第21話 冬の日だまりと、呼ばれない狼
ミルフェの町に、本格的な冬がやってきた。
東門の近くにある魔獣専門のトリミング店「ルナのハサミ」。
店先の大木「千年樹」は、枝という枝に白い雪を載せている。
◇ ◇
ルナはあの雪の日の怪我もすっかり癒え、いつもの仕事に戻っていた。
店内では、暖炉の柔らかな火が揺れ、ぱちっと、薪が小さくはぜている。
暖炉の前では、レイグが厚い敷物の上で四肢をゆったりと伸ばし、気持ちよさそうに目を閉じていた。
また、店の奥、台所の大鍋の中では根菜と肉を煮込んだスープがことこと音を立てていた。
レイグのお腹のあたりには、白くてふわふわした小さな魔獣が一匹。ミクである。
「みゅう……」
ミクはレイグの毛に顔を埋め、ぬくぬくと暖まっていた。
「二人とも、いいなあ」
ルナが羨ましそうに言うと、レイグは片目だけを開けた。
「……仕事が終われば、お前も寝ればいい」
「まだ朝だよ!」
「……朝だからこそ、寝る価値がある」
「もう。レイグったら」
ルナは笑いながら、作業台に戻った。
今日は予約が一件入っている。
久しぶりのお客さんだ。
「そうだ。ミク、今日は誰が来るか覚えてる?」
「みゅ?」
小さな白い顔が上がった。
「黒いドラゴンのクロちゃんだよ。セリナも一緒」
「みゅっ!」
ミクは嬉しそうに跳ねた。
セリナの膝の上で抱っこしてもらったことを、覚えているのかもしれない。
ルナは思い、小さく微笑んだ。
「ふふっ。楽しみだね」
ルナが手を差し伸べる。
ミクはとことこと駆け寄り、その手に前脚を載せると、はっきりと言った。
「ルナ!」
「はあい!」
ルナは満面の笑みで答えた。
あの雪の日から、ミクは少しずつ、ルナの名前を呼べるようになっていた。
覚えた言葉はまだまだ少ないものの、最初は途切れ途切れだった声も今ではずいぶん滑らかになっている。
「ルナ!」
「なあに?」
「ルナ!」
「はいはい」
「ルナ!」
「ふふふ。何回呼んでもいいよ」
暖炉の前で、レイグの右耳がぴくりと動いた。
◇ ◇
からん、からんと、昼前に入口の鈴が鳴った。
「こんにちはー!」
扉を開けたのは、旅装束に厚い外套を羽織った若い冒険者、セリナだった。
腕には、毛布にくるまれた黒い幼竜が抱かれている。
「セリナ! 久しぶり!」
「久しぶり、ルナ! 寒いわねえ!」
「早く入って。暖炉がついてるよ」
「助かるわ!」
セリナが外套についた雪を払うと、腕の中から黒い頭がひょっこり顔を出した。
「グルッ!」
「クロちゃんも、いらっしゃい!」
漆黒の鱗に、額の短い角が二本。
小さな翼を畳んだクロは、以前と変わらない琥珀色の瞳でルナを見上げていた。
「元気だった?」
「グルルッ!」
クロは嬉しそうに前脚を伸ばす。
その爪の先は、以前ルナが整えたときより、ずいぶん尖っていた。
「今日はまた、爪のお手入れ?」
「それもお願いしたいんだけど、実は翼の付け根も見てもらいたくて」
「翼?」
セリナはクロをそっと作業台に載せた。
「寒くなってから、ここをよく掻くの。鱗の間が乾燥しているみたいで」
ルナは小さく頷いた。
「そっか。じゃあ、よく見てみようね」
クロの翼を無理に広げず、付け根のあたりをそっと確かめると、細かな鱗の縁が少し白っぽくなっていた。
「うん。乾いているところがあるね。でも、赤くなったり、傷ができたりはしてないみたい」
「よかった」
「今日は汚れを落として、クロちゃんの鱗に合う油を薄く塗ってみるね。しばらく様子を見て、痒がるのが続いたら魔獣を診られる先生にも相談してね」
「分かったわ。お願いするね」
ルナは小さな陶器の器を取り出した。
中にはエマと一緒に作った淡い金色の冬用の手入れ油が入っていた。
「まずは、柔らかい布で拭こうね」
「グル」
クロはおとなしく頷くように頭を下げた。
以前は水を見るだけで震えていた幼竜が、今ではルナの手を信頼している。
セリナが嬉しそうに微笑んだ。
「本当に、ここに来ると安心するみたい」
「私も嬉しいな」
そのときだった。
「みゅっ!」
足元から、元気な声が聞こえた。
ミクが、クロを見上げていた。
「グルッ!」
クロも嬉しそうに鳴く。
ルナは笑った。
「ミク、クロちゃんに会えて嬉しいんだね」
「ルナ!」
「うん?」
「ルナ!」
「はいはい、ここにいるよ」
セリナの手が止まった。
「……え?」
「どうしたの?」
「今、ミクちゃん……」
「ルナ!」
セリナは目を丸くした。
「喋った!?」
「あっ、そうなの!」
ルナは嬉しそうに頷いた。
「少し前から、私の名前を呼べるようになったんだ」
「すごい! すごいじゃない!」
