第12話 小さなドラゴンと、爪のお手入れ
穏やかな秋の午後、ミルフェの町には柔らかな陽射しが降り注いでいた。
東門の近くにある魔獣専門のトリミング店「ルナのハサミ」。
店先の大木「千年樹」からは色づいた葉がひらひらと舞い落ち、また、小鳥たちが枝の上で羽を休めていた。
店主のルナ・ベルティアは、今日も忙しく働いていた。
「ふうっ。これでよし、と」
ルナは使い終えたブラシを丁寧に洗い、柔らかな布で水気を拭き取った。
棚には大小さまざまな櫛や鋏が並び、窓際には乾燥させた薬草が吊るされている。
床の隅では、大きな灰色狼のレイグが昼寝をしていた。
そのふさふさした尻尾の上には、白い小さな魔獣のミクが丸くなっている。
「……ミク、そこが好きだねえ」
「みゅう」
ミクは眠たそうに片目を開け、また尻尾に顔を埋めた。
レイグは動かない。
いや、動かないようにしているのかもしれない。
「ふふっ。レイグも、すっかり慣れたね」
ルナが笑った、そのときだった。
からん、からん。
入口の小さな鈴が鳴った。
「こんにちはー!」
聞き覚えのある、明るい声。
「あっ!」
ルナは顔を上げた。
扉の向こうに立っていたのは、冒険者の少女セリナだった。
そして、その腕の中には――。
「グルッ!」
小さな黒いドラゴンがいた。
「セリナ! それに、クロ!」
「久しぶり、ルナ!」
セリナは笑顔で手を振った。
クロも短い前脚を上げるようにして、元気よく鳴いた。
「グルルッ!」
「わあ、クロ! 元気そう!」
ルナは嬉しそうに駆け寄った。
クロの体長は、以前と変わらず六十センチほど。
黒曜石のような鱗が、窓から差し込む光を受けて艶やかに輝いている。
けれど、何かが違っていた。
以前は知らない場所に来るだけで、セリナの腕にしがみついていたクロが、今日は堂々と周囲を見回している。
「……クロ、なんだか大人っぽくなったね」
「そうなの! 最近、ずいぶん落ち着いてきたのよ」
セリナは誇らしそうに笑った。
「前みたいに、何でも怖がらなくなったしね」
「グルッ!」
クロは胸を張った。
その様子があまりにも得意げで、ルナは思わず笑ってしまった。
「ふふっ。すごいね、クロ」
その声に反応して、床の隅で白い毛玉がぴくりと動いた。
「みゅ?」
ミクが顔を上げた。
見慣れない黒い生き物を見つけ、大きな瞳を丸くする。
「みゅう?」
クロもミクに気づいた。
「グル?」
二匹はしばらく見つめ合った。
そして――。
「みゅっ!」
「グルッ!」
ミクがぴょんと跳ねると、クロも嬉しそうに鳴いた。
どうやら、挨拶は無事に済んだらしい。
「まあ、仲良くなるのが早いね」
セリナが笑った。
「この白い子、新しい家族?」
「うん。ミクっていうの」
「可愛い!」
セリナがしゃがむと、ミクは興味津々で近づいてきた。
クロもセリナの腕から床へ下りる。
そして、レイグの方へとことこと歩いていった。
レイグが片目を開ける。
大きな灰色狼と、小さな黒いドラゴン。
二匹はしばらく互いを見つめた。
「グル」
クロが小さく鳴いた。
レイグは鼻先を少し下げ、静かに匂いを確かめる。
それから、また目を閉じた。
どうやら、歓迎しているらしい。
「レイグも気に入ったみたい」
ルナが笑うと、セリナは感心したように頷いた。
「すごいわね。クロ、前なら大きな狼を見ただけで隠れてたのに」
「本当に成長したんだね」
「うん。でもね……」
セリナは少し困った顔になった。
「今日は、その成長で困ってることがあるの」
「困ってること?」
「これを見て」
セリナは肩に掛けていた鞄から、厚手の革を取り出した。
どうやら、膝に敷くための当て布らしい。
ところが――。
「……えっ?」
ルナは目を丸くした。
革には、何本もの深い引っかき傷が刻まれていた。
「これ、どうしたの?」
「クロの爪なの」
「ええっ!?」
セリナは苦笑した。
