第19話 小さな守り手
冷たい沢の水が、岩の間を流れていた。
その沢から少し離れた場所に、一人の少女が倒れていた。
ルナだった。
斜面を滑り落ちる途中、突き出た木の根に頭をぶつけ、そのまま意識を失ってしまっていた。
幸い、落ち葉の厚く積もった場所に倒れたため目立った傷はなかったが、閉じた瞼が開く気配はない。
傍らには、採集用の籠が転がっていた。
籠の中から、布に包まれたパンと干し肉、それに降雪草の実を入れた小袋が覗いている。
ざざっと、斜面の上から小さな物音が聞こえた。
続いて、丸いものが落ち葉の上をコロコロと転がってくる。
頭から尻尾まで枯れ葉だらけになっているミクだった。
ミクはふるふると体を震わせ毛についた葉を払い落とし、辺りを見回した。
「みゅ……?」
ルナの姿が見えない。
ミクは鼻先を地面へ近づけ、匂いを確かめた。
落ち葉の匂い、湿った土の匂い、沢の水の匂い、その中によく知っている優しい匂いがあった。
「みゅっ!」
ミクが顔を上げると、少し先に見慣れた上着が見えた。
「みゅうっ!」
短い脚を懸命に動かし、ルナのもとへ駆け寄った。
ルナは、横向きに倒れ静かに目を閉じていた。
「みゅ?」
ミクはルナの顔を覗き込んだが返事がない。
鼻先で頬をつついてみる。
「みゅっ」
それでも、ルナは動かず、ミクは小さな前脚の柔らかな肉球でルナの頬をぺちぺちと叩いた。
「みゅ! みゅっ!」
いつもなら笑ってくれ、名前を呼んで抱き上げてくれるが、今は何も起こらなかった。
どうして目を開けてくれないのだろう……ミクには分からなかった。
「みゅう……みゅう……」
何度も呼びかけた。
小さな舌で頬を舐め、上着の袖を引っ張ったが、ルナは目を覚まさない。
ミクはどうしたら良いものか分からなくなり、とうとうルナの首元へ顔を埋めた。
沢の水音だけが、静かな森に響いていた。
◇ ◇
がさりと、不意に茂みの奥で枝が揺れた。
ミクが顔を上げると、また音がした。
「みゅ?」
今度は、枯れ枝を踏み折る低い音がした。
ルナが斜面を滑り落ちたときの大きな物音は森の奥まで響き、それを聞きつけたものがいたのだ。
茂みの間から、雪ヒョウ型の魔獣が現れた。
丸みのある耳、淡い金色の瞳、黒い斑点の散った美しい毛並み。
四肢にはしなやかな筋肉がついていて、長い尾をゆっくり揺らしていた。
「……みゅ」
ミクは恐怖でぴたりと固まった。
雪ヒョウは、ミクと倒れているルナを見て鼻をひくひくと動かした。
腹の辺りは少し痩せ、目には空腹の色が浮かんでいた。
冬を前に森の獲物は少なくなっていたので、しばらく十分な食事にありつけていなかったのだろう。
獲物だと判断して、雪ヒョウが一歩、一歩と近づいた。
◇ ◇
ミクは思わず後ずさった。
大きな前脚や口元から覗く鋭い牙を見て、恐怖を感じたのだ。
雪ヒョウはもう一歩、近づいた。
ミクはルナを振り返ったが、ルナはまだ目を閉じている。
逃げれば、自分だけは助かるかもしれない。
けれど、ルナはどうなるのだろう。
ミクは小さく身を震わせ、ルナの前へ歩み出た。
短い四本の脚を踏ん張り、背中の毛を精いっぱい膨らませた。
「みゅううっ!」
雪ヒョウが足を止め、目の前の小さな白い生き物を不思議そうに見下ろしている。
ミクは逃げずに、再び、力いっぱい鳴き叫んだ。
「みゅうううっ!」
雪ヒョウの耳が、わずかに後ろへ倒れ、低い唸り声が漏れる。
「グルルル……」
ミクはびくりと震えたが、ルナの前から動かなかった。
雪ヒョウが、再び、前足を踏み出して、近づこうとした。
◇ ◇
ザザザザッ!!
