまなブラシや櫛が並び、棚には香油の小瓶が整然と置かれている。

 魔獣たちがやってきて、きれいになって帰っていく。ルナはこの店が大好きだった。

 それを見るだけで、胸がわくわくするのだ。


 その日の昼過ぎ、店の扉を控えめに叩く音がした。

 「こんにちは……」

 入ってきたのは若い女性で、腕には大きな布が巻かれている。

 よく見ると布の中で、もぞもぞと何かが動いていた。

 エマが笑顔で迎えた。

 「いらっしゃいませ、今日はどんな子を連れてきたんだい?」

 「実は……この子なんです」

 女性がそっと布を開く。

 そこにいたのは、小さな鹿型の魔獣だった。淡い茶色の体に白い斑点があり、額には菱形の白い模様。大きな黒い瞳と細い脚をもち、まだ角は生えていなかった。

 ルナは思わず声を上げた。

 「わあ……!」

 その子はルナの声に驚き、びくりと体を震わせた。

 「きゃっ!」

 女性が慌てて抱き直す。

 「す、すみません。この子、とても怖がりで……」

 子鹿は耳を伏せ、布の中で小さく震えており、ルナは慌てて口を押さえた。

 「ご、ごめんなさい……」

 エマはルナの肩に優しく手を置いた。

 「大丈夫だよ。驚かせちゃっただけさ」

 それから、女性に向き直った。

 「どうしたんだい、この子は?」

 「森の近くで暮らしているんですが、数日前からこの子の体に草の実や小枝が絡まってしまって……」

 女性は困ったように子鹿を見下ろした。

 「家で取ろうとしたんですけど、怖がって暴れてしまうんです」

 よく見ると、子鹿の胸元や腹のあたりに、小さな草の実がいくつも絡まっていた。

 また、細い脚の付け根には、乾いた泥もこびりついている。

 「なるほどねえ」

 エマは頷いた。

 「無理に取ろうとすると、毛を引っ張って痛いからね」

 「はい……」

 「大丈夫。できるだけ怖がらせないように、少しずつやってみよう」

 エマは柔らかく微笑んだ。

 子鹿は相変わらず震え、女性の腕の中で何度も小さく身をよじる。

 「……おばあちゃん」

 ルナが小声で尋ねた。

 「この子、怖いの?」

 「そうだねえ。知らない場所に来て、知らない人がたくさんいるんだから」

 「でも、おばあちゃんは優しいよ?」

 「ほほほ。それはルナが知っているだけさ」

 エマはしゃがんで、ルナと目線を合わせた。

 「この子は、まだあたしのことを知らないんだよ」

 「……そっか」

 子鹿は、大きな瞳で不安そうにあちこちを見回している。

 エマは女性に頼み、柔らかな布を敷いた床へ子鹿を下ろしてもらった。すると子鹿はすぐに女性の後ろへ隠れた。

 エマは追いかけず、少し離れた場所に腰を下ろした。

 「さあ、ゆっくりでいいよ」

 穏やかな声だった。

 子鹿は耳をぴくりと動かした。

 エマはそれ以上近づかず、しばらく静かに待った。

 窓の外では、小鳥がさえずっている。

 古木の葉が風に揺れ、さらさらと音を立てている。

 ルナはじっと見守っていたが、なかなか何も起こらない。

 「……おばあちゃん」

 「なんだい?」

 「まだ、きれいにしないの?」

 「ほほほ。今は、大切なお仕事の途中だよ」

 「えっ?」

 「この子が安心できるように、待っているんだ」

 ルナは不思議そうに首を傾げた。

 待つことも、お仕事なのだろうか。

 しばらくすると、子鹿がそろりと顔を出した。

 エマの方を見つめる。

 エマは動かない。

 子鹿は一歩、前へ出た。

 それから、また一歩。

 やがて、エマの差し出した手の匂いを、そっと嗅いだ。

 「……ほらね」

 エマが小さく囁いた。

 「この子が、自分から来てくれたよ」

 ルナは目を丸くした。

 「すごい……!」

 「しーっ」

 「あっ」

 ルナは慌てて両手で口を押さえた。

 エマは微笑みながら子鹿の首元へゆっくりと手を伸ばした。子鹿は少し身を固くしたが逃げなかった。

 「いい子だねえ」

 エマの手が、柔らかな毛をそっと撫でる。

 「大丈夫。痛いことはしないよ」

 その声は春の日差しのように穏やかだった。

 少しして、エマが小さなブラシを手に取ると、子鹿は耳を伏せた。

 「おや、これは怖いかい?」

 エマはすぐに手を止めた。

 「じゃあ、まずは見てもらおうね」

 ブラシを床に置き、子鹿が匂いを嗅ぐのを待つ。

 子鹿は鼻先を近づけ、くんくんと確かめ、それから何事もなかったように顔を上げた。

 「ほほほ。怖いものじゃなかっただろう?」

 エマはブラシを持ち直し、背中の毛先をほんの少しだけ梳かした。