セリナがしゃがむと、ミクは胸を張るように小さな顔を上げた。
「ルナ!」
「ふふふ。上手ねえ!」
「みゅっ!」
褒められたのが分かったらしい。
ミクは尻尾をふりふりと揺らした。
暖炉の前で、レイグの右耳がぴくり。
少し遅れて、左耳もぴくり。
ルナはその様子に気づいたが、何も言わなかった。
◇ ◇
クロの翼の手入れは、順調に進んだ。
ルナは布にほんの少しだけ油を含ませ、鱗の並びに沿って優しく拭いていく。
「くすぐったくない?」
「グルル……」
クロは目を細めた。
「大丈夫そうだね」
「前はあんなに怖がりだったのにねえ」
セリナが感慨深そうに言った。
「初めて来たときなんて、ルナの前髪を焦がしちゃったもの」
「あはは。あったね、そんなこと!」
「今じゃ、すっかりお得意さんね」
「うん!」
やがて翼の手入れが終わると、ルナは爪の先も丁寧に整えた。
しゃり、しゃりと、やすりの小さな音が暖炉の薪のはぜる音に混じる。
作業を終えるまで、クロは一度も暴れなかった。
「はい、おしまい!」
「グルッ!」
「よく頑張ったね」
ルナが頭を撫でると、クロは得意そうに胸を張った。
その鼻先から、ぽわん、と小さな煙の輪が浮かんだ。
「あっ! 懐かしい!」
ルナが声を上げる。
「初めて来たときも、それやってくれたよね!」
「グルルッ!」
クロはますます得意げだった。
そこへ、奥からエマが顔を出した。
「おや、終わったのかい?」
「うん、おばあちゃん!」
「それなら、温かいお茶でも飲んでおいき」
「ありがとうございます!」
セリナが笑顔で答えた。
エマが茶器を並べ始めると、ミクがとことこと近づいていった。
「みゅ」
「なんだい、ミク。いい匂いがするかい?」
「みゅう」
「ほほほ。お前さんの分も、あとで用意してあげるよ」
ミクはエマの顔をじっと見上げた。
そして、小さな口を開いた。
「……え」
「ん?」
「……え、ま」
エマの手が止まった。
「……おや?」
ルナも振り返った。
「ミク?」
「……エマ!」
しん、と店の中が静かになった。
次の瞬間。
「おばあちゃん! 今、エマって!」
「聞こえたよ! 聞こえたとも!」
エマは目を丸くしたまま、しゃがみ込んだ。
「もう一回、呼んでくれるかい?」
「エマ!」
「……まあ、まあ!」
エマの顔が、くしゃりとほころんだ。
「嬉しいねえ。あたしの名前も覚えてくれたのかい」
「エマ!」
「はいはい、ここにいるよ」
ルナもセリナも笑っていた。
クロは何が起きたのか分からないらしく、不思議そうに首を傾げている。
「グル?」
「ふふふ。クロちゃん、ミクがまた一つ言葉を覚えたんだよ」
少し離れたところで、ぴくっとレイグの右耳が動いた。
ぴくぴくっ。
今度は左耳。
そして、尻尾の先が一度だけ、ぱたんと敷物を叩いた。
ルナは口元を押さえた。
「……ふふっ」
セリナが振り返る。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもないよ」
レイグは目を閉じたままだった。
ただし、その耳は、しばらく落ち着かなかった。
◇ ◇
午後になると雪は止んだ。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
セリナが外套を羽織り直した。
「今日はありがとう、ルナ」
「こちらこそ! クロちゃん、また来てね」
「グルッ!」
クロはセリナの腕の中から、小さな前脚を上げた。
ミクも負けじと前脚を上げる。
「みゅっ!」
「ふふふ。また遊ぼうね、ミクちゃん」
「ルナ!」
「それは私の名前だよ」
ルナが笑うと、セリナも吹き出した。
「まだまだ覚えることがいっぱいね」
「うん。ゆっくりでいいんだ」
セリナは頷き、クロを毛布で包み直した。
「それじゃ、またね!」
からん、からん。
入口の鈴が鳴り、冷たい外気が一瞬だけ店に流れ込んだ。
扉が閉まる。
静けさが戻った。
ルナは作業台を片づけ、エマは茶器を運び始めた。
ミクは暖炉の前に戻り、レイグの鼻先にちょこんと座った。
「みゅ!」
レイグは片目を開けた。
「…………」
ミクは首を傾げる。
「みゅ?」
「……ルナ」
「なあに、レイグ?」
ルナが振り返った。
レイグは少し間を置いてから言った。
「……ひとつ確認したい」
「うん?」
「俺の名前は、そんなに難しいのか?」
「……え?」
「ルナは二文字。エマも二文字。レイグは三文字だ」
ルナはしばらくレイグを見つめた。
「………ぷっ!」
とうとう吹き出した。
「レイグ! やっぱり気にしてたんだ!」
「……何のことだ」
