第15話 二人のゲンさんと、いたずらタヌキ
ミルフェの町にも、ついに冬が訪れた。
ここは東門の近くにある魔獣専門のトリミング店「ルナのハサミ」。
店先の大木「千年樹」は白い霜をまとい、すっかりと葉が落ちた枝に止まった小鳥たちが冷たい空気の中で小さく鳴いていた。
◇ ◇
そんな朝、『ルナのハサミ』の店内では、薪の燃える香ばしい匂いが漂うなか、白い小さな魔獣のミクが床の上を跳ねて灰色の狼レイグの尻尾を追いかけていた。
「みゅっ!」
「……ミク。尻尾は獲物ではない」
ミクはぴょんと跳ね、レイグの尻尾を捕まえようとした。
「みゅっ!」
「聞いておらんな」
ルナはその様子を眺めながら作業台に道具を並べていて、ふと、研ぎに出しているハサミが今日あたりに戻ってくることを思い出していた。
ちょうどそのとき。
「おう、ルナ! おるか!」
聞き覚えのある太い声が、扉の向こうから響いた。
「はーい!」
ルナが扉を開けると、そこには立派な髭を蓄えたドワーフの鍛冶職人、ゲンナルデールが立っていた。
分厚い革の前掛けを身につけ、大きな手には布で包んだ細長い箱を持っている。
「おはよう! ゲンさん!」
「頼まれとったハサミじゃ。きっちり研いでおいたぞ」
「どうもありがとう!」
「刃の合わせも調整してある。前より軽く切れるはずじゃ」
ゲンさんが得意げに鼻を鳴らした、その後ろから。
「こんにちはーっ!」
ひょこりと顔を出したのは丸い耳と縞模様の尻尾を持つタヌキ型の魔獣、ヨイドレンだった。
「ヨイちゃん! 久しぶり!」
「えへへ。遊びに来ちゃった!」
ヨイちゃんは元気いっぱいに店へ飛び込んできたのだが、その姿を見てルナは目を丸くした。
「……あれ?」
「なあに?」
「ヨイちゃん、その毛……」
ヨイちゃんの背中には木屑が絡まり、首の周りの毛はあちこちに跳ねており、ふさふさなはずの尻尾もずいぶん形が崩れていた。
「……ずいぶん、もしゃもしゃになったね」
「そう?」
ヨイちゃんは自分の尻尾を振り返った。
ゲンさんが大きなため息をつく。
「こやつ、工房の中を走り回るんじゃ。薪の山に潜り込むわ、木屑の上で転がるわで、朝には煤までつけておったぞ」
「だって、楽しいんだもん!」
「楽しいのはお前だけじゃ!」
ルナは思わず笑った。
「ゲンさん、ヨイちゃんと一緒に暮らして、どう?」
「……静かな朝というものを忘れたわい」
「えへへ!」
「褒めとらん!」
そのやり取りを聞いて、ルナはますます笑ってしまった。
嵐の夜、ゲンさんの家に転がり込んだヨイちゃん。
どうやら今では、すっかり家族の一員になっているらしい。
ルナはしゃがみ込み、ヨイちゃんの毛並みをそっと確かめた。
「ねえ、ヨイちゃん。せっかくだから、綺麗にしていかない?」
「綺麗に?」
「うん。毛を梳いて、伸びたところを整えて。ふわふわにしてあげる」
「えーっ」
ヨイちゃんの耳がぴくりと動いた。
「じっと座ってるの?」
「そうだね。少しの間だけ」
「どのくらい?」
「うーん。毛の絡まり具合にもよるけど……」
「じゃあ、やだ!」
ヨイちゃんはくるりと向きを変えた。
「おい、ヨイ! せっかくルナが言ってくれとるんじゃぞ」
「だって、じっとしてるの、つまんないもん!」
ルナは困ったように笑った。
「じゃあ、楽しくできるように考えようか」
「ほんと?」
「うん。まずは椅子に座って――」
「それなら、捕まえてみて!」
「えっ?」
ヨイちゃんがぴょんと跳ねた。
次の瞬間。
ぽんっ!
