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第2話 泣き虫ドラゴンのお風呂大作戦!

 ミルフェの町の東門近くにある、小さな魔獣トリミング屋『ルナのハサミ』。

 その店先に立つ「千年樹」と呼ばれる木の下では、大きな灰色の狼が気持ちよさそうに眠っていた。

 「レイグ、おはよう!」

 「ワフ……」

 店の扉を開けたルナ・ベルティアは、狼の頭を優しく撫でた。

 先日、泥と枯れ葉だらけだった毛並みは、今ではふんわりと柔らかい。

 ほのかに残る草花の石鹸の香りが、朝の風に乗って漂ってきた。

 「今日もここでお昼寝するの?」

 「ワフ」

 「ふふっ。すっかり気に入っちゃったんだね」

 「ワフッ!」(肉をくれ)

 「ええっ! レイグ、朝からお肉が欲しいの?」

 「ワフン!」(当然だ)

 ルナは笑いながら店に戻り、レイグにお肉をあげた。


 昨日の夕方に少し変わった予約が入ったので、今日は朝から温かなお湯をたっぷり用意して、小さな魔獣用の木桶も磨き、柔らかなタオルも何枚か並べていた。

 「ルナや、お湯の温度は確かめたかい?」

 二階から降りてきたエマが声をかけた。

 「うん! ちゃんと手で確かめたよ!」

 「よろしい。けれど、今日のお客さんには、いつもの石鹸をすぐ使わないようにね」

 「えっ、どうして?」

 「ドラゴンの鱗は犬や狼の毛とは違うからさ。まずは肌の様子を見てごらん」

 「そっか。気をつけるね!」

 ルナが元気よく返事をした、そのときだった。

 からん、からん。

 入口の小さな鐘が鳴った。

 「いらっしゃいませ!」

 扉の向こうに立っていたのは、旅装束の若い女性だった。

 肩には革の鞄を掛け、腕には厚手の布を抱えている。

 「昨日、予約した者です。こちらでよろしいでしょうか?」

 「はい! お待ちしていました!」

 ルナは笑顔で迎えた。

 女性の名前はセリナ。

 話を聞けば、町の外で薬草採集や護衛の仕事をしている冒険者だという。

 「それで、今日のお客様は……」

 「この子なんです」

 セリナが腕に抱える厚手の布をそっと開くと、そこから、ぴょんと小さな黒い頭が出てきた。

 つやのある漆黒の鱗で、額には短い角が二本、背中にはまだ頼りない小さな翼が畳まれている。

 大きな琥珀色の瞳が、ルナをじっと見つめていた。

 「わ、わあ、まだ赤ちゃんなのね」

 「はい。そうなんです」

 ドラゴンといえば、冒険者たちが恐れる強大な魔獣であり、どんなに小さくても、鋭い爪と牙を持っている。

 しかも、黒い鱗のドラゴンなど、ルナは初めてである。

 事前にドラゴンが来ることは知っていたものの、緊張してしまうものである。

 「名前はクロです」

 「クロ……ちゃん?」

 「男の子ですよ」

 「そ、そうなんですね」

 ルナは恐る恐る顔を近づけた。

 すると、クロの体がびくりと震えた。

 「きゅうっ!」

 ぼふっ!

