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第14話 最後のおめかしと、暖炉のぬくもり

今日は日曜だから、もう一話アップします。

 秋が深まり、ミルフェの町を吹き抜ける風にも冷たさが混じり始めた。

 東門の近くにある魔獣専門のトリミング店「ルナのハサミ」。

 店先の大木「千年樹」からは、色づいた葉が一枚、また一枚と舞い落ちている。

 その日の午後、ルナは店の窓辺で洗い終えた櫛を布で拭いていた。

 足元ではレイグが昼寝をしており、その大きな尻尾に顔を埋めているのは、もちろんミクだ。

 「みゅう……」

 小さな寝息に、ルナは思わず微笑んだ。

 「ふふ。気持ちよさそう」

 「……俺の尻尾は寝床ではないのだがな」

 レイグが目を閉じたままつぶやいた。

 「でも、動かさないであげてるんだね」

 「動かすと、こいつが起きる」

 「優しいね、レイグ」

 「……静かに昼寝がしたいだけだ」

 そんなやり取りをしていたときだった。

 からん。

 入口の小さな鐘が鳴った。

 「いらっしゃいませ!」

 ルナが顔を上げる。

 けれど、扉の向こうに人の姿はなかった。

 「あれ?」

 視線を下げると、一匹の猫が立っていた。

 薄茶と白のブチ模様。少し長めの毛は、ところどころ絡まり以前の艶を失っている。

 背中もわずかに丸まっているが、琥珀色の瞳には不思議な落ち着きがあった。

 「こんにちは、猫さん」

 ルナはしゃがみ込んだ。

 「一人で来たの?」

 猫は静かにうなずいた。

 そして、少しかすれた声で言った。

 「……こちらで、毛を整えていただけると聞いたのですが」

 「えっ?」

 ルナは目を丸くした。

 人の言葉を話す魔獣だが、レイグと暮らしているおかげか、以前ほど驚かなくなっていた。

 「はい! もちろんです」

 ルナは優しく微笑んだ。

 「どうぞ、入ってください」

 猫は小さく頭を下げた。

 「ありがとうございます。私はカインと申します」

 「私はルナ。よろしくね、カインさん」

 カインはゆっくりと店の中へ足を踏み入れ、その姿をレイグが静かに見つめていた。

      ◇             ◇

 「ずいぶん長く生きているようだな」

 レイグの声をきき、カインは少し驚いた顔をした。

 「おや。狼殿も人の言葉を?」

 「……必要なときだけな」

 「それは賢明です」

 カインは穏やかに笑った。

 ルナは作業台の上に柔らかな布を敷いた。

 「カインさん、ここに乗れる?」

 「……少々、難しいかもしれません」

 「じゃあ、抱っこしてもいい?」

 「お願いします」

 ルナは、カインの体を両手で支え、そっと持ち上げた。

 猫はルナが思っていたより軽く、骨ばった背中が手のひらに伝わる……作業台に降ろすと、カインは静かに座った。

 「今日は、どんなふうにしたい?」

 ルナが尋ねた。

 カインは少し考えてから答えた。

 「できれば、若いころのように。毛並みを美しく整えていただきたいのです」

 「うん。分かった」

 ルナは櫛を手に取った。

 「絡まっているところもあるから、少し時間がかかると思うけど、痛くないようにするね」

 「よろしくお願いします」

 ルナは背中の毛を指で分け、絡まりを確かめた。

 長い年月を重ねた毛は細く、ところどころ乾いていて、無理に引っ張れば皮膚を傷めてしまうだろう。

 ルナは毛の根元を優しく支え、毛先から少しずつ櫛を入れた。

 しゃっ……しゃっ……。

 静かな音が、店の中に響く。

 「……気持ちがよいものですね」

 カインが目を細めた。

 「よかった」

 「昔は、自分で毛づくろいするのが得意だったのですが」

 カインは小さく笑った。

 「最近は、背中に舌が届かなくなりましてね」

 「そうなんだ」

 「高い棚にも、もう飛び乗れません」

 ルナは手を止めず、静かに耳を傾けた。

 「若いころは、店の一番高い棚が私の特等席でした」

 「お店?」

 「ええ。私の飼い主は、町で魔道具屋を営んでいるのです」

 カインの声が、少しだけ明るくなった。

 「ケーシーという気のよい女性でしてね。もうずいぶん年を取りましたが、今でも毎朝、店の戸を開けるときには鼻歌を歌うのですよ」

 「素敵な人なんだね」

 「ええ。少々、頑固ですが」

 カインは懐かしそうに目を細めた。

 「昔は、私が棚から魔道具を落とすたびに、よく叱られたものです」

 「ふふ。いたずらっ子だったんだ」

 「若気の至りというものです」

 レイグが鼻を鳴らした。

 「今ではずいぶん上品そうに見えるがな」

 「年を重ねれば、多少は落ち着くものですよ、狼殿」

 「……俺はまだ若い」

 「それは結構」

 カインは小さく笑い、ルナもつられて微笑んだ。