「最近、爪がすごく硬くなってきてね。膝に乗ってくるたびに、こうなるのよ」
「グル?」
クロが振り返った。
自分の名前を呼ばれたと思ったらしい。
「ほら、本人は何も分かってないでしょ?」
セリナはため息をついた。
「これ、もう三枚目なの」
「三枚も……」
「最初は普通の布を使ってたんだけど、それじゃ危なくて。今は厚い革を敷かないと、安心して抱っこできないのよ」
ルナはクロの前脚に目を向けた。
確かに、以前より爪が長く、先端も鋭くなっている。
「なるほどね。少し見せてもらってもいい?」
「もちろん!」
ルナはクロの前にしゃがんだ。
「クロ、前脚を見せてくれる?」
「グルッ」
クロは素直に右の前脚を差し出した。
「……あら」
ルナは少し驚いた。
以前のクロなら、知らない道具を見るだけで身を縮めていた。
けれど今は、落ち着いてルナを見つめている。
「本当に大きくなったんだねえ」
ルナは優しく微笑んだ。
そして、爪を一本ずつ丁寧に確かめた。
「うん。爪そのものは丈夫そう。ただ、先端が少し尖りすぎてるね」
「やっぱり?」
「うん。切るよりも、少しずつ削って形を整えた方がよさそう」
ルナは棚の奥から、細長い道具を取り出した。
鈍い銀色に輝く、丈夫そうな金属製のやすりだった。
「それ、何?」
セリナが尋ねた。
「特製の爪やすりだよ」
ルナは少し得意げに笑った。
「知り合いのドワーフの鍛冶職人さんが作ってくれたの」
「へえ!」
「ゲンさんっていう、とっても腕のいい職人さんなんだ」
やすりの柄には、小さな槌の形をした職人印が刻まれていた。
「普通のやすりじゃ、ドラゴンの爪には歯が立たないこともあるからね」
ルナは作業台に柔らかな布を敷いた。
「じゃあ、クロ。ここに乗ってくれる?」
「グルッ!」
クロは軽やかに作業台へ飛び乗った。
その姿を見て、セリナが感慨深そうに呟いた。
「……前は、お風呂に入れるだけでも大騒ぎだったのにねえ」
「あはは。そうだったね」
ルナも懐かしそうに笑った。
あのときは、二人ともずいぶん苦労したものだ。
ルナはクロの前脚をそっと支えた。
「じゃあ、少しだけ削るね。嫌だったら教えてね」
「グル」
やすりを爪の先端に当てる。
しゃり、しゃり。
小さな音が響いた。
クロは不思議そうに自分の前脚を見つめている。
少しくすぐったいのか、指先をぴくりと動かした。
「おっと」
ルナはすぐに手を止めた。
「くすぐったかった?」
「グルル」
「ふふっ。じゃあ、ちょっと休憩しようか」
セリナが目を丸くした。
「ルナ、ずいぶん落ち着いてるのね」
「えっ?」
「前に来たときは、クロが動くたびに二人で慌ててたじゃない」
「あはは……そうだったかも」
ルナは少し照れくさそうに笑った。
「でも、いろんな魔獣さんのお手入れをしてきたからね。無理に急がない方が、結局は早く終わるって分かったの」
「なるほどねえ」
セリナは感心したように頷いた。
ルナは再びクロの前脚を支えた。
「爪は短ければいいってものじゃないからね。クロが歩いたり、物につかまったりするときにも使うんだもの」
「そうなんだ」
「うん。尖ったところだけ、少しずつ丸くしていくね」
しゃり、しゃり。
金属のやすりが、硬い爪を丁寧に整えていく。
クロは時折、首を傾げたり、尻尾を揺らしたりした。
けれど、逃げようとはしなかった。
その間、ミクは少し離れた場所から、じっと様子を見ていた。
「みゅう……」
自分も何か手伝いたそうだった。
「ミク、もう少し待っててね」
「みゅっ」
ミクは素直に座った。
ただし、その尻尾は期待に満ちたように、ふりふりと揺れていた。
レイグは相変わらず床の隅で横になっている。
ときどき片目を開け、二匹の様子を確かめているようだった。
しばらくして。
「……よし!」
ルナが顔を上げた。
「終わったよ、クロ」
「グルッ!」
クロは嬉しそうに鳴いた。
ルナは最後に爪の先端を指で確かめた。
