第1話 いらっしゃいませ、大きな狼さん!
連載作品を書くのは初めてとなります。
魔獣トリミング店を営む少女ルナの、ほのぼのとした日常を楽しんでいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
魔獣と、人や亜人がともに暮らす、小さな国「テルガーランド」。
この国の辺境の街「ミルフェ」、東門からほど近く、石畳の道が緩やかに曲がる一角に小さな二階建ての建物がある。
建物は白い漆喰の壁に赤茶色の屋根で、窓辺には色とりどりの花が飾られ、軒先には『ルナのハサミ』という名前とともにハサミとブラシが描かれた木の看板が風に揺れていた。
魔獣の毛づくろいを専門にする、小さなトリミング屋。
店の前には、ひときわ大きな木が立っており、「ミルフェ」の町ができるよりも前からこの場所に深く根を張っていることから、町の人々は親しみと尊敬を込めて「千年樹」と呼んでいる。
幹は大人が五人で囲んでも手が届かないほど太く、枝は空いっぱいに広がっている。
春には若葉が芽吹き、夏には涼しい木陰を作る。秋には黄金色の葉が舞い、冬には枝に雪が積もる。
その木の下で、一人の少女が元気よく伸びをした。
「んんーっ! 今日もいいお天気!」
少女の名前はルナ・ベルティア。年齢は十六歳。
栗色の髪を後ろで結び、白いエプロンを身につけている。
祖母のエマ・ベルティアから店を引き継いで一年、まだまだ駆け出しだが、魔獣への愛情なら誰にも負けないつもりでいる。
「ルナや、朝ご飯を食べずに仕事を始めるつもりかい?」
二階にある窓から、エマの声がした。
「おばあちゃん! もう食べたよ!」
「パンを一切れかじっただけだろう?」
「……見てたの?」
「見なくたって分かるさ」
祖母のエマ・ベルティアは六十八歳で、長年この店を営んできた腕利きの魔獣トリマーであるが、現在は隠居して、孫の仕事と成長ぶりを見守りながら庭仕事や料理を楽しんでいる。
ルナの両親は、ルナが七歳のとき町を襲った流行り病で相次いで亡くなっており、幼かったルナを引き取り、今日まで育ててくれたのがエマだった。
あのころ、寂しくて泣いてばかりいたルナに、エマはよくホットケーキを焼いてくれた。
ふっくらと焼けた生地に、溶けたバターと花の蜂蜜、その甘い香りを嗅ぐと、ルナは今でも幸せな気持ちになる。
そして、エマの仕事を手伝ううちにルナも魔獣の毛づくろいが大好きになり、店を継ぐことになった。
「お昼にはちゃんと食べるから!」
「はいはい。お腹が鳴って、お客さんを驚かせないようにね」
「もう、おばあちゃんったら!」
ルナは頬を膨らませた。
そのときだった。
「……グルル」
低い唸り声が聞こえた。
ルナが振り向くと、東門の方角から一匹の巨大な狼が歩いてきた。
灰色の毛並み。鋭い牙。大きな前脚。
肩の高さだけでもルナの胸ほどある。
グレイウルフだ。
普通の旅人なら、見ただけで逃げ出してしまうだろう。
だが、ルナが最初に気づいたのは、その恐ろしい牙ではなかった。
「あらら……ひどい毛玉!」
近づいてきた狼をじっくり見ると、首元には枯れ葉が絡まり、背中には小枝が何本も刺さり、そしてお腹の毛は固まってまるで古い絨毯のようだった。
「あなた、森で何をしてきたの?」
「グル……」
狼は困ったように首を傾げた。
「もしかして、毛が絡まって気持ち悪い?」
「ワフッ!」
大きな尻尾が、ぶん、と振られた。
「やっぱり! それなら、うちにいらっしゃい!」
ルナが店の扉を開けると、狼は迷わず中に入ろうとした。