 けれど、次にカインが口にした言葉は、静かで重いものだった。

 「……実は、今日はお願いがあって参りました」

 「お願い?」

 「ええ」

 カインは窓の外を見つめた。

 黄色い葉が、風に乗って舞い落ちている。

 「私は、もう長くはありません」

 ルナの手が止まった。

 「……え?」

 「自分の体のことです。分かるのですよ」

 カインは穏やかに続けた。

 「食べる量も減りました。眠っている時間が増え、足も思うように動きませんので、そろそろお別れのときが近いのでしょう」

 ……店の中が静かになり、レイグも、何も言わなかった。

 カインはゆっくりと顔を上げた。

 「私は、ケーシーの前から姿を消そうと思っています」

 「……どうして?」

 「最期の姿を、あの人に見せたくないのです」

 カインは自分の前脚を見つめた。

 「長い年月、あの人と暮らしてきました。楽しいことも、つらいことも、たくさんありました」

 その声には、深い愛情がこもっていた。

 「だからこそ、最後に覚えていてほしいのは、元気で美しかった私の姿なのです」

 カインは静かに微笑んだ。

 「今日、綺麗にしていただいたら、一度だけあの人に姿を見せて……そのあと、森へ行こうと思っています」

 ルナは何も言えなかった。

 手の中の櫛が、少しだけ重く感じられた。

     ◇

 ルナはしばらく黙っていて、やがて、そっと櫛を置いた。

 「……カインさん」

 「はい」

 「一つ、聞いてもいい?」

 「もちろんです」

 「ケーシーさんのこと、大好きなんだよね」

 カインは迷わずうなずいた。

 「ええ。何よりも大切な人です」

 「だから、悲しませたくないんだよね」

 「……そのとおりです」

 ルナはカインの背中を優しく撫でた。

 「でもね……」

 少しだけ、言葉を探した。

 「私、思うんだけど……」

 窓の外で、風が木の葉を揺らした。

 「もちろん、大好きな人が目の前で亡くなったら、とても、とても悲しいと思う」

 カインは黙って聞いていた。

 「でも、ある日突然いなくなって、どこへ行ったのかも分からなくて……」

 ルナは小さく首を振った。

 「最後のお別れもできなかったら、そのほうが、もっと辛くて、悲しいんじゃないかな」

 カインの琥珀色の瞳が、わずかに揺れた。

 「……私は、あの人を悲しませたくないのです」

 「うん。分かるよ」

 ルナは静かにうなずいた。

 「でも、カインさんがいなくなったら、きっと悲しいよ。どんなに綺麗な姿を見せても、それは変わらないと思う」

 「…………」

 「だったら……」

 ルナは優しく微笑んだ。

 「最後まで、一緒にいてあげてほしいな」

 カインは目を伏せた。

 「……あの人は……私の最期を見届けることに耐えられるでしょうか」

 「きっと、悲しいと思う」

 ルナは正直に答えた。

 「でもね。カインさんがそばにいてくれた時間まで、悲しいものになるわけじゃないよ」

 その言葉を口にしたとき、ルナの胸に、幼いころの記憶がよぎった。

 もう会うことのできない父と母、優しく笑ってくれた顔、そして温かな手。

 あの日々を思い出すと、今でも胸が痛むことがあるが、幸せだった時間まで消えてしまったわけではない。

 ルナはカインを見つめた。

 「ケーシーさんは、カインさんと過ごした時間を、きっと宝物みたいに思ってる」

 「……宝物」

 「うん。だから、最後まで一緒にいてあげて。大好きな人のそばで」

 カインは長い間、何も言わなかった。

 やがて、ぽつりとつぶやいた。

 「……私は、少し臆病になっていたのかもしれません」

 「臆病?」

 「ええ。あの人を悲しませたくないと言いながら……」

 カインは小さく息を吐いた。

 「本当は、あの人の悲しむ顔を見るのが、私自身、怖かったのでしょう」

 ルナは何も言わず、その丸まった背中を撫でた。

 「……長く生きたつもりでしたが、まだまだ教わることがありますね」

 カインは顔を上げた。

 「ルナさん」

 「なあに?」

 「もう一度、綺麗にしていただけますか」

 「……うん!」

 ルナは笑顔で櫛を手に取った。

 「とびきり男前にしてあげる!」

 カインは、少し照れたように目を細めた。

      ◇             ◇

 それから、ルナは時間をかけてカインの毛並みを整え、絡まった毛を少しずつほぐしていった。

 汚れたところは温かい布で優しく拭い、カインの体に負担がかからないように何度も休憩を挟んだ。

 レイグはその間、静かに伏せていた。いつもなら皮肉の一つも言いそうな狼だったが、今日は何も言わなかった。

 ミクも、いつの間にか目を覚ましていた。

 「みゅ……」

 小さな白い魔獣は、作業台の下からカインを見上げている。

 カインは優しく目を細めた。