 さらり。柔らかな毛が整う。子鹿がびくりとしたらエマはすぐに手を止めた。

 「そうそう。よく頑張ったねえ」

 少し待ってから、もう一度。さらり、さらり。ブラシが毛の上を滑るたび絡まっていた草の実が一つずつ取り除かれていく。

 子鹿の耳が、少しずつ起き上がってきた。

 細い脚の震えも、いつの間にか収まっている。

 ルナはその変化を、息をするのも忘れるほど夢中で見つめていた。

 「……おばあちゃん」

 「なんだい?」

 「この子、もう怖くないの?」

 エマは手を止めず、優しく答えた。

 「怖くなくなったわけじゃないよ」

 「え?」

 「少しだけ、あたしを信じてくれたんだねえ」

 ルナは子鹿を見た。最初はあんなに震えていたのに、今は静かに立っている。

 エマが胸元の草の実を取り除くと、子鹿は小さく鼻を鳴らした。

 「……ふうん」

 ルナは不思議な気持ちになった。

 おばあちゃんは、何も特別なことをしていないように見える。

 大きな魔法を使ったわけでもない。

 ただ、待って、話しかけて、優しく撫でているだけ。

 なのに、子鹿は少しずつ変わっていく。

 エマは最後に、清潔な布で子鹿の脚についた泥を拭き取った。

 「さあ、これでおしまいだよ」

 子鹿はゆっくりと首を上げた。

 淡い茶色の毛並みが、窓から差し込む光を受けて柔らかく輝いている。

 「わあ……!」

 ルナは思わず声を漏らした。

 さっきまで草の実だらけだった子鹿が、見違えるほどきれいになっていた。

 女性も目を細めた。

 「ありがとうございます……! こんなに落ち着いているなんて」

 ところが、そのときだった。

 子鹿が、エマの方へ一歩近づいた。

 「おや?」

 エマが首を傾げると、子鹿はさらに一歩近づき、そっとエマの膝に鼻先を寄せ、さらに顎を乗せた。

 「……まあ」

 エマは驚いたように微笑み、子鹿は目を細め気持ちよさそうに小さく息を吐いた。

 ルナは口をぽかんと開けた。

 「……おばあちゃん」

 「なんだい?」

 「この子、寝ちゃうの?」

 「ほほほ。眠くなったのかもしれないねえ」

 エマは子鹿の頭を優しく撫でたが、子鹿は逃げなかった。

 むしろ、もっと撫でてほしそうに顔を寄せてくる。

 さっきまで怖がっていた子が、今はこんなに安心している。ルナの胸はきゅうっと温かくなり、嬉しさがこみあげてきた。

 「……おばあちゃん」

 「うん?」

 「すごいね!」

 ルナの瞳が、きらきらと輝いた。

 「おばあちゃん、魔法使いみたい!」

 エマは声を上げて笑った。

 「ほほほ。魔法じゃないよ」

 「でも、すごいよ!」

 「そうかい?」

 「うん! だって、この子、最初は怖くて震えてたのに、今はこんなに気持ちよさそうなんだもん!」

 エマは子鹿を撫でながら、ゆっくりと頷いた。

 「そうだねえ。きれいにしてあげるのも大事だけど、それより先にこの子が安心できるようにしてあげないとね」

 「安心……」

 「怖がっている子には、まず安心できる場所を作ってあげるんだよ。きれいにするのはそのあとさ」

 安心できる場所。きれいにするのは、そのあと。

 ルナはその言葉を、胸の中で何度も繰り返したのだが、六歳のルナには少し難しい言葉だった。

 けれど、エマの膝でうとうとしている子鹿を見れば何となく分かる気がして、ルナは小さな手をぎゅっと握った。

 「……ねえ、おばあちゃん」

 「なんだい?」

 「わたしも、やってみたい」

 「何をだい?」

 「魔獣さんをきれいにするお仕事!」

 エマは目を丸くし、ルナはさらに続けた。

 「わたしも、おばあちゃんみたいになりたい!」

 その声は、小さな店の中に明るく響いた。エマはしばらくルナを見つめ、それからゆっくりと微笑んだ。

 「……そうかい」

 そして、孫娘の頭を優しく撫でた。

 「それは嬉しいねえ」

 「ほんと?」

 「ああ、本当さ」

 エマは棚から、小さな木製のブラシを取り出した。

 大人が使うものより、ひと回り小さい。

 「じゃあ、まずはこれを持ってごらん」

 「えっ、いいの?」

 「もちろん。ただし、今日はこの子に使うんじゃないよ」

 エマは布で作った小さな犬のぬいぐるみを持ってきた。

 「まずは、この子で練習だ」

 「わあ!」

 ルナは嬉しそうにブラシを受け取り、ぬいぐるみの背中を一生懸命に梳かし始めた。

 「こう?」

 「そうそう。もっと優しくね」

 「こうかな?」

 「ほほほ。上手だよ」