白い煙がふわりと広がった。
「……なんじゃ?」
ゲンさんが眉をひそめる。
煙が晴れたとき、そこには。
二人のゲンさんが立っていた。
「ええええっ!?」
ルナは思わず声を上げた。
同じ背丈、同じ髭、同じ革の前掛けをして、どちらも腕を組んで少し顎を突き出している。
「わしの姿に化けるな!」
「わしの姿に化けるな!」
二人が同時に怒鳴った。
「……え?」
ルナは目をぱちぱちさせた。
右のゲンさんが鼻の頭を掻く。
左のゲンさんも鼻の頭を掻く。
右のゲンさんが片足を踏み鳴らす。
左のゲンさんも、同じ足を同じ勢いで踏み鳴らした。
どんっ!
どんっ!
「こら! 真似するでない!」
「こら! 真似するでない!」
声の高さも、怒鳴る調子もまったく同じだった。ルナは思わず笑った。
「あははは、そっくり!」
「ちっとも楽しくないわ!」
「ちっとも楽しくないわ!」
◇ ◇
ルナも真剣にヨイちゃんを特定しようとして、二人の間で視線を行ったり来たりさせたが、どうにもわからない。
「ヨイちゃんは、どっち?」
「こっちじゃ!」
「こっちじゃ!」
「もうっ!」
作業台の下で寝そべっていたレイグが、片目を開けた。
「……騒がしいな」
「レイグ! どっちが本物か分かる?あ、レイグは話せないもんね」
レイグは二人のゲンさんを眺めた。
「……さてな、少なくとも、どちらもよく似た怒り方をしている」
「話してもよかったの?」
「……もう身内のようなものだからな」
その横でミクが、二人の間を楽しそうに走り回っていた。
「みゅっ! みゅみゅっ!」
二人のゲンさんが同時に腰をかがめる。
「おい、踏まれるぞ!」
「おい、踏まれるぞ!」
ミクはますます喜んで、ぴょんと跳ね、ルナは頭を抱えた。
「動きまで一緒なんて……どうしよう!」
そのとき、奥の部屋からエマが顔を出した。
「あらあら。ずいぶん賑やかだねえ」
「おばあちゃん! 大変なの!」
「おや。ゲンさんが二人いるのかい」
エマは驚くどころか、楽しそうに目を細めた。
「なるほどねえ。ヨイちゃんの仕業だね」
「そうなの! でも、どっちが本物か分からなくて」
エマはしばらく二人を眺めたあと、ぽんと手を打った。
「それなら、ちょっとお茶の支度をしようかね」
「えっ? お茶?」
「ふふ。いい考えがあるんだよ」
エマは台所へ戻り、ほどなく小さな盆を持って現れた。
盆の上には、酒を注いだ小さな杯と、焼き色のついた栗のお菓子が載っていた。
甘い栗の香りが、店の中にふわりと広がる。
「さあ、ゲンさんたち。好きな方を一つ、取ってごらん」
二人のゲンさんが顔を見合わせた。
「なんじゃ、急に」
「なんじゃ、急に」
「せーの、で取るんだよ。いいね?」
「おう」
「おう」
エマが微笑んだ。
「せーの!」
右のゲンさんが、迷わず酒の杯を取った。
左のゲンさんが、目にも留まらぬ速さで栗のお菓子をつかんだ。
「あっ!」
ルナが指をさす。
「そっちがヨイちゃん!」
「……しまった!」
栗のお菓子を握ったゲンさんが、慌てて口を押さえた。
ぽんっ!と白い煙が立ち上り、元のタヌキ姿に戻ったヨイちゃんが現れた。
「えへへ……ばれちゃった」
「やっぱり!」
ゲンさんは杯を手にしたまま、豪快に笑った。
「がはは! わしの姿は真似できても、好物までは真似できんかったか!」
「だって、栗のお菓子があったんだもん!」
「それにしても、よくわしの癖を覚えたもんじゃ」
「毎日見てるからね!」
ヨイちゃんは得意げに胸を張った。
「ゲンさん、朝起きると必ず髭を触るでしょ。それから椅子に座るとき、よっこいしょって言うの!」
「……そんなことまで見とるのか」
「あと、お酒を飲む前に、必ず鼻を鳴らす!」
「余計なことは言わんでよろしい!」
ルナとエマは顔を見合わせ、声を上げて笑った。
ヨイちゃんは栗のお菓子をひと口かじる。
「んーっ! おいしい!」
「さあ、ヨイちゃん」
ルナがにっこり笑った。
「お菓子を食べ終わったら、今度こそトリミングしようね」
「……えっ」
「もう逃げちゃだめだよ?」
「……はーい」
ヨイちゃんの耳が、少しだけ垂れた。
口の周りには栗の欠片がついていたので、ルナは笑いながら柔らかな布で拭ってやった。
ヨイちゃんは作業台の上に敷かれた布の上に座り、ルナが櫛を入れると絡まった毛の間から細かな木屑がぽろぽろと落ちてきた。
「わあ……ずいぶん潜り込んで遊んだんだね」