鋭かった部分が、滑らかに整っている。
「これなら、少し安心かな」
「ありがとう、ルナ!」
セリナはほっとしたように笑った。
「さすがね。私がやろうとすると、全然うまくいかなかったのに」
「ふふっ。クロも、とってもいい子だったよ」
「グルルッ!」
クロは胸を張った。
まるで、褒められて当然だと言わんばかりだった。
「……ふふふ」
店の奥から、小さな笑い声が聞こえた。
エマだった。
いつの間にか、扉のそばで様子を見守っていたらしい。
「おばあちゃん?」
「いやいや。ずいぶん手際がよくなったと思ってねえ」
「えっ?」
「クロちゃんの様子をよく見ながら、無理をさせずに進めていたじゃないか」
エマは優しく微笑んだ。
「立派になったねえ、ルナ」
「……おばあちゃん」
ルナは頬を赤らめた。
「まだまだだよ」
「ほほほ。そう思っているうちは、もっと上手になれるさ」
エマは満足そうに頷いた。
その目には、孫娘の成長を喜ぶ温かな光が宿っていた。
作業が終わり、セリナは椅子に腰掛けた。
エマが用意してくれた冷たい果実水を、一口飲む。
「はあ、おいしい!」
「今日は日差しが強いからねえ。お代わりもあるよ」
「ありがとうございます!」
ルナは使った道具を片付けながら、笑顔で答えた。
「クロもお疲れさま」
「グルッ!」
クロは作業台から下りると、ミクのところへ駆け寄った。
「みゅっ!」
「グルルッ!」
二匹はすぐに遊び始めた。
クロが尻尾を左右にゆらゆら動かす。
ミクはそれを面白がって、ぴょんぴょん跳ねた。
「みゅっ!」
右へ。
「みゅう!」
左へ。
ところが、クロの尻尾はするりするりと逃げてしまう。
ミクはますます夢中になった。
「みゅーっ!」
そして、勢いよく跳びかかった。
しかし――。
ひょいっ。
クロが尻尾を持ち上げた。
「みゅっ!?」
空振りしたミクは、そのまま前へ飛んでいった。
ぽすん!
着地したのは、セリナの膝の上だった。
「わっ!?」
突然飛び込んできた白い毛玉に驚き、セリナが反射的に立ち上がった。
その手には飲みかけの果実水が入ったグラスがあり、ばしゃっと赤紫色の果実水が弧を描くように宙を舞い、正面にいたルナへ……。
「えっ?」
次の瞬間、ルナの真っ白なエプロンに見事な赤紫色の模様が広がった。
「…………」
「…………」
店の中が、しんと静まり返った。
セリナは、空になったグラスを握ったまま固まっている。
ルナは、自分のエプロンを見下ろしていた。
白かったはずの布が、胸元からお腹にかけて鮮やかに染まっている。
「……ルナ……ごめん」
「……ううん」
セリナは泣きそうな顔になった。
「本当にごめん! 私、びっくりして……!」
「ミクが飛び込んできたせいだから気にしないで」
ルナは慌てて笑顔を作った。
「でも、エプロンが……」
「洗えば、きっと落ちるから!」
その足元では、ミクが不思議そうに首を傾げていた。
「みゅ?」
クロも首を傾げる。
「グル?」
二匹は、何が起こったのかさっぱり分かっていないらしい。
レイグは――。
静かに目を閉じていた。
まるで、何も見なかったことにするように。
「……っ」
店の奥から、笑いをこらえるような声がした。
エマだった。
「ほほほ……」
「おばあちゃん!」
「いやあ、ごめんよ。でもねえ……」
エマはルナのエプロンを見て、とうとう笑い出した。
「今日は魔獣じゃなくて、ルナが洗われる番かい?」
「もうっ! おばあちゃん!」
ルナは頬を膨らませた。
けれど、すぐに自分でもおかしくなってしまった。
「あははは!」
ルナが笑い、つられるようにセリナも笑い出し、二人の笑い声が店いっぱいに響いた。
ミクは嬉しそうに跳ねた。
「みゅっ!」
クロも負けじと鳴く。
「グルッ!」
どうやら、二匹は自分たちも褒められていると思っているらしい。
その後、ルナはエプロンを外し、エマに染み抜きを頼んだ。