 小さな炎が鼻先から飛び出した。

 「ひゃあっ!」

 ルナは慌てて飛び退いた。

 クロも驚いたらしく、セリナの胸に顔を埋めてしまった。

 「ご、ごめんなさい!」

 セリナが慌てて謝る。

 「大丈夫です! ちょっとびっくりしただけで……」

 ルナは前髪をそっと触った。

 毛先がほんの少し縮れている。

 「……あれ?」

 恐る恐る布の中をのぞくと、クロが小さく震えていた。

 琥珀色の瞳には、涙がいっぱい溜まっている。

 「もしかして……あなたも怖かったの?」

 「きゅぅ……」

 か細い声が返ってきた。

 ルナは思わず微笑んだ。

 「そっか。お互い、びっくりしちゃったね」

 そう言うと、クロの瞳を見つめたまま、少し離れた椅子に腰を下ろした。

 「無理に近づかないからね。ゆっくりしていって」

 クロは布の隙間から、ちらりとルナを見た。

 けれど、すぐに顔を隠してしまった。

 「実は、この子、お風呂が大嫌いなんです」

 セリナが困ったように笑った。

 「森で助けてから一緒に暮らしているんですが、泥だらけになっても洗わせてくれなくて」

 「そうなんですか」

 「水桶を見ただけで火を噴くので、宿屋の人にも叱られてしまって……」

 ルナはクロを見つめた。

 確かに、黒い鱗の隙間には泥がこびりつき、翼の付け根には小枝が付着している。

 また、小さな前脚も、すっかり汚れていた。

 「クロ、体がかゆくない?」

 「……きゅ」

 クロは前脚で首のあたりを掻いた。

 その仕草を見て、ルナは頷いた。

 「うん。やっぱりきれいにしてあげたいね」

 けれど、クロは木桶を見ただけで、またセリナの胸にしがみついてしまった。

 「きゅううっ!」

 小さな翼がぱたぱたと震える。

 「どうしよう……」

 ルナが困っていると、後ろから穏やかな声がした。

 「ルナや、怖がっている子には、まず安心できる場所を作ってあげるんだよ」

 エマだった。

 手には柔らかな布と、小さな木の器を持っている。

 「きれいにするのは、そのあとさ」

 「おばあちゃん……」

 エマはクロの様子を見て、優しく微笑んだ。

 「ずいぶん小さなお客さんだねぇ」

 「きゅ……」

 「ふふ。そんなに怖がらなくてもいいよ」

 エマは木桶を少し離れた場所へ移した。

 そして、ルナに温かいタオルを渡した。

 「まずはこれを使ってごらん。お湯に入らなくても、少しずつ汚れは落とせるからね」

 「うん!」

 ルナはタオルを受け取った。

 温かいお湯に浸し、しっかり絞る。

 それからクロの前にしゃがんだ。

 「クロ、ちょっとだけ触ってもいい?」

 「……きゅ?」

 クロは不安そうにルナを見つめた。

 ルナは急がず、タオルを持った手をそのまま止めた。

 しばらくすると、クロが小さな鼻先を伸ばしてきた。

 くん、くん。

 「ふふっ。いい匂い?」

 タオルには、ほんの少しだけ草花の香りが移っていた。

 クロはもう一度鼻を鳴らし、それから、そっと前脚を差し出した。

 「触ってもいいんだね?」

 「きゅ」

 ルナはゆっくりと、前脚の泥を拭き取った。

 温かな布が鱗に触れる。

 「きゅる……?」

 クロは不思議そうに首を傾げた。

 「熱くない? 気持ちいい?」

 「……きゅぅ」

 今度は少し、声が柔らかくなった。

 ルナは嬉しくなった。

 「よかった! じゃあ、もう少しね」

 前脚を拭き、背中を拭き、小さな翼の付け根も丁寧に拭いていくと、クロの尻尾がゆっくりと揺れ始めた。

 「おばあちゃん、見て! 嫌がってない!」

 「ほほほ。よかったねぇ」

 セリナも驚いた顔をしていた。

 「信じられません。いつもなら、このあたりで火を噴いているのに……」

 「怖くないって分かってきたんだと思います」

 ルナはクロの頭をそっと撫でると、クロは目を細め小さく喉を鳴らした。

 「きゅるる……」

 「ふふっ。かわいい」