「うん! 工房の薪の山って、秘密基地みたいなの!」
「秘密基地かあ」
「ゲンさんには内緒なんだけどね」
「全部聞こえとるわい!」
ヨイちゃんは舌を出した。
ルナは櫛をゆっくり動かし、絡まった毛を少しずつほぐしていった。
首の周り、背中、尻尾の付け根。無理に引っ張らず、ヨイちゃんが痛がらないように丁寧に整える。
「……ねえ、ルナ」
「なあに?」
「まだ?」
「もう少しだよ」
シュッシュッ
「……まだ?」
「あとちょっと」
シュッシュッ
「……まだ?」
「ヨイちゃん、さっきから三回目だよ」
「だってぇ」
どうにも耐えきれなくなったようだ。ヨイちゃんがもぞもぞと腰を動かす。
そのたびにルナは手を止め、姿勢を直してやらなければならなかった。
「ヨイちゃん。じっとしてたら、早く終わるよ」
「じっとしてるのが、いちばん難しいんだもん」
ゲンさんが腕を組んで頷いた。
「それだけは、わしも同感じゃ」
「ゲンさんも?」
「こやつをじっとさせるのは、曲がった鉄を真っ直ぐにするより難しい」
「えへへ!」
「褒めとらん!」
ルナは笑いをこらえながら、最後の毛先を整えた。
「じゃあ、仕上げだよ」
そっと手をかざす。
《毛並みの祝福》
柔らかな温かい風が、ヨイちゃんの体を包んだ。
ふわり、ふわり。整えられた毛が気持ちよさそうに揺れ、首の周りも尻尾も、見違えるほどふっくらと膨らんでいく。
「……わあ」
ヨイちゃんが目を丸くした。
「なんだか、くすぐったい!」
「もう少しだけね」
温かな風が収まると、ルナは手鏡を差し出した。
「はい、できあがり!」
鏡の中には、丸くふわふわになったタヌキが映っていた。
「……これ、あたし?」
「そうだよ」
「すごーい!」
ヨイちゃんは嬉しそうにくるりと回った。
「ゲンさん! 見て見て!」
「おお、こりゃ見違えたな」
「可愛い?」
「……まあ、悪くない」
「えへへ!」
ヨイちゃんは勢いよくゲンさんに飛びついた。
「ありがとう、ゲンさん!」
「礼を言うならルナに言わんか!」
「あっ、そうだった! ルナ、ありがとう!」
「どういたしまして」
ルナは笑顔で頷いた。
レイグはふさふさになったヨイちゃんを眺め、ぼそりと呟いた。
「……見た目はずいぶん落ち着いたな」
「でしょ?」
「中身もそうなればよいのだが」
「えへへ。それは無理!」
「……だろうな」
ミクがヨイちゃんの尻尾に鼻先を寄せた。
「みゅっ!」
「ミクちゃん、ふわふわでしょ!」
「みゅう!」
二匹はしばらく尻尾を揺らし合い、楽しそうに遊んでいた。
外の風が少し強くなってきたようだ。気が付いたゲンさんが窓の外を見て立ち上がる。
「さて、そろそろ帰るか。暗くなる前に戻らんとな」
「はーい!」
ヨイちゃんは元気よく返事をして、ゲンさんに付いていく。
ルナは研ぎ上がったハサミの箱を大切に抱え、二人を見送った。
「ゲンさん、ありがとう! ヨイちゃんも、また来てね」
「おう!」
「また遊びに来るねー!」
ヨイちゃんは何度も振り返り、ふわふわの尻尾を大きく振った。
初冬の風の中、二人の姿が町の通りへと消えていった。
◇ ◇
その夜、ゲンナルデールの家では、暖炉の薪がぱちぱちと音を立てていた。
工房の火は落とされ、部屋には温かな明かりが揺れている。
ゲンさんは椅子に腰を下ろし、今日の仕事を無事終えたと満足しながら、ゆっくりと肩を回した。
向かいで、ヨイちゃんがじっと彼を見つめていた。
「……なんじゃ?」
「研究してるの」
「研究?」
「もっとゲンさんそっくりになる研究!」
ぽんっ!と白い煙が立ち上り、もう一人のゲンさんが現れた。
「どうじゃ! わしじゃ!」
「……またそれか」
ヨイちゃんは腕を組み顎を突き出し、ゲンさんと同じように椅子へ腰を下ろす。
「よっこいしょ!」
「……そんなに似せんでもよかろう」
「でも、昼間は見破られちゃったもん」
「栗の菓子を選んだからじゃ」
「そう! だから、今度は好物も同じにするの!」
ヨイちゃんの視線が、テーブルの上に置かれた酒瓶へ向いた。
「ゲンさんは、いつもお酒を飲むでしょ?」
「おい、待て――」
ゲンさんが立ち上がるより早く、ヨイちゃんは杯に残っていた酒を、ちびりと口に含んでしまった。
「……うにゃ?」
その顔が、みるみる赤くなる。
「……ゲンしゃん」
「なんじゃ!」
「……おへやが、ぐるぐるしてるぅ……」
ぽふんっ!