そして。
ごつん。
「……あ」
狼の頭が扉の上枠にぶつかった。
「だ、大丈夫!?」
「クゥン……」
「ごめんね。あなたには、ちょっと入口が小さかったみたい」
ルナは慌てて狼の頭を撫でた。
幸い、けがはない。
「そうだ! 裏庭でやりましょう!」
店の裏には、木柵で囲まれた広い庭がある。
大型魔獣のための洗い場も設けられていた。
ルナが案内すると、狼は素直についてきた。
「じゃあ、まずはお名前を……って、野生の子だよね?」
「ワフ」
「うーん。じゃあ、レイグって呼んでもいい?」
「ワフッ!」
「気に入った? よかった!」
こうして、灰色の大狼はレイグと呼ばれることになった。
ルナは大きなブラシを手に取った。
「さあ、きれいにしようね!」
ところが。
「……あれ?」
ブラシが動かない。
背中の毛が、想像以上に固く絡まっていたのだ。
「うんしょ……うんしょ……」
「グルル……」
「あっ、痛かった? ごめんね!」
レイグは耳を伏せた。
ルナはすぐに手を止める。
「無理に引っ張っちゃ駄目だよね……」
そこで、二階に向かって声を張り上げた。
「おばあちゃーん!」
「なんだい、朝っぱらから」
「ちょっと相談したいの!」
しばらくして、エマが庭に姿を現した。
手には湯気の立つお茶が入った木のカップ。
「おやまあ。立派なお客さんだねぇ」
「グル?」
「ふふ。こんにちは、大きな狼さん」
エマは少しも怖がらず、レイグの背中に手を置いた。
「なるほど。下毛まで絡んでいるね」
「どうしたらいいかな?」
「まずは枝を外して、それから毛束を指でほぐすんだよ。ブラシはそのあとさ」
「そっか!」
「それとね、ルナ」
「なあに?」
「その子のお腹を見てごらん」
ルナがしゃがむと、レイグのお腹には小さな草の実がびっしりついていた。
「うわぁ! こんなところにも!」
「草むらで昼寝でもしたんだろうねぇ」
「レイグ、そうなの?」
「……ワフ」
なぜかレイグは目をそらした。
「ふふふ。図星みたいだね」
エマは笑い、そのあとルナの手に細い櫛を渡した。
「さあ、やってごらん」
「うん!」
ルナは毛束を指で支えながら、少しずつ絡まりをほどいていった。
焦らず、ゆっくり。
レイグが嫌がれば手を止め、気持ちよさそうにしていれば、同じ場所を丁寧に整える。
「よしよし。いい子だね」
「クゥン……」
やがてレイグは、どさりと地面に寝転がった。
「えっ、レイグ?」
「ぐぅ……」
「寝ちゃった!」
エマが肩を揺らして笑った。
「安心したんだろうねぇ」
「でも、まだ半分も終わってないよ?」
「なら、寝かせたままやればいいさ」
「そっか!」
ルナはにっこり笑い、再び櫛を動かした。
しばらくして、絡まった毛がようやくほどけた。
「よーし! 次はお風呂だよ!」
ルナは大きな木桶に温かいお湯を張った。
薪で沸かしたお湯は、熱すぎず冷たすぎず、ちょうどよい温度だ。
指先で確かめてから、柄杓で少しずつレイグの背中にかけていく。
「どう? 熱くない?」
「クゥン……」
レイグは気持ちよさそうに目を細めた。
温かなお湯が背中を伝うたび、固まっていた毛が少しずつ柔らかくなっていく。
ルナは魔獣用の石鹸を手に取った。
ミルフェの近くで採れる薬草と花の香りを使った、エマ直伝の石鹸である。
両手で優しく泡立てると、きめ細かな白い泡がふんわりと盛り上がった。
庭に、春の野原を思わせる柔らかな香りが広がる。
「さあ、レイグ。きれいにしようね」