 そのとき、クロの鼻から小さな煙が出た。

 ぽわん。

 「……あ」

 ルナは一瞬身構えた。

 だが、炎は出てこず、煙は小さな輪っかになり、ゆっくりと空中へ消えていった。

 「わぁ! 煙の輪っか!」

 「きゅっ!」

 クロは少し得意そうに胸を張った。

 「もしかして、今のはご機嫌の印なの?」

 「きゅるっ!」

 「あはっ、そんな芸ができるなんて、私も知りませんでした」

 セリナは笑いながらルナに語り掛けた。

 ルナは、小さな木桶をクロの近くへ運び、クロに声を掛けた。

 「クロ、今度はちょっとだけ、お湯に触ってみようか」

 「……きゅ?」

 「嫌だったら、すぐやめるからね」

 ルナは自分の指先をお湯に入れた。

 「ほら。あったかいよ」

 クロはじっと見つめていた。

 そして、おそるおそる前脚を伸ばした。

 ちゃぷん。

 「きゅっ!」

 驚いて前脚を引っ込めた。

 「大丈夫、大丈夫!」

 ルナは笑いながら、もう一度自分の指を入れた。

 「ほらね?」

 クロは少し考えるように首を傾げ、もう一度。

 ちゃぷん。

 「……きゅぅ」

 今度は逃げなかった。

 「できたね、クロ!」

 ルナが褒めるとクロは嬉しそうに尻尾を振ったものだから、それが木桶の縁に当たり、お湯が少しこぼれてしまった。

 「わっ!」

 「きゅうっ!」

 また二人でびっくりした。

 エマが笑いをこらえながら言った。

 「似た者同士だねぇ」

 「もう、おばあちゃん!」

 ルナもつられて笑った。

 それから、クロは少しずつお湯に慣れていき、初めは前脚だけだったのが後ろ脚も入るようになり、やがてお腹まで温かなお湯に浸かるようになった。

 ルナは鱗の状態を確かめながら、ドラゴンにも使える刺激の少ない洗浄液を少量だけ使った。

 細かな泡が黒い鱗の間にふんわりと広がっていき、ドラゴンの周りはほんのりと草花の香りが漂った。

 「どう? 気持ちいい?」

 「きゅるるる……」

 クロはすっかり目を細めていた。

 「ドラゴンには、やっぱりこの洗浄液が合うようね」

 ルナが指先で首の付け根を優しく洗うと、小さな翼がふにゃりと緩む。

 「ふふっ。そこが気持ちいいんだね」

 「きゅぅ……」

 クロはそのまま、木桶の縁に顎を乗せた。

 琥珀色の瞳が、とろんと眠そうになっていく。

 「……あれ?」

 ルナが顔をのぞき込む。

 「クロ?」

 「すぅ……」

 「寝ちゃった!」

 セリナが思わず口元を押さえた。

 「お風呂の中で眠るなんて……」

 エマが穏やかに笑った。

 「安心できた証拠だねぇ。でも、湯冷めしないうちに仕上げてあげよう」

 「うん!」

 ルナはクロをそっと木桶から抱き上げた。

 柔らかなタオルで体を包み、鱗の間に残った水気を丁寧に拭き取っていく。

 小さな翼も、傷つけないように一枚ずつ広げて乾かした。

 最後に、ルナは両手をクロの背中にかざした。

 「《毛並みの祝福》……あ、鱗にも効くかな?」

 淡い光とともに、柔らかな温風が生まれた。

 クロの黒い鱗を優しく撫で、残った湿り気を少しずつ飛ばしていく。

 「よかった。ちゃんと乾くね」

 やがて、クロの鱗は見違えるほど美しくなった。

 漆黒の表面には、磨き上げた黒曜石のような艶がある。

 光の加減によって、わずかに紫色の輝きが浮かんで見えた。

 「わぁ……きれい!」

 ルナは思わず声を上げた。

 「クロ、すっごくかっこよくなったよ!」

 「……きゅ?」

 クロは眠そうに目を開けた。

 そして、自分の前脚をじっと見つめた。

 つるつると輝く黒い鱗。

 クロは不思議そうに首を傾げ、それから嬉しそうに鳴いた。

 「きゅるっ!」

 セリナが目を潤ませた。

 「ありがとうございます、ルナさん。こんなにきれいになったクロを見るのは初めてです」

 「いえいえ! クロが頑張ってくれたおかげです」