変身が解けた。
ふわふわのタヌキに戻ったヨイちゃんが、椅子の上でころんと丸くなる。
「こらっ! 酒なんぞ勝手に飲むでない!」
「……だってぇ……ゲンしゃんみたいに……」
「姿だけで十分じゃ! 酒まで真似する必要はない!」
ゲンさんは酒瓶を片づけると、水を用意してヨイちゃんのそばにしゃがんだ。
「ほれ、少し水を飲め」
「……はぁい」
ヨイちゃんは小さく舐めるように水を飲み、ゲンさんはその様子を確かめ深くため息をついた。
「まったく。何をしでかすか分からんやつじゃ」
「……怒った?」
「少しな」
「……ごめんなさい」
「分かればよい」
ゲンさんはヨイちゃんをそっと抱き上げ、暖炉から少し離れた寝床に寝かせた。
昼間、ルナに整えてもらった毛並みは、まだふわふわのままだった。
毛布をかけてやると、ヨイちゃんは薄く目を開けた。
「……ゲンしゃん」
「なんじゃ」
「……あしたも、いっしょ?」
ゲンさんは大きな手でヨイちゃんの頭を撫でた。
「当たり前じゃ。ここはお前の家じゃろうが」
「……えへへ」
ヨイちゃんは安心したように目を閉じ、やがて小さな寝息が聞こえ始める。
ゲンさんはしばらくそばに座り、その寝顔を見守っていた。
「……まったく。静かな夜というものを忘れたわい」
そう呟きながらも、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
暖炉の火が、二人の影を壁に長く映していた。
◇ ◇
一方、そのころ。
『ルナのハサミ』でも、穏やかな夜が訪れていた。
夕食を終えたルナは、暖炉のそばで明日の仕事の支度をしていた。
研ぎ上がったハサミを布で丁寧に拭き、箱へ戻す。
その少し離れた場所ではレイグがいつものように横になり、ふさふさの尻尾の上には白い小さなミクが丸くなっている。
「みゅ……」
ミクは尻尾に鼻先を埋め、眠そうに目を細めた。
「……今日はずいぶん騒がしかったな」
レイグが低い声で呟く。
「ふふ。ヨイちゃん、元気だったね」
「元気すぎる。あれが二匹いたら、俺は森へ逃げる」
「でも、楽しかったでしょう?」
「……否定はせん」
ルナは小さく笑った。
「ゲンさんも、なんだか楽しそうだったね」
「あのドワーフは、口では文句を言っておるがな」
「うん。ヨイちゃんのこと、大切にしてるんだと思う」
「……そうだろうな」
やがて、ミクの小さな寝息が聞こえ始め、レイグは起こさないように尻尾をほんの少しだけ丸めてやる。
ルナはその様子を眺め、優しく微笑んだ。
「レイグも、すっかり子守り上手になったね」
「……誰のせいだと思っている」
「ふふ。誰だろうね」
「みゅぅ……」
眠ったままのミクが、小さく鳴いた。
レイグは何も言わず、その背中に尻尾をそっと寄せた。
窓の外では、初冬の風が枝を揺らしている。
けれど、店の中は暖かかった。
ルナは暖炉に薪を一本足し、二匹を見つめた。
「……おやすみ、レイグ。ミク」
「……ああ」
「みゅ……」
薪が小さくはぜた。
初冬の長い夜。
ミルフェの町では、今日もそれぞれの家に、温かな明かりが灯っていた。
(つづく)
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