「だって、ずっと耳がぴくぴくしてたよ!」
「……寒かっただけだ」
「暖炉の真ん前にいたのに?」
「…………」
エマまで笑い始めた。
「ほほほ。なるほどねえ。自分の名前も呼んでほしかったのかい」
「……馬鹿を言うな」
レイグはふいっと顔を背けた。
「言語習得に関する、純粋な疑問だ」
「はいはい」
ルナは笑いをこらえながら、ミクを抱き上げた。
「じゃあ、教えてあげようよ」
「……何を」
「レイグの名前!」
「…………」
ミクはルナの腕の中で、きょとんとしている。
「ほら、ミク。レイグだよ」
「みゅ?」
「レ・イ・グ」
「みゅう」
「レイグ!」
「ルナ!」
「そっちじゃないよ!」
エマが腹を抱えて笑った。
レイグは深いため息をつく。
「……貸せ」
「え?」
「俺が教える」
ルナはミクを敷物の上に下ろした。
レイグは大きな頭を下げ、小さなミクと目を合わせる。
「……よく聞け」
「みゅ」
「レイグだ」
「みゅ!」
「……レ・イ・グ」
「……る、な!」
「…………」
レイグの両耳が、しゅん、と前に垂れた。
先ほどまでの威厳は、どこへやら。
「……ふう」
鼻先から、小さなため息が漏れた。
ルナは両手で口を押さえ、肩をぷるぷる震わせている。
「……笑うな」
「わ、笑ってないよ……!」
「……肩が動いている」
「だって……ふふっ!」
エマは涙を拭いながら言った。
「そんなに急がなくてもいいじゃないか。ミクは、ついこの間まで『みゅ』しか言えなかったんだよ」
「……分かっている」
「そのうち、きっと呼んでくれるさ」
「……別に、呼ばれなくても構わん」
レイグはそう言って、暖炉の前に寝そべり直した。
尻尾の先だけが、少し不機嫌そうに揺れていた。
◇ ◇
夕暮れ時、窓の外では白く積もった雪が薄桃色の夕日を受けて輝いている。
店の中には、煮込み料理のいい匂いが満ちていた。
ルナが洗い終えた道具を棚に戻した時、エマが台所から声をかける。
「お疲れさん。もう少しで夕飯だよ」
「はあい!」
ルナは暖炉の前を覗いた。
レイグは、いつもの場所で目を閉じている。
その背中には、白い小さな塊がちょこんと載っていた。
ミクである。
ふかふかした灰色の毛に体を埋め、すっかり眠ってしまっていた。
「……あれ?」
ルナは小声で尋ねた。
「ミク、そこで寝ちゃったの?」
「……そうらしい」
レイグも小声で答えた。
「降ろしてあげようか?」
「……いや」
「でも、重くない?」
「……この程度、重さのうちに入らん」
レイグは目を閉じたまま、身じろぎもしなかった。
ルナはそっと笑った。
「レイグって、ミクに甘いよね」
「……そうでもない」
「ふふふ」
ミクが寝返りを打った。
「……みゅう……」
小さな前脚が、レイグの毛をきゅっとつかむ。
レイグはほんの少しだけ耳を動かした。
けれど、体は動かさなかった。
「ねえ、レイグ」
「……なんだ」
「ミクはまだ、レイグって呼べないけどさ」
「…………」
「きっと、レイグのことが大好きなんだよ」
レイグは答えなかった。
ルナは続けた。
「だって、こんなに安心して眠ってるんだもの」
暖炉の火が、ぱちりとはぜた。
レイグの背中で、ミクが小さく寝息を立てている。
しばらくして、レイグは静かに言った。
「……そんなことは、最初から知っている」
「うん」
「……名前など、呼べなくても構わん」
「そっか」
ルナは微笑んだ。
「じゃあ、ミクが起きるまで、そのままでいてあげてね」
「……仕方あるまい」
レイグは静かに息を吐き、背中のミクを起こさないよう、じっとしていた。
尻尾の先が、今度は満足そうに一度だけ揺れた。
台所から、エマの声がする。
「ルナ、夕飯だよ!」
「はあい!」
ルナは立ち上がりかけて、もう一度レイグを振り返った。
「レイグも、ご飯できたって!」
「…………」
「今日はお肉、多めだって!」
レイグの両耳が、ぴんっと立った。
だが、背中のミクは眠ったままだ。
レイグは、しばし動かなかった。
「……ルナ」
「なあに?」
「……肉は、逃げんだろうな」
ルナはとうとう声を上げて笑った。
「大丈夫! ちゃんと取っておくよ!」
「……ならば、問題ない」
レイグは安心したように、小さく鼻を鳴らした。
背中には、安心しきった小さな寝息。
目の前には、温かな暖炉。
そして、少し離れた食卓には、家族の夕飯が待っている。
レイグは今日も小さな家族の寝床になっていた。
外では、雪を載せた「千年樹」の枝が、冬の風に静かに揺れていた。
(つづく)
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