第6話 歩く毛玉と、もこもこ大騒動!
ミルフェの町に、眩しい夏の朝が訪れた。 東門の近くにあるトリミングの店「ルナのハサミ」。
店先の大木「千年樹」は青々とした葉を広げ、枝の間からは、小鳥たちの元気な鳴き声が聞こえていた。
ミクを迎えてから数日が経った.
トリミング屋『ルナのハサミ』では、ルナ・ベルティアが開店の準備をしていた。
「おばあちゃん、今日もいいお天気だね!」
「そうだねぇ。洗濯物もよく乾きそうだよ」
エマは店の奥で、洗いたてのタオルを畳んでいた。
その足元では、小さな白い魔獣がちょこちょこと歩き回っている。
「みゅ!」
「おやおや、ミク。そんなところに入ったら危ないよ」
「みゅう!」
ミクは返事をするように鳴き、今度はタオルの山によじ登ろうとした。
まだ赤ちゃんのミクにとって、店の中は不思議なものだらけなのだ。
「ふふっ。ミクちゃん、今日も元気いっぱいだね」
ルナはミクを抱き上げ頬を寄せたところ、ふわふわした白い毛がくすぐる。
淡い桃色の耳先が、ぴくぴくと動いた。
「みゅう」
「くすぐったいよぉ!」
ルナが笑っていると、店の外から低い鳴き声が聞こえた。
「ワフ」
「あっ、レイグ!」
ルナが扉を開けると、大きな灰色狼が古木の下に寝そべっており、立派な毛並みは朝日に照らされ銀色に輝いている。
「おはよう、レイグ!」
レイグは片目だけを開け、通行人がいないことを確かめたうえで、低いバリトンで答えた。
「……ああ」
「今日もお昼寝?」
「……見れば分かるだろう」
「ふふっ。そうだね」
ミクがルナの腕から顔を出した。
「みゅ!」
レイグの耳がぴくりと動く。
「……朝から騒がしいな」
「ミクちゃんも、おはようって言ってるんだよ」
「……そうか」
レイグが再び目を閉じたとき、どこからか、妙な鳴き声が聞こえてきた。
「ンメェーー!」
「……え?」
ルナは顔を上げた。
「ンメェーー!」
今度は、もう少し近い。
「おばあちゃん! 何か鳴いてる!」
エマが店から顔を出した。
「羊の鳴き声みたいだねぇ」
「羊?」
ルナは通りの向こうを見た。
そして、思わず目を丸くした。
「……えっ?」
東門につながる道の向こうから、巨大な白い毛玉が歩いてきた。
いや、正確には、毛玉の下から四本の短い足が突き出している。
ふわふわ、もこもこ。
まるで雲の塊が、そのまま地面を歩いているようだった。
「……毛玉?」
「ンメェーー!」
毛玉が鳴いた。
「しゃ、喋った!?」
「鳴いただけだよ、ルナ」
エマが笑った。
巨大な毛玉はふらふらとした足取りでこちらへ向かってきつつも少しずつ右へそれていて、そして、ゴツン! 店の前に置かれた木箱の角にぶつかった。
「きゃっ! 大丈夫!?」
ルナは慌てて駆け寄った。
「ンメ?」
毛玉は、何事もなかったようだった。首を傾げたふうにも見えるが、そもそも首がどこにあるのかも分からない。
「……痛くないの?」
「ンメェー」
毛玉は平然としている。どうやら分厚い毛が衝撃をすっかり吸収してしまったらしい。
ルナがほっとした直後、毛玉は再び歩き出し、よちよち、よちよち、ゴツン! 今度は店の壁にぶつかった。
「またぁ!?」
「ンメ?」
ルナは両手を広げた。
「ちょ、ちょっと待って! もう歩かないで!」
毛玉はぴたりと止まり、困ったような鳴き声を上げた。
「ンン メェ~」
店から出てきたエマが近づき、毛玉の表面をそっと撫でた。
「おやまあ。こりゃ、ずいぶん毛が伸びたねぇ」
「おばあちゃん、この子、何なの?」
「羊の魔獣だよ。毛が伸びすぎて、前が見えなくなってるんだね」
「ええっ! 目が見えないの!?」
「目はあるさ。毛の奥にね」
ルナは毛玉をじっと見つめたが、どこが顔なのか分からない。耳も、目も、鼻も、全部毛に埋もれている。
見えているのは四本の短い足だけだった。
「……すごい、ここまで毛が伸びるんだ……」
ルナは感心したように呟いた。
「ンメェーー!」
羊の魔獣がどこか誇らしげに鳴いたとき、ミクがルナの腕の中で身を乗り出した。
「みゅ!」
「ミクちゃん?」
「みゅう!」
ミクは巨大な毛玉に興味津々で、ルナがそっとミクを地面に下ろすとちょこちょこと羊に近づいていく。
そして、ぽふっ!
