第20話 はじめて呼んだ名前
ざああああっ!
沢の水が巨大な壁となって立ち上がっていた。
青白い光を帯びた水の壁は、冬の森に不思議な輝きを放っている。
雪ヒョウは、その場に立ち尽くしていた。
つい先ほどまで獲物を求めて跳びかかっていたことも忘れたように、雪ヒョウは目の前の光景を見つめていた。
その瞳には明らかな驚きと警戒が浮かんでいた。
「……お前、魔法を……?」
レイグもまた、呆然としていた。
小さな白い魔獣。ついこの間、雨の夜に拾ってきたばかりの幼獣が、これほどの魔法を使うとは。
しかし、今は驚いている場合ではないと考え、レイグは雪ヒョウへ視線を戻した。
濡れた毛が体に張りつき、痩せた腹が露わになっており、その腹の下には張った乳房が見えた。
「……そういうことか」
レイグは小さく呟いた。
この雪ヒョウには、まだ幼い子供がいる。
しかも、あの痩せ方だと自分だけでなく子供たちにも十分な食事を与えられていないのだろう。
雪ヒョウは水の壁を見つめたまま、低く唸っていた。
レイグは倒れているルナを見たが、目を覚ます気配はなかった。
このまま睨み合っている時間はない。
日が暮れれば森の冷え込みはさらに厳しくなるので、ルナを早く安全な場所へ運ばなければならない。
レイグはふと、ルナの傍らに転がっている籠へ目を向けた。
あの中にはエマが持たせてくれた昼飯がある。
そして、自分のための干し肉も。
「…………」
レイグはしばらく籠を見つめた。
朝から楽しみにしていた干し肉だったが、雪ウサギの親子を助けたせいで食べ損ねてしまった。
「……まったく」
レイグは小さく息を吐いた。
「俺の昼飯は、どうしてこうも遠いんだ」
そして、ミクへ声をかけた。
「ミク。少しだけ、その壁を頼む」
「……みゅ」
ミクはルナの前に立ったまま、小さく鳴いた。
青白い光は、まだその体を包んでいる。
レイグは雪ヒョウから目を離さず、籠へ近づいた。
鼻先で布包みを探り、器用に口で引っ張り出す。
中には、香ばしい匂いのする干し肉が入っていた。
レイグはそれをくわえ、水の壁の手前まで運び、地面にそっと置く。
「……持っていけ」
雪ヒョウの耳が、ぴくりと動いた。
「子供が待っているんだろう? それに俺たちはお前と争いたいわけじゃない」
「それを持って帰れ。俺たちは、ここから立ち去る」
レイグは干し肉から離れ、ルナの前へ戻った。
雪ヒョウは干し肉へ視線を落とし、しばらく動かなかった。
やがて、ミクを包んでいた青白い光が少しずつ薄れていった。
水の壁も、ゆっくりと高さを失っていく。
ざあ……。
最後の水が沢へ戻り、森に静けさが訪れた。
雪ヒョウは慎重に一歩を踏み出した。
レイグは動かないし、ミクもルナのそばでじっとしていた。
雪ヒョウは、干し肉に鼻先を近づけ匂いを確かめてから口にくわえた。
立ち去る前に、金色の瞳が一度だけ灰色の狼を捉えた。
雪ヒョウは身を翻した。
レイグは、その様子を黙って見守っていた。
やがて雪ヒョウは森の奥へと消えていった。
「……やはり、子供が待っているのか」
レイグは静かに呟いた。
◇ ◇
森の奥。
倒木の根元にある小さな巣穴では、二頭の子雪ヒョウが母親の帰りを待っていた。
幼い二頭は、互いの体を寄せ合い空腹に耐えている。
やがて、巣穴の入り口に白銀色の影が現れた。
「……みゃあ」
母親は干し肉を地面に置き、二頭の顔を順番に舐めた。
小さな二頭は母親に身を寄せ、それから干し肉へ鼻先を近づけた。
冬を越えるには、まだ多くの食べ物が必要だろう。
けれど、少なくとも今夜は、空腹を少し和らげることができそうだった。
◇ ◇
「……ルナ」
雪ヒョウが去ったあと、レイグは倒れている少女へ駆け寄り、鼻先を口元へ近づける。
温かな息が触れた。呼吸はあるが頬は冷たくなり始めていた。
「……こんなところで寝ている場合じゃないぞ」
レイグはルナの頭や首を不用意に動かさないよう気をつけながら、背中側へ身を寄せた。
灰色の厚い毛皮で冷たい風を遮り、少しでも体温を守ろうとした。
「みゅ……」
ミクもルナの顔へ近づき、小さな前脚を持ち上げる。
ぺし、ぺし。
柔らかな肉球が、ルナの頬に触れた。
「みゅっ。みゅっ」
返事はない。
ミクはもう一度、前脚を持ち上げた。
ぺし……ぺし……。
先ほどより、ずっと弱い。
初めての魔法で、小さな体は疲れ切っていた。