 ルナが笑うと、クロは小さな前脚を伸ばしてきた。

 そして、ルナのエプロンをきゅっと掴んだ。

 「……あれ?」

 「きゅぅ……」

 「どうしたの?」

 クロはそのまま、ルナの膝によじ登った。

 丸くなって、頭をルナのお腹に押しつける。

 「えっ、ちょっと、クロ?」

 「すぅ……すぅ……」

 再び眠ってしまった。

 ルナは困ったように笑った。

 「……もう。甘えん坊さんなんだから」

 その様子を見ていたエマが目を細めた。

 「すっかり気に入られたねぇ」

 「でも、おばあちゃん。私、最初はクロがちょっと怖かったんだ」

 「そうだろうねぇ」

 「だけど、クロも怖かったんだって分かったら、不思議と怖くなくなったの」

 エマは静かに頷いた。

 「相手の気持ちを考えることは、大事なことだよ」

 「うん!」

 ルナはクロの頭を優しく撫でた。

 温かくて小さな体。

 ただエマだけが、クロの背中に並ぶ小さな鱗を見てほんの少し目を細めていた。

 「……黒い龍……か」

 「おばあちゃん?」

 「いや、なんでもないよ」

 エマはいつもの笑顔に戻った。

 しばらくして、セリナは眠ったクロを抱き上げた。

 「本当にありがとうございました。またお願いしてもいいですか?」

 「もちろんです! いつでもいらしてください!」

 ルナが手を振ると、クロは半分眠ったまま小さな前脚をひらひらと動かした。

 「きゅ……」

 「ふふっ。またね、クロ!」

 店の扉が閉まると、ルナは大きく伸びをした。

 「はぁ……今日は緊張したぁ!」

 「ほほほ。前髪も少し焦げたしねぇ」

 「もう! それは言わないでよ!」

 エマは楽しそうに笑った。

 その日の夕方。

 二階の台所からは、甘い香りが漂ってきた。

 エマが焼いてくれたのは、ルナの大好物であるホットケーキだ。

 ふっくらと厚く、綺麗に焼けたホットケーキに載ったバターがゆっくりと溶けていく。

 花の蜂蜜をとろりとかけると、部屋いっぱいに優しい甘い香りが広がった。

 「わぁ! おばあちゃん、今日はホットケーキなの!?」

 「頑張ったご褒美だよ」

 「やったぁ! ありがとう! いただきます!」

 ルナはとても嬉しそうな顔をして椅子に腰を下ろし、すぐさまひと口食べると、生地はふわふわ、そして口の中で蜂蜜の甘さが広がった。

 「んんっ! おいしい!」

 「ふふっ。そんなに喜んでもらえたなら、作った甲斐があったよ」

 ルナはしばらく夢中で食べていたが、ふと思い出したように顔を上げた。

 「ねえ、おばあちゃん」

 「なんだい?」

 「今日のクロ、最初はすっごく怖がってたけど、最後にはお風呂の中で眠っちゃった」

 「ああ、そうだったねぇ、ずいぶん気持ちよかったんだろうねぇ」

 ルナはにっこり笑った。

 「私、ああいう顔を見るのが大好き」

 「そうかい」

 「うん。怖がってた子が安心して、そして気持ちよさそうにしてくれると、なんだか私まで幸せになるの」

 エマは優しく目を細めた。

 「それなら、きっといいトリマーになれるよ」

 「えへへ。ありがとう!」

 「ねえ、おばあちゃん。クロはまた来てくれるかな?」

 「きっと来るさ」

 「今度は、最初からお風呂を怖がらないといいなぁ」

 「どうだろうねぇ。あの子は、なかなかの怖がりさんだから。まあ、それでもいいじゃないか。ゆっくり慣れてもらえばいいんだもの」

 「うん! そうだね!」

 ルナは照れくさそうに笑い、残りのホットケーキを食べ始めた。

 甘いホットケーキの香りと温かな笑い声。

 今日も『ルナのハサミ』には、穏やかな一日が流れていた。

 窓から見える「千年樹」の根元には、朝、ルナから肉をせしめたレイグが、満足そうに眠っていた。


(つづく)

 お読みいただきありがとうございました。

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