ルナは泡をレイグの首元にのせ、指先でゆっくりと洗い始めた。
毛の流れに沿って、優しく、丁寧に。
「ここ、かゆかったんじゃない?」
「くぅぅ……」
レイグの後ろ脚が、ぴくぴくと動いた。
「あはは! 気持ちいいんだね!」
ルナが耳の後ろを洗うと、レイグはさらに目を細めた。
大きな口がゆっくりと開き、ふわぁ、とあくびが漏れる。
「もう、そんなに気持ちいいの?」
「ワフ……」
尻尾がゆったりと左右に揺れた。
温かなお湯と優しい石鹸の香りに包まれ、レイグはすっかり安心した様子だった。
ルナはその表情を見て、自然と笑顔になった。
「よかった。最初はちょっと怖そうだと思ったけど、とっても甘えん坊さんなんだね」
「……ワフ」
「ふふっ。照れなくてもいいのに」
洗い終えると、ルナは清潔なお湯で泡を丁寧に流した。
それから大きな布を何枚も使い、毛の水気を取っていく。
「うんしょ……うんしょ……」
ところが、レイグの毛は想像以上に水を含んでいたので、一枚目の布は瞬く間にびしょ濡れになり、二枚目もすぐに重くなる。
「ええっ! まだこんなに濡れてるの?」
ルナは三枚目の布を手に取った。
そこへ、エマが洗濯籠を抱えて現れた。
「おやおや。ずいぶん頑張っているねぇ」
「おばあちゃん! レイグの毛、全然乾かないの!」
「大きな子だからねぇ。ほら、根元からしっかり水気を取るんだよ」
「うん!」
エマは手際よく布を押し当て、毛の間に残った水分を吸い取っていった。
その動きには無駄がなく、ルナは思わず見入ってしまう。
「おばあちゃん、やっぱり上手だなぁ」
「ほほほ。長年やってきたからねぇ」
「私も、いつかおばあちゃんみたいになれるかな?」
「もちろんさ。毎日少しずつ覚えていけばいいんだよ」
エマはそう言って、布をルナに渡した。
「さあ、続きは店主さんのお仕事だよ」
「はいっ!」
ルナは元気よく返事をした。
やがて、十分に水気を取ったところで、ルナは両手をレイグの背中にかざした。
「《毛並みの祝福》」
柔らかな温風が生まれ、灰色の毛並みを優しく撫でていく。
ルナが得意とする生活魔法だった。
毛を傷めない穏やかな風が、残った湿り気を少しずつ飛ばしていく。
レイグは目を閉じ、気持ちよさそうに鼻を鳴らした。
「ふふっ。もう少しだからね」
最後にルナは大きなブラシを手に取った。
毛の流れに沿って、ゆっくりと梳かしていく。
灰色の毛並みはふんわりと膨らみ、柔らかな光沢を帯びていった。
「……できた!」
ルナは額の汗を拭った。
目の前には、見違えるほどふかふかになったグレイウルフがいた。
灰色の毛並みは陽の光を受けて柔らかく輝き、そよ風が吹くたびに、ふんわりと揺れる。
そして、レイグが身じろぎするたび、森の花々を思わせる、ほのかに甘く優しい石鹸の香りが漂った。
「わぁ! レイグ、すっごくかっこいい!」
ルナは思わず、その大きな首元に顔を埋めた。
「それに、いい匂い!」
「ワフッ!」
レイグは嬉しそうに尻尾を振った。
「ふふっ。こんなにふわふわになっちゃって。ずっと撫でていたくなるね」
するとレイグは、もっと撫でてほしいと言わんばかりに、ルナの手へ大きな頭を押しつけた。
「もう、甘えん坊さんなんだから!」
その様子を見ていたエマが、にこにこと笑った。
「上出来だよ、ルナ。毛並みもきれいだし、洗い残しもない。いい仕事をしたねぇ」
「えへへ。ありがとう、おばあちゃん!」
褒められたルナは、嬉しそうに頬を染めた。
ところが、その直後。
レイグが勢いよく体を震わせた。
ぶるぶるぶるっ!