 「可愛らしい子ですね」

 「ミクっていうの。まだ赤ちゃんなんだ」

 「そうですか」

 カインは小さく笑った。

 「若い命というのは、眩しいものですね」

 ミクは首をかしげた。

 「みゅ?」

 ルナは最後に、カインの背中へ手をかざした。

 《毛並みの祝福》

 ふわりと温かな風が、薄茶と白の毛を優しく包んだ。

 柔らかな毛が軽く持ち上がり、ふっくらと整っていく。

 ルナは仕上げに櫛を通し、満足そうにうなずいた。

 「はい。できあがり!」

 カインは自分の前脚を見つめた。

 薄茶と白の毛が、柔らかな光を受けて輝いている。

 「……おお」

 小さな声が漏れた。

 「まるで、若いころに戻ったようです」

 「ふふ。とっても素敵だよ」

 「ありがとうございます」

 カインは深々と頭を下げた。

 「これなら、胸を張って帰れます」

 ルナは優しく微笑んだ。

 「ケーシーさん、きっと喜ぶよ」

 「……ええ」

 カインはゆっくりとうなずいた。

 「私も、そう思います」

 ルナはカインを抱き上げ、床へそっと下ろした。

 カインは一歩、また一歩と扉へ向かった。

 その足取りは相変わらずゆっくりだったのだが、来たときよりも晴れやかに見えた。

 「ルナさん」

 扉の前で、カインが振り返った。

 「はい?」

 「あなたに出会えて、よかった」

 ルナは胸が温かくなるのを感じた。

 「私もだよ、カインさん」

 カインは小さく頭を下げた。

 「では、失礼します」

 「気をつけて帰ってね」

 からん。

 扉の鐘が鳴った。

 薄茶と白の小さな背中が、秋の夕暮れの中へ消えていった。

      ◇             ◇

 カインを見送ったあと、ルナはしばらく扉の前に立っていた。

 レイグが隣へやってきた。

 「……よかったのか?」

 「え?」

 「あの猫の決心を変えたことだ」

 ルナは少し考えた。

 「……分からない」

 正直な答えだった。

 「でも、私だったら、最後まで一緒にいたいと思うから」

 「そうか」

 レイグは静かにうなずいた。

 ルナはしゃがみ込み、その大きな頭を撫でた。

 「ねえ、レイグ」

 「なんだ?」

 「もしレイグがおじいちゃんになったら、私が毎日ブラッシングしてあげるね」

 「……今でも十分やっているだろう」

 「もっと丁寧にしてあげるよ」

 「それなら、肉も増やしてくれ」

 「どうしてそうなるの!」

 「老狼には栄養が必要だ」

 「もうっ!」

 ルナは思わず笑ってしまった。

 レイグもどこか満足そうに目を細めた。

 ミクは再びレイグの尻尾にじゃれついている。

 「みゅっ!」

 「……こら。今は引っ張るな」

 「みゅう!」

 ルナはその様子を眺め、優しく微笑んだ。

 いつか、別れの日は来るのだが、それは誰にも止められない。

 だからこそ、今、一緒にいられる時間を、大切にしたい。

 ルナはあらためてそう思った。

      ◇             ◇

 その夜、ミルフェの町の片隅にある、小さな魔道具屋。

 店の明かりはすでに落とされ、奥の部屋では暖炉の火が静かに燃えていた。

 ぱちり。

 薪のはぜる音が、柔らかく響く。

 ケーシーは、暖炉の前のロッキングチェアに腰を下ろしていた。

 銀色の髪を後ろで束ね、膝には古い毛布をかけており、その膝の上には一匹の猫がいた。

 薄茶と白のブチ模様の美しく整えられた毛並みが、炎の光を受けて柔らかく輝いている。

 「……カイン」

 ケーシーは目を細めた。

 「今日はずいぶん、男前なんじゃないか」

 「にゃあ」

 カインは小さく鳴いた。

 「ふふ。若いころを思い出すねえ」

 ケーシーの節くれだった指が、カインの背中をゆっくりと撫でた。

 「昔は、あんなに高い棚まで飛び乗って……魔道具をいくつ壊したことか」

 「にゃ……」

 「でもねえ」

 ケーシーは微笑んだ。

 「お前がいてくれたから、この店もずいぶん賑やかだったよ」

 ごろごろと小さな喉の音が響く。

 ケーシーは暖炉の炎を眺めながら、ゆっくりと椅子を揺らした。

 「……これからも、こうして一緒にいようね」

 カインは、そっと顔を上げた。

 長い年月をともに過ごしてきた、大切な人。

 少し皺の増えた顔、昔と変わらない優しい声。

 カインはその手に、そっと頬を寄せた。

 「にゃあ……」

 ケーシーは嬉しそうに微笑んだ。

 「ふふ。いい子だね、カイン」

 ロッキングチェアが、静かに揺れる。

 ゆらり。

 ゆらり。

 暖炉の炎が、二人を温かく照らしていた。


(つづく)

 お読みいただき、ありがとうございました。

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