 ルナは夢中になり、小さな手で何度も何度もブラシを動かし、その様子を子鹿が不思議そうに見つめていた。

 やがて女性が子鹿を連れて帰る時間になった。

 「本当にありがとうございました」

 「いえいえ。また困ったことがあったらおいで」

 エマは笑顔で見送った。

 子鹿は扉の前で一度立ち止まり、エマの方を振り返った。

 「……きゅう」

 小さな声だった。

 エマは微笑んだ。

 「元気でね」

 子鹿は女性に寄り添いながら、店を出ていった。

 ルナはその後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。

 「またねー!」

 それからの三日間、ルナは暇さえあれば小さなブラシを握っていた。

 ぬいぐるみを梳かし、エマの仕事を見学して、分からないことがあれば何度も質問した。

 「おばあちゃん、魔獣さんって、みんなブラシが好きなの?」

 「いいや。嫌いな子もいるよ」

 「じゃあ、どうするの?」

 「その子に合ったやり方を考えるのさ」

 「ふうん……」

 ルナは真剣な顔で頷き、またぬいぐるみを梳かし始めた。

 三日目の夕方。店の前に、懐かしい声が響いた。

 「ルナー!」

 「あっ!」

 ルナは顔を上げた。

 扉の向こうに、父と母が立っていた。

 「お父さん! お母さん!」

 ルナは駆け出した。

 父が両腕を広げ、飛び込んできた娘を抱き上げた。

 「おっと! 元気だったか?」

 「うん! すっごく楽しかった!」

 母が笑顔で尋ねた。

 「おばあちゃんの言うこと、ちゃんと聞けた?」

 「うん! ……たぶん!」

 「また、たぶんか」

 父が笑った。

 エマも店の奥から顔を出した。

 「ほほほ。とてもいい子だったよ。それに、今日は大事な報告があるらしいねえ」

 「大事な報告?」

 母が首を傾げた。

 ルナは父の腕の中で、胸を張った。

 「わたしね!」

 「うん?」

 「大きくなったら、おばあちゃんみたいになる!」

 父と母は顔を見合わせた。

 「おばあちゃんみたいに?」

 「そう! 魔獣さんをきれいにして、怖いのをなくしてあげるお仕事!」

 ルナは一生懸命に説明した。

 怖がっていた子鹿のこと。

 エマがゆっくりとブラシをかけたこと。

 最後には、子鹿がエマの膝で眠りそうになったこと。

 話しているうちに、ルナの声はどんどん大きくなった。

 父は笑いながら頷いた。

 「そうか。ルナは、トリミング師になりたいのか」

 「うん!」

 母は優しく微笑んだ。

 「素敵な夢ね」

 「ほんと?」

 「ええ。ルナなら、きっとなれるわ」

 その言葉に、ルナの顔がぱっと明るくなった。

 「うん! わたし、がんばる!」

 父も母も、エマも笑っていた。

 あたたかな夕日が、店の窓から差し込んでいる。

 ルナは父の腕の中で、幸せいっぱいに笑った。

 その笑顔を、母が優しく見つめていた。

 ずっと、ずっと、覚えていたい時間だった。


 「……みゅう」

 ふと、小さな声が聞こえた。

 「……ん?」

 ルナが目を開けると、目の前に白い毛玉がいた。

 「みゅー」

 ミクが小さな前脚で、ルナの頬をちょんちょんとつついている。

 「……ミク?」

 「みゅっ!」

 窓から朝日が差し込んでいて、ルナはしばらく天井を見つめたあと、小さく微笑んだ。

 「……懐かしい夢、見ちゃった」

 ミクをそっと抱き寄せた。ふわふわの体は朝の布団のように温かかった。

 「ねえ、ミク」

 「みゅ?」

 「私ね、小さいころから、このお仕事が大好きだったんだよ」

 ミクは首を傾げた。

 「みゅう?」

 「ふふっ。いつか、おばあちゃんみたいになれるかな」

 ミクは答える代わりに、ルナの頬へ自分の顔をすり寄せた。

 「みゅっ!」

 「……ありがとう、ミク」

 ルナは笑った。

 もう一度、窓の外を見る。

 「千年樹」の葉が、朝の風にさらさらと揺れていた。

 あの日、エマの膝で安心して目を閉じた、小さな鹿の魔獣。

 その姿は、今でもはっきり覚えている。

 ルナはミクの頭を優しく撫でた。

 「さあ、今日もお仕事、頑張ろうね」

 「みゅう!」

 元気な返事が、朝の部屋に響いた。

 今日も『ルナのハサミ』に、新しい一日が始まる。

 小さなころに見つけた夢は、今も変わらず、ルナの胸の中で輝いていた。 


(つづく)

 お読みいただきありがとうございました。

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