「おばあちゃん、落ちるかなあ?」
「さあねえ。ずいぶん景気よく染まったからねえ」
「うう……」
「ほほほ。まずは水で洗ってみようか」
エマは笑いながら、エプロンを受け取った。
そして、セリナが帰る前。
「……ねえ、ルナ」
「なあに?」
「もう一度、クロを抱っこしてみてもいい?」
「もちろん!」
セリナは椅子に腰掛けた。
いつものように厚手の革の当て布を膝に敷こうとして、少し手を止める。
「……今日は、なくても大丈夫かな」
ルナはクロの爪をもう一度確かめた。
「先端は丸くしたけど、爪そのものは硬いからね。念のため、薄い布を敷いてみようか」
「そうね」
セリナは柔らかな布を膝に広げた。
「おいで、クロ」
「グルッ」
クロは軽やかに膝へ飛び乗った。
セリナは少し身構えた。
けれど――。
「……あれ?」
いつものように、鋭い爪が布へ食い込む感触がない。
クロは膝の上でくるりと向きを変え、気持ちよさそうに丸くなった。
「……痛くない!」
セリナの顔が、ぱっと明るくなった。
「ルナ、すごい! これなら安心して抱っこできるわ!」
「よかった!」
ルナも嬉しそうに笑った。
クロは満足げに喉を鳴らしている。
「グルルル……」
その横で、ミクがちょこんと座った。
「みゅっ!」
まるで、自分も抱っこしてほしいと言っているようだった。
「ふふっ。ミクもおいで」
セリナが空いている方の膝を軽く叩く。
ミクは嬉しそうに飛び乗った。
「みゅう!」
右には黒いドラゴン、左には白い小さな魔獣。
「……可愛いなあ」
セリナは二匹を見下ろして、幸せそうに笑った。
店の奥では、エマがその様子を見て、静かに頷いていた。
魔獣の気持ちを考え、無理をさせず、必要な手入れを丁寧に行っている。
まだまだ学ぶことは多いだろうが、その手つきには確かな成長が感じられ、孫娘のことを頼もしく思った。
「……いい仕事をしたねえ、ルナ」
エマが小さく呟いた。
ルナは振り返った。
「えっ? 何か言った?」
「いいや。何でもないよ」
エマはにっこり笑った。
その笑顔には、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
やがて、セリナとクロが帰る時間になった。
「今日は本当にありがとう!」
「ううん。またいつでも来てね」
「もちろん!」
セリナはクロを抱き上げた。
クロはルナに向かって、小さく前脚を上げた。
「グルッ!」
「ふふっ。またね、クロ」
「みゅー!」
ミクも元気よく鳴いた。
クロがそれに応える。
「グルルッ!」
二匹はすっかり仲良しになったようだった。
♢♢♢
セリナたちを見送ると、ルナは大きく伸びをした。
「ふうっ。今日も無事に終わったね」
そのとき、奥からエマの声がした。
「ルナー! ちょっとおいで!」
「はーい!」
ルナが駆け寄ると、エマが洗い終えたエプロンを広げていた。
「どう? 落ちた?」
「うーん……」
エマは少し困った顔をした。
白い布の真ん中に、薄い赤紫色の染みが残っている。
「……まだ、ちょっと残ってるねえ」
「ええーっ!」
ルナは肩を落とした。
レイグは店の扉が閉まっていることを確かめてから、低い声で言った。
「……いい模様じゃないか」
「もうっ! レイグ!」
エマは笑いながら言った。
「まあ、これも今日の思い出さ」
「そんな思い出、いらないよぉ!」
店の奥まで、笑い声が響いた。
二人の足元では、レイグが横になり、ミクがその尻尾に飛びついている。
「みゅっ!」
レイグは小さく息を吐いた。
「……やれやれ」
ルナは笑った。
窓の外では、大きな古木の葉がさらさらと揺れている。
今日もまた、『ルナのハサミ』には、魔獣たちと過ごした温かな一日が積み重なっていく。
(つづく)
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