第7話 おじいさんと、帰ってくるフクロウ
夏の強い陽射しが、ミルフェの町に降り注いでいた。東門の近くにあるトリミングの店「ルナのハサミ」。店先の大木が作る涼しい木陰では、小鳥たちが羽を休め、遠くからは虫の声が響いていた。
「千年樹」の根元では灰色狼のレイグが気持ちよさそうに昼寝をしており、その立派な尻尾で小さな白い魔獣のミクが丸くなっていた。
「みゅ……」
淡い桃色の耳先が眠りに合わせてぴくぴくと動いていて、店先の掃除をしていたルナ・ベルティアがそれを見てつぶやいた。
「ふふっ。ミクちゃん、またレイグの尻尾で寝てる」
うっすらと目を開け、人がいないことを確認したレイグがバリトンボイスでつぶやいた。
「……俺の尻尾は寝床ではない」
「でも、気持ちよさそうだよ?」
「……それは見れば分かる。俺の昼寝の邪魔をしなければ、それでいい」
「優しいんだね、レイグ」
「……違う」
ルナが笑っていると、通りの向こうから杖をついた老人が歩いてきた。
白い髭をたくわえた少し背中の曲がった老人で、その肩には大きな茶色いフクロウがとまっている。
「こんにちは、お嬢さん」
「いらっしゃいませ!」
ルナは箒を立てかけ、笑顔で迎えた。
「今日は、どんなご用でしょう?」
「この子の羽を、少し見てやってもらえんかのう」
老人は肩のフクロウを見上げた。
「最近、羽が乱れることが増えてな。自分で整えるのも、少し面倒になったらしい」
「ホゥ……」
フクロウは低く鳴いた。
まるで、余計なことを言うなと抗議しているようだった。
「ふふっ。とてもおとなしい子ですね」
「昔からそうじゃ。わしよりよほど落ち着いておる」
「ホゥ」
「ほれ、また何か言いおった」
老人は楽しそうに笑った。
ルナが二人を店の中へ案内したところ、エマも奥から顔を出してきた。
「おや、いらっしゃい。立派なフクロウだねぇ」
「長い付き合いの相棒でしてな」
老人は椅子に腰を下ろした。
フクロウは老人の肩から隣の木製の止まり木へ静かに移り、羽を広げると茶色と灰色が混じった美しい模様が現れた。
けれども、ところどころ羽先が乱れ細かな埃がついている。
「森をよく飛ぶ子なんですね」
「毎日、好きなところへ出かけておるよ」
「飼っているんじゃないんですか?」
「いやいや。こいつは自由な身じゃ。わしの家には勝手に帰ってくるだけでな」
老人は首を振りながら答えた。
「勝手に?」
「そうじゃ。毎晩、飯を食いにな」
「ホゥ!」
フクロウが少し大きな声で鳴いた。
「ふふっ。ご飯が楽しみなんですね」
「そうらしい。わしの顔より皿の中身を見ておることもある」
エマが声を立てて笑った。
「ほほほ! 野良猫みたいなフクロウだねぇ」
「まったく、そのとおりですじゃ」
ルナもふふふと笑いながらフクロウの羽をそっと調べ始めた。
「少し羽が絡まっていますね。でも、大丈夫。きれいに整えましょう」
「ホゥ……」
フクロウはおとなしく目を閉じた。
ルナは柔らかな布で埃を払い、一本一本の羽を丁寧に整えていく。
翼の付け根に触れると、フクロウが少しだけ身じろぎした。
「あっ、ここは痛い?」
「ホゥ」
ルナは手を止め、慎重に様子を確かめた。
「無理はしないからね」
その声に、フクロウは安心したように目を細めた。
ルナは作業を続けながら、老人に尋ねた。
「この子とは、ずいぶん長いお付き合いなんですか?」
「そうじゃなぁ……」
老人は窓の外を見つめた。
「わしが、まだ十にもならん小僧だった頃からじゃ」
「ええっ! そんなに昔から!?」
「ほほほ。驚くじゃろう。こいつは魔獣だから人間とは歳の取り方が違うんじゃ」
老人は懐かしそうに微笑んだ。
「初めて会ったときは、今にも死にそうじゃった」
ルナの手が、そっと止まった。
「……死にそう?」
「うむ。森の外れで倒れておったんじゃ。片方の翼に大きな傷があってな」
老人は、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「血で羽が固まって息も弱くてのう。大人たちはもう助からんと言うた」
「そんな……」