勢いよく飛びついたミクの小さな体が、羊の毛の中へ沈み込んだ。
「ミクちゃん!?」
「みゅうう!」
白い毛の中から小さな鳴き声が聞こえるが、姿が見えない。
「た、大変! ミクちゃんが埋まっちゃった!」
ルナは慌てて毛をかき分けた。
「ミクちゃーん! どこー!?」
「みゅ!」
「こっち!?」
「みゅう!」
ようやく、白い毛の間から淡い桃色の耳先が見えた。
「あっ、いた!」
ルナはミクをそっと引っ張り出した。
ぽんっ!
ミクは、ふわふわした毛を体中につけたまま現れた。
「みゅ!」
「もう! びっくりしたよ!」
その様子を、古木の下からレイグが眺めていた。
「……毛玉が毛玉を飲み込んだな」
「レイグ! 笑い事じゃないよ!」
「……俺は笑っていない」
確かにレイグは真面目な顔をしていたが、尻尾の先がふるんふるんと揺れていた。
ルナは羊の魔獣に向き直った。
「ねえ、あなた。毛を少し切ってもいい?」
「ンメ?」
「目が見えるようにしてあげたいの」
羊はしばらく動かなかった。
そして、元気よく鳴いた。
「ンメェーー!」
「いいって言ってるみたい!」
「ほほほ。じゃあ、さっそく始めようかね」
ルナとエマは、羊を店の中へ案内した。
もっとも、羊は入り口の位置が分からず扉の横にゴツンとぶつかってしまった。
「こっちだよぉ!」
「ンメェー」
ルナが声をかけると、羊はその声を頼りに歩いてきた。
ようやく店の中に入ると、羊は大人しく作業台の前に立った。
「さて、まずはお顔からだね」
ルナは手に取ったハサミを動かした時、しゃきんとした音を聞いた羊がぴくりと体を震わせた。
「ンメ!?」
「あっ、怖い?」
「ンメェ……」
羊は後ずさりしてしまい、後ろにあった大きな洗い桶にゴツン!と足がぶつかった。
「わわっ!」
洗い桶がぐらりと揺れ、ルナは慌てて押さえた。
「大丈夫! 怖くないよ!」
「ンメェーー!」
さらに驚いた羊は別のほうに後ずさりして、今度は棚の角にぶつかった。
「お、おばあちゃん! どうしよう!」
「ほほほ。まずは安心させてあげなきゃね」
エマは落ち着いて羊に近づき、背中をゆっくり撫でた。
「大丈夫だよ。痛いことはしないからね」
「ンメ……」
羊は少しずつ落ち着いてきた。
ルナもハサミを置き、羊の毛を優しく撫でた。
「ごめんね。びっくりさせちゃったね」
「ンメェ……」
「少しずつ切っていこうね」
羊は、こくりと頷いたように見えた。
ルナは再びハサミを手に取り、今度は羊の耳元から離れたところで、小さく音を鳴らした。
しゃき、しゃき。
「ほら、怖くないでしょう?」
「ンメ……」
羊はじっとしていた。
「いい子だね」
ルナは慎重に、顔の周りの毛を切り始めた。
しゃき、しゃき。
白い毛が、ふわりと床に落ちる。
少しずつ、羊の顔が現れてきた。
「あっ!」
ルナは嬉しそうに声を上げた。
「おばあちゃん! 目が見えた!」
毛の奥から、大きな茶色い瞳が現れた。
続いて、小さな鼻。
そして、ぴょこんと横に広がった可愛らしい耳。
「まあまあ。こんなに可愛いお顔だったんだねぇ」
エマも微笑んだ。
羊は、ぱちぱちと瞬きをした。
「ンメ?」
久しぶりに、目の前がはっきり見えたのだろう。
羊は不思議そうに店の中を見回した。
「ンメェーー!」
嬉しそうな鳴き声が響いた。
「ふふっ。よかったね!」
ルナは羊の頭を撫で、体の毛も少しずつ整えていった。
しゃき、しゃき。床には白い羊毛が積もっていき、やがて、作業が終わるころには大きな籠がいっぱいになっていた。
「ふう……! できた!」
ルナは額の汗を拭った。
目の前には、すっきりした姿の羊の魔獣が立っていた。
丸みのある体に、ふんわり整った毛並み。
大きな茶色い瞳と、ぴょこんとした耳。
先ほどまでの巨大な毛玉とは、まるで別の魔獣のようだった。
「わあ! 可愛い!」
「ンメェーー!」
羊は嬉しそうに鳴き、店の中を軽やかに歩き回った。
もう、壁にぶつかることもない。
ルナは満足そうに微笑んだ。
「これで、ちゃんと前が見えるね!」
そのとき、ミクが羊の足元へ駆け寄った。
「みゅ!」
「ンメ?」
羊は小さなミクを見下ろし、優しく鼻先を近づけた。
「ンメェー」
「みゅう!」
まるで、お礼を言い合っているようだった。
ルナは思わず笑った。
「ふふっ。仲良しになったんだね」