「きゃあっ!」
毛の奥にはまだ水滴が残っていたようで、それが体を震わせたことで四方に飛び散ったのだ。
ルナの顔も、エプロンも、すっかりびしょ濡れである。
「……レイグ~」
「ワフ?」
「せっかく乾かしたのにぃ!」
エマの笑い声が庭に響いた。
「ほほほ! 最後まで油断しちゃいけないよ!」
「おばあちゃん、笑ってないでタオル取ってぇ!」
その日の夕方。
ルナは店の戸締まりをしようとして、ふと足を止めた。
「千年樹」の根元に、灰色の大きな塊があった。
「……レイグ?」
「ぐぅ……」
レイグだった。
すっかりきれいになった毛並みを夕日に輝かせ、気持ちよさそうに眠っている。
「まだいたの?」
「ワフ」
「おうちに帰らなくていいの?」
レイグは一度だけ目を開けた。
そして、また眠った。
「……ここが気に入っちゃったのかな?」
ルナが困ったように笑っていると、エマが玄関から顔を出した。
「ルナや、夕飯だよ」
「はーい! でも、レイグが帰らないの」
「おやおや」
エマは「千年樹」の根元で眠る狼を見て、微笑んだ。
「この木は昔から、旅人にも魔獣にも人気だからねぇ」
「そうなの?」
「ああ。疲れた者が休むには、ちょうどいい場所なんだよ」
ルナはレイグを見つめた。
「じゃあ、また来てもいいよ、レイグ」
「ワフ……」
眠そうな返事が返ってきた。
「ただし! 今度はそんなに泥だらけにならないでね!」
「……ワフ」
少し間のある返事だった。
「絶対、分かってないよね?」
「ほほほ。明日も忙しくなりそうだねぇ」
二階へ上がると、台所には温かな野菜のスープと焼きたてのパンが用意されていた。
薪のかまどからは、まだほんのりと熱が伝わってくる。
ルナは椅子に腰を下ろし、大きく息をついた。
「ああ、疲れたぁ!」
「でも、楽しそうな顔をしているよ」
「うん! レイグ、最後にはすっごくふわふわになったんだ!」
「よかったねぇ」
「それにね、おばあちゃん」
「なんだい?」
「今日、ひとつ分かったことがあるの」
「ほう?」
「大きくて怖そうな魔獣でも、毛が絡まったら困るし、きれいになると嬉しいんだね」
エマは優しく目を細めた。
「そうだよ。どんな子にも、その子なりの困りごとがあるものさ」
「うん。私、もっと上手になりたいな」
「なれるとも。焦らず、一匹ずつ向き合っていけばいい」
ルナは嬉しそうに笑った。
窓の外では、「千年樹」が夜風に枝を揺らしていた。
木の根元から、のんびりとした寝息が聞こえる。
ルナは窓辺に近づき、そっと外を眺めた。
「おばあちゃん、レイグ、まだ寝てるよ」
「そうかい。よほど居心地がいいんだろうねぇ」
「ねえ、おばあちゃん」
「なんだい?」
「私、このお店を継いでよかった」
エマはしばらく黙ってルナを見つめた。
それから、いつもの優しい笑顔を浮かべた。
「……そう言ってもらえると、私も嬉しいよ」
ルナは照れくさそうに笑い、再び食卓へ戻った。
温かなスープをひと口飲むと、野菜の優しい甘みが口いっぱいに広がった。
「ああ、おいしい!」
「ふふっ。おかわりもあるよ」
「やったぁ!」
こうして、ミルフェの町の小さなトリミング屋に、新しい常連客が一匹増えたのだった。
もっとも、その常連客が翌朝、朝食の肉をねだりに来ることを、ルナはまだ知らない。
(つづく)
お読みいただきありがとうございました。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひ、ブックマーク・評価・リアクションをお願いいたします。