「けれど、わしには見捨てられんかった」
少年だった老人は、傷ついたフクロウを抱えて家へ帰り、小さな布を敷いた籠に寝かせた。
水を少しずつ飲ませ傷を洗い清潔な布を当てるなど世話をして、また、夜になると何度も様子を見に行った。
フクロウはほとんど動かなかったが、それでも少年は毎朝声をかけ続けた。
『おはよう。今日も生きておるな』
そして、何日も経ったある朝、少年が籠を覗くとフクロウがゆっくり目を開けた。
『……ホゥ』
かすかな鳴き声だったが、少年には何より嬉しい声だった。
『よかった! 生きておった!』
老人は、そこで小さく笑った。
「嬉しくてなぁ。家中を走り回ってしまい、うるさいと母親に叱られたもんじゃ」
「ふふっ。きっと、すごく嬉しかったんですね」
「そりゃあ、もう」
老人はフクロウを見つめた。
「それから、こいつは少しずつ元気になった。翼の傷も治ってやがて飛べるようになったんじゃ」
「それで、一緒に暮らすようになったんですか?」
「いや。それが違うんじゃよ。元気になったらさっさと森へ帰っていきおった」
老人は楽しそうに首を振りながらルナに答えた。
「えっ?」
「わしも、それでお別れだと思うたが、その日の夕方のことじゃったが、コン、コン、と音がしてな。窓を開けたらこいつが座っておった」
老人は指で窓を叩く仕草をした。
「まあ!」
「腹が減ったのかと思って、飯を出してやったんじゃ。そしたら、翌日も来おった」
「ふふっ。ご飯がおいしかったんですね!」
「そうじゃろう。ところが、三日目には飯が遅いと窓を叩き始めてな」
「ホゥ!」
フクロウが大きく鳴いた。
「ほら、今も催促しておる!」
ルナとエマは声を立てて笑った。
老人も、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
「それから何十年も、毎晩帰ってくるんじゃ」
「ずっと?」
「ずっとじゃ。雨の日も、雪の日もな。もっとも、ひどい嵐の日には森のどこかで雨宿りしておるようじゃが」
老人は少しだけ声を落とした。
「わしが若い頃は、こいつが窓を叩く前に外へ迎えに出たもんじゃ」
ルナは老人を見つめた。
「今は、違うんですか?」
「今はのう……」
老人は杖に手を置いた。
「立ち上がるのに、少し時間がかかるんじゃ」
フクロウが静かに目を開けた。
「昔は、コンコンと何度も窓を叩いておったが、最近は一度だけ叩いてじっと待っておる」
「……」
「わしが窓まで行くのに、時間がかかると分かっておるんじゃろうな」
ルナはフクロウを見つめた。
大きな茶色い瞳が、静かに老人を見返している。
「優しい子ですね」
「そうじゃなぁ」
老人は微笑んだ。
「わしは、こいつの命を助けたつもりでおった」
そして、少しだけ遠い目をした。
「じゃが、妻に先立たれて一人になったとき、今度はこいつに助けられたんじゃ」
店の中が、静かになった。
「家に帰っても、誰もおらん。食卓に座っても、一人じゃ。そんな日が続いたときも、夕方になるとこいつが窓を叩くんじゃ」
「……」
「コン、とな。飯はまだか、と言うように」
老人は、ふっと笑った。
「そうすると、わしも飯を作らにゃならん。窓を開けにゃならん。明日も生きておらにゃならんと思うんじゃ」
「ホゥ……」
フクロウは止まり木から老人の膝へ、そっと移り、皺だらけの手に頭を寄せた。
老人は微笑みながら、その頭を優しく撫でた。
「……ありがとな」
ルナは胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
エマも、何も言わずに微笑んでいた。
やがて、ルナは羽の手入れを終えた。
「はい! きれいになったよ!」
フクロウはゆっくり翼を広げた。
茶色と灰色の羽が、柔らかな光を受けて美しく輝いた。
「ホゥ!」
「ふふっ。気持ちよさそう!」
老人も満足そうに頷いた。
「おお、見違えたのう。これなら、また元気に飛び回れるわい」
ルナは少し考えてから、老人に尋ねた。
「あの、おじいさん。ひとつ、いいですか?」
「何じゃな?」
「この子が肩にとまるの、少し重くありませんか?」