エマは籠に入りきらず床に積もった羊毛を見つめた。
「それにしても、ずいぶんたくさん刈れたねぇ」
「ほんとだね!」
ルナは白い羊毛を手に取った。毛はふわふわで、柔らかくて、温かい。
「ねえ、この毛、どうしようか?」
そして、羊の魔獣に向き直った。
「捨てちゃうのはもったいないけど、使ってもいい?」
「ンメェーー!」
羊は元気よく鳴き、嬉しそうに尻尾を振った。
「ふふっ。使って頂戴って言ってるみたい!」
エマが羊毛をひとつまみ手に取った。
「それなら、いいものを作ってあげようかねぇ」
「いいもの?」
「ミクの寝床さ。これだけ柔らかい毛なら、きっと気持ちよく眠れるよ」
「みゅ!」
ミクは何かを察したように、ぴょこんと跳ねた。
その様子を見て、羊も嬉しそうに鳴いた。
「ンメェー!」
やがて、羊の魔獣はすっきりした足取りで店を出ていった。
もう壁にも木箱にもぶつからない。
何度も振り返っては、「ンメェー!」と嬉しそうに鳴いていた。
「また来てねー!」
ルナが手を振ると、羊は最後にもう一度、大きな声で鳴いた。
「ンメェーー!」
その姿が通りの向こうに消えるまで、ルナは笑顔で見送った。
――それから数日後――
ルナとエマは、羊からもらった毛を丁寧に洗い、汚れや脂分を落としていた。
何度も水を替え、柔らかな毛を傷めないようにすすぎ、風通しのよい場所で十分に乾かした。
乾いた羊毛は、手でほぐすとふんわりと大きく膨らんだ。
「わあ……! こんなにふわふわになるんだね!」
「ほほほ。きれいな毛だからねぇ。きっといい寝床になるよ」
エマは羊毛を手に取り、柔らかな布の上に広げた。
「おばあちゃん、ここはどうするの?」
「そこは少し厚めにしておくんだよ。赤ちゃんは柔らかいところが好きだからね」
「うん!」
ルナは針と糸を手に取り、慎重に布を縫い合わせた。
ミクはその隣で、興味津々に見つめている。
「みゅ?」
「もう少しでできるよ、ミクちゃん」
「みゅう!」
やがて、夕暮れになるころ。
「できたー!」
ルナは完成した寝床を持ち上げた。
それは小さい白い雲のようなフカフカの寝床で、縁は少し高く真ん中は柔らかくくぼんでいる。
「ほら、ミクちゃん! あなた専用の寝床だよ!」
「みゅ!」
ミクは嬉しそうに飛び込んだ。
ぽふん!小さな体が柔らかな羊毛に沈み込む。
「みゅうう……」
ミクは気持ちよさそうに目を細めた。
「ふふっ。気に入ってくれたみたい!」
エマも満足そうに頷いた。
「これなら、今夜からぐっすり眠れるねぇ」
ところが、その夜。
ルナが完成した寝床を覗くとミクの姿がなかった。
「あれ? おばあちゃん! ミクちゃんがいない!」
「おやまあ。どこへ行ったんだろうねぇ」
ルナは店の中を探し回り、洗い場、棚の下、タオルの山、どこにもいない。
「ミクちゃーん!」
そのとき、暖炉の前から低い声が聞こえた。
「……ここだ」
「……えっ?」
ルナが振り向くと、そこにはレイグが寝そべっていた。
そして、その大きな尻尾の中に小さな白い耳がぴょこんと見えており、淡い桃色の耳先が暖炉の光に照らされている。
「ミクちゃん!」
「みゅ……」
ミクは眠たそうに目を開けた。
そして、再びレイグの尻尾に顔を埋めた。
「もう! せっかく寝床を作ったのに!」
ルナは思わず笑ってしまった。
レイグは片目を開けた。
「……俺の尻尾は寝床ではない」
「でも、ミクちゃん、こっちが好きみたい」
レイグはしばらく黙っていたが、深いバリトンで呟いた。
「…………だが、今夜は冷えるからな」
レイグは尻尾を少しだけ丸め、小さなミクを優しく包み込み、ルナはその様子を見て微笑んだ。
「ふふっ。ありがとう、レイグ」
「……礼なら肉でいい」
「もう! またお肉なの!?」
エマの笑い声が、暖炉のそばに響いた。
こうして、『ルナのハサミ』に、また一つ温かな思い出が増えた。
小さな白い寝床は空っぽで、そのすぐ隣には世界でいちばん安心できる大きな灰色の尻尾があった。
(つづく)
お読みいただきありがとうございました。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひ、ブックマーク・評価・リアクションをお願いいたします。
第7話はR8.10.28に投稿します。