「……ミク」
レイグが静かに呼んだ。
「よく頑張ったな。少し休め」
けれど、ミクは首を横に振った。
ルナの頬に鼻先を押しつける。
「……みゅう」
レイグは何も言わなかった。
ただ、二人を包むように体を寄せた。
沢の水音が聞こえ、風が木々を揺らしている。
すっかり日は傾き、森の影が長く伸びていた。
「……ルナ。聞こえるか」
レイグはもう一度、呼びかけたが、返事はなかった。
「エマが待っているぞ。あの婆さんを心配させるな」
いつもなら、ルナは笑って言い返すだろう。
「レイグ、おばあちゃんに失礼だよ」と。
けれど、今は何も聞こえない。
レイグは金色の瞳を伏せた。
「……頼む。目を覚ましてくれ」
ミクは、そんなレイグを見上げた。
そして、もう一度ルナへ顔を向けた。
「……みゅ」
小さな前脚が持ち上がる。
ぺし。
「……みゅう」
ぺし……。
その動きは、とうとう止まった。
ミクはルナの頬に顔を寄せたまま、じっとしていた。
しばらくして、小さな口がかすかに開いた。
「……る……」
レイグの耳が、ぴくりと動いた。
「……ん?」
ミクはルナを見つめていた。
「……ル……ナ……」
レイグは息を呑んだ。
聞き間違いかと思った。
だが、ミクはもう一度、声を絞り出した。
「……ルナ……」
その声は、沢の水音に消えてしまいそうなほど小さかった。
けれど、ルナには届いていた。深い、深い眠りの底。
そこには光もなく、音もなく、ただ静かな闇が広がっていた。
どれほど眠っていたのだろう。
自分がどこにいるのかも、どうしてここにいるのかも分からない。
ただ、体が重かった。手を伸ばそうとしても、指先ひとつ動かせない。
そんな闇の向こうから、かすかな声が聞こえた。
「……ルナ……」
誰だろう。
私を呼んでいるのは。
聞き慣れない声だった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
むしろ、その声を聞いていると、胸の奥がほんのり温かくなる。
「……ルナ……」
また、呼ばれた。その声には、どこか必死な響きがあった。
まるで、迷子になった小さな子供が、大好きな人を探しているような。
ルナは思い出そうとした。この声を、どこかで聞いたことがあるだろうか。
違う。
声は知らない。
でも、この温かさは知っている。
朝、目を覚ますと頬に触れてくる、小さな鼻先。
仕事の合間に膝へ飛び乗ってくる、ふわふわの白い毛。
抱き上げると嬉しそうに揺れる、淡い桃色の耳先。
そして、いつも自分を見上げている、あの愛らしい瞳。
「……ルナ……ルナ……」
ああ。
そうか。
あなたなのね。
どうして、そんなに悲しそうな声で呼ぶの?
大丈夫よ。
私はここにいるから。
待っていて。
今、そっちへ行くから。
ルナは、その声を追いかけるように、ゆっくりと意識を浮かび上がらせた。
そして――。
「……ミク?」
閉じていた瞼が、かすかに開いた。
目の前には、潤んだ瞳で自分を見つめる、小さな白い魔獣がいた。
「……ルナ!」
ミクは最後の力を振り絞って呼んだ。
ルナは、ぼんやりとその顔を見つめた。
「……今……私の名前……?」
ミクは答える代わりに、ルナの頬へ顔を押しつけた。
「みゅう……」
ルナの目尻から、ひと筋の涙がこぼれた。
「……ありがとう、ミク」
震える指先で、ミクの小さな背中を撫でる。
「……心配かけちゃったね」
ミクは顔を上げた。
「みゅ……」
そして、もう一度ルナの頬に鼻先を押しつけた。
レイグは二人を見つめていた。
何も言わなかった。
ただ、灰色の大きな体を少しだけ寄せ、二人を温め続けた。
◇ ◇
ルナが十分に受け答えできるようになるまで、レイグはその場を動かなかった。
ルナはまだ少し頭が痛むようで、時折眉をひそめた。
「……私、落ちたんだよね」
「ああ。頭も打ったらしい。無理に起きるな」
「ミクは……怪我してない?」
「無事だ。お前を守って、ずいぶん頑張った」
「……そっか」
ルナは胸元に寄り添うミクを見つめた。
「ありがとうね」
「みゅ」
ミクは小さく鳴いた。
レイグは森の斜面を見上げた。
帰り道は、来たときより慎重に選ばなければならない。
ルナを無理に歩かせるわけにはいかなかった。
「……俺の背に乗れ。ゆっくり帰るぞ」
レイグは体を低くし、ルナが首を大きく動かさずに済むよう気を配りながら背中へ乗せた。