「ほほほ。昔は平気じゃったが、今はちと堪えるのう」
「それなら、こんなのはどうでしょう?」
ルナは店の奥から、使っていない小さな木製の止まり木を持ってきた。
エマが昔、羽のある魔獣の手入れに使っていたものだった。
「これを、おじいさんのお家の窓の近くに置いてみませんか?」
「ほう?」
「そうすれば、この子は肩にとまらなくても、おじいさんのそばにいられます」
エマも頷いた。
「窓辺に置けるように、台を少し直してあげようかね」
「そりゃあ、ありがたい」
老人は嬉しそうに笑った。
「これなら、わしの肩も少しは楽になるわい」
「ホゥ」
フクロウがまるで賛成するように鳴いたとき、店の隅から小さな白い影が飛び出してきた。
「みゅ!」
「あっ、ミクちゃん!」
ミクはフクロウの足元まで駆け寄った。
「みゅう!」
「ホゥ……」
フクロウは首を傾げた。
「みゅ!」
「ホゥ」
「みゅう!」
「ホゥー」
何やら会話をしているようだった。
老人が目を細めた。
「ほほほ。こいつも、ずいぶん若い友達ができたようじゃ」
ルナも笑った。
「ミクちゃん、ちゃんとご挨拶できたね!」
フクロウは静かに翼を広げ、ミクの頭をふわりと羽先で撫でた。
「みゅ……」
ミクは嬉しそうに目を細めた。
やがて、老人は杖を手に立ち上がった。
「さて、そろそろ帰るとするかのう」
「ありがとうございました! また来てくださいね!」
「うむ。こいつも、きっと喜んでおるよ」
「ホゥ!」
フクロウは老人の肩ではなく、店の外へふわりと飛び立った。
大きな古木の枝にとまり、老人を見下ろした。
「先に帰っておれ! わしはゆっくり歩いていくからのう!」
「ホゥ!」
フクロウは翼を広げ、青い空へ飛び立った。
老人は、その姿を見上げて微笑んだ。
「……まったく。昔から、せっかちなやつじゃ」
そう言いながらも、その声は嬉しそうだった。
ルナは老人の背中が通りの向こうに消えるまで見送った。
その日の夕方、店の片付けを終えたルナは古木の下で寝そべるレイグの隣に腰を下ろした。
ミクは相変わらず、レイグの尻尾に丸くなっている。
通りに人がいないことを確認してからルナはレイグに語り掛けた。
「ねえ、レイグ」
「……何だ」
「今日のおじいさんとフクロウ、素敵だったね」
「……ああ」
レイグは低い声で答えた。
「……自由に生きて、それでも帰る場所がある。悪くない」
ルナは少し驚いた。
「レイグ、なんだか詩人みたい!」
「……そうか」
「うん!」
「……では、詩人にも肉をくれ」
「ええっ!? そこでお肉!?」
ルナが思わず笑うと、ミクが尻尾の中から顔を出した。
「みゅ!」
「……お前まで賛成するな」
「みゅう!」
「……まったく。落ち着かん」
レイグは深いため息をついて呟いたが、その尻尾はミクを包み込むように優しく丸まっていた。
数日後の夕暮れ時、町の外れにある小さな家では、老人が窓辺に置いた椅子に座っていた。
窓の外は、夕焼けに染まっている。
コン。
小さな音がした。
「おお、帰ったか」
老人はゆっくり立ち上がり、窓を開けた。
そこには、茶色いフクロウが静かに座っていた。
「今日も腹が減ったか?」
「ホゥ」
「まったく、食いしん坊め」
老人は笑いながら用意しておいた皿を差し出し、それを見たフクロウは嬉しそうに鳴いた。
「ホゥ!」
「ほほほ。分かっておる、分かっておる」
老人は椅子に腰を下ろし、フクロウが食事をする姿を眺めた。
窓辺には、昨日ルナが届けてくれた小さな止まり木が置かれていた。フクロウは食事を終えるとそこへふわりと飛び移った。
そして、老人のすぐそばで静かに目を閉じた。
「……今日も帰ってきてくれたのう」
「ホゥ……」
老人は、そっと微笑んだ。
「明日も、待っておるぞ」
フクロウは片目を開けた。
そして、まるで当たり前だと言うように、低く鳴いた。
「ホゥ」
小さな家には、二人の穏やかな時間が流れていた。
(つづく)
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第8話はR8.10.29に投稿します。