落ち葉を蹴散らし、レイグがミクと雪ヒョウの間へ割って入った。
そして、鋭い牙を剥き背中の毛を逆立てた。
「グルルルルッ!」
雪ヒョウが素早く後ろへ跳んだ。
「……ふん。間に合ったか」
レイグは雪ヒョウを見て、低く呟いた。
「ミク、ルナのそばにいろ」
「みゅっ!」
ミクは急いでルナの胸元へ戻るも、ルナは意識がないままだった。
「ルナ! 起きろ!」
ルナの状態を詳しく確かめたいが、目の前の雪ヒョウがそれを許してくれそうになかった。
「悪いが、ここを通すわけにはいかん」
雪ヒョウは低く唸った。
「グルル……」
レイグは前脚を一歩踏み出した。
雪ヒョウも体を低くする。
しばらく、二頭は互いを睨み合った。
冷たい風が吹き抜け、落ち葉が二頭の間を舞った。
先に動いたのは雪ヒョウだった。
雪ヒョウは横へ素早く跳び、レイグの脇を抜けようとする。
「させるか!」
レイグは体をひねり、その行く手を塞いだ。
雪ヒョウはすぐに引き返して反対側へ回り込み、レイグも後を追った。
雪ヒョウの動きは速く、岩の上へ跳び、倒木を足場にして、次々と位置を変える。
その瞳には、獲物を狙う鋭さとともに、どこか切羽詰まったものが宿っていた。
森の奥には、まだ幼い二頭の子供が待っているが、もう何日も子供たちに十分な食事を与えられていない。
今朝、巣穴を出るときも、小さな二頭は空腹を訴えて鳴いていた。
このままでは、飢えて死んでしまう。
だから、引き下がるわけにはいかなかった。
◇ ◇
レイグは大きな体で進路を塞ぎながら、必死にルナとの距離を保った。
「……ちっ。すばしこい奴だ」
雪ヒョウは、子供たちを飢えから救いたい。
レイグは、ルナとミクを守りたい。
それぞれに譲れないものがあった。
「みゅ……」
ミクはルナに寄り添いながら、二頭の動きを見つめていた。
レイグがいる。いつも頼りになるレイグ。
けれど、そのレイグでさえ、雪ヒョウを簡単には追い払えない。
ミクはルナの上着をぎゅっと掴んだが、ルナはまだ目を覚まさなかった。
◇ ◇
雪ヒョウは、倒木の上で動きを止めた。
レイグも少し離れた場所で身構える。
互いの息が、白く漂っていた。
「……いい加減、諦めろ」
レイグは低く唸るが、雪ヒョウは動かない。
その視線は、レイグの背後へ向けられていた。
倒れているルナ。そして、そのそばにいるミク。
雪ヒョウの長い尾が、ゆっくりと左右に揺れた。
レイグはその動きを見逃さなかった。
「……来るか」
次の瞬間、雪ヒョウが倒木を蹴った。
レイグの正面ではなく、斜め上から大きく弧を描くように跳んだのだ。
「しまった!」
レイグは咄嗟に身をひねったが、雪ヒョウはその頭上を越えていく。
狙いはルナとミクだった。
「逃げろっっ!」
レイグが叫んだ。
ミクは顔を上げた。
空から、大きな白銀色の影が迫ってくる。
鋭い爪、大きく開いた口、金色の瞳。
ミクの体が恐怖で震えた。
逃げたい。怖い。
けれどミクはルナを見た。
いつも抱きしめてくれる人。
温かな手で、優しく撫でてくれる人。
寒い夜には、自分を毛布で包んでくれる人。
そして、ついさっき、自分を助けるために危険な斜面へ落ちてしまった人。
ミクはルナの前に立ち、小さな体を精いっぱい大きく見せる。
「……みゅ」
レイグが駆け出すが、間に合わない。
ミクは目を閉じなかった。
ただ、強く願った。
ルナを守りたい!
もう一度、あの優しい笑顔が見たい!
もう一度、抱きしめてほしい!
「みゅううううっ!!」
その瞬間だった。
ミクの小さな体が淡い青白い光に包まれ、沢の水面が突然大きく波打った。
ごぼっ。
岩の間を流れていた水が、不自然に盛り上がる。
ごぼごぼごぼっ!
水はまるで生き物のようにうねり、空へ向かって立ち上がった。
「なっ……!?」
レイグが目を見開いた。
沢の水が、巨大な透明の壁となって、ミクと雪ヒョウの間へ割って入ったのだ。
ざああああっ!
轟音が森を揺らした。
雪ヒョウは空中で身をよじったが、その勢いを止めることはできない。
水の壁に触れた瞬間、大きな水しぶきが上がった。
雪ヒョウは跳ね返されるように地面に着地し、濡れた毛を逆立てて後ずさった。
「グルルッ……!」
ミクはルナの前に立ったまま、震えていた。
青白い光が、小さな体を包んでいる。
レイグは、目の前の光景を信じられずにいた。
「……ミク?」
水の壁は、なおも高くそびえ、きらきらと輝いている。
レイグはゆっくりと呟いた。
「……お前、魔法を……?」
ミクは小さな声で鳴いた。
「……みゅ」
その声に応えるように、水の壁がもう一度、大きく揺れた。
(つづく)
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