ミクはルナの腕の中に収まった。
「……レイグ」
「何だ」
「ありがとう」
「……礼は帰ってからにしろ」
レイグは静かに歩き始めた。
木々の間から、夕暮れの光が差し込んでいる。
ルナはミクをそっと抱き寄せた。
「……ミク」
「みゅ?」
「さっき、私の名前を呼んでくれたよね」
ミクは小首を傾げた。
「みゅ」
ルナは微笑んだ。
「うん。今はそれでいいよ」
柔らかな白い毛に、頬を寄せる。
「また、いつか聞かせてね」
ミクは嬉しそうに、耳先をぴくぴくと動かした。
◇ ◇
『ルナのハサミ』の前に立つ大木が、夕暮れの空に黒い枝を伸ばしていた。
店の窓からは、温かな灯りが漏れている。
エマは、ルナの帰りが遅く心配していた。
その時、
「……ただいま」
ルナの声に、扉が勢いよく開いた。
「ルナ!」
エマだった。
「こんな時間まで何をしていたんだい! 心配したじゃないか!」
だが、レイグの背に乗るルナの姿を見ると、表情が変わった。
「……何があったんだい?」
「おばあちゃん……ちょっと、斜面から落ちちゃって」
「ちょっと、じゃないだろう!」
エマはすぐにルナを家の中へ迎え入れた。
ルナをベッドに寝かせ、頭や手足の状態を確かめる。
「頭を打って気を失ったのかい?」
「……うん」
「それは軽く考えちゃいけないよ。今夜は目を離さない。町の治療師にも診てもらおう」
ルナは申し訳なさそうに頷いた。
「……ごめんなさい」
「謝るより、まずは元気になることだよ」
エマはルナの額へそっと手を当てた。
「無事に帰ってきてくれて、本当によかった」
ルナは目を潤ませた。
「……うん」
ベッドのそばではミクが丸くなり、小さな寝息を立てている。
疲れ果てたようだ。
エマはミクの小さい背中を優しく撫でた。
「この子も、よく頑張ったんだねぇ」
「……うん。すごく頑張ってくれたの」
ルナはミクを見つめた。
「おばあちゃん。ミクがね……」
少しだけ声を詰まらせる。
「私の名前を、呼んでくれたんだよ」
エマは目を丸くした。
「……人の言葉でかい?」
「うん。何度も、何度も」
エマは眠っているミクを見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……そうかい」
それ以上は、何も言わず、ミクの頭をもう一度優しく撫でた。
「……ねえ、おばあちゃん」
「何だい?」
「ミクにも、何か美味しいものをあげてほしいな」
ルナは眠っているミクを見つめた。
「私を守るために、いっぱい頑張ってくれたから」
エマは優しく頷いた。
「もちろんさ。あの子が目を覚ましたら、とびきり美味しいものを用意してあげようね」
「……ありがとう、おばあちゃん」
ミクは二人の会話も知らず、すやすやと眠っていた。
その小さな耳先が、夢の中で何かを聞いたように、ぴくりと動いた。
◇ ◇
その夜、ルナが休んでいる部屋から少し離れた台所で、レイグが静かに座っていた。
エマは鍋を火にかけながら、レイグへ声をかけた。
「……それにしても、よくルナを連れて帰ってくれたね」
「……まあな」
「ありがとうよ、レイグ」
レイグは少しだけ耳を動かした。
「……当然のことをしたまでだ」
エマは微笑んだ。
「それで、あんたは昼飯を食べられたのかい?」
レイグはしばらく黙っていた。
そして、ぼそりと答えた。
「……俺の干し肉は、雪ヒョウに食われた」
「雪ヒョウ?」
「……子供がいる母親だった。腹を空かせていたから、くれてやった」
エマは目を細めた。
「ほほほ。それじゃあ、今夜は特別に二枚あげようかね」
レイグの耳が、ぴんと立った。
「……三枚でも構わんぞ」
「まったく、欲張りだねぇ」
エマは呆れたように笑った。
「……まあ、いいさ。今晩は特別にね」
レイグは一瞬、目を丸くした。
それから、何事もなかったように鼻を鳴らした。
「……ふん。話の分かる婆さんだ」
だが、その尻尾は、嬉しそうに左右へ揺れていた。
エマの笑い声が、温かな台所に響いた。
窓の外では、冷たい風が大木の枝を揺らしているが、『ルナのハサミ』の中には、変わらない温もりがあった。
(つづく)
お読みいただき、どうもありがとうございました。
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