第16話 勇敢なイノシシと、怖いブラシ
ミルフェの町に、初冬の冷たい風が吹いていた。
『ルナのハサミ』の店先に立つ「千年樹」はすっかり葉を落とし、枝の間を抜けた風が積もった枯れ葉をからからと転がしていった。
◇ ◇
店の中では薪ストーブの火がぱちぱちと音を立て、乾いた木の香りが漂っている。
白い小さな魔獣ミクが、床の上を跳ね回っていて、その目当ては灰色の大狼レイグの尻尾である。
「みゅっ!」
「ミク、レイグが寝てるから、あんまり邪魔しちゃ駄目だよ」
「みゅ?」
ミクは首をかしげた。
レイグは薄く片目を開けたが、すぐに閉じてしまった。
「ふふっ。今日も平和だね」
ルナは微笑みながら、作業台にブラシや櫛を並べていた。
そのときだった。
コンコン。扉を叩いたあと、腹の底に響くような声が聞こえてきた。
「すまん! ここが魔獣の手入れをしてくれる店か!」
「はーい! いらっしゃいませ!」
ルナが扉を開けると、そこには背の高い男が立っていた。
年の頃は三十代前半。
日に焼けた顔に使い込まれた革鎧。肩には大きな荷袋を担ぎ、腰には剣を下げており、いかにも冒険者といった風貌だった。
「俺はロイド・フォーリー。三十三歳だ。冒険者をやってる。テイマーってやつだな」
「私はルナです。今日はどんなご用件でしょう?」
「実はな、相棒の手入れを頼みたくて来たんだ」
「相棒さん?」
「ああ。俺の従魔だ」
ロイドは振り返り、通りに向かって大声を張り上げた。
「バット! こっちだ!」
どすん。
どすん。
地面を踏み鳴らすような音が近づいてきた。
そして、戸口に姿を現したのは、大きなイノシシだった。
「わあ……!」
ルナは思わず声を上げた。
普通のイノシシより二回りほど大きな体。がっしりとした胴体を黒褐色の剛毛が覆い、口元からは立派な牙が二本、上向きに伸びている。
「ブフッ!」
「よしよし、いい子だ、バット」
ロイドが首筋を撫でると、バットは嬉しそうに鼻を鳴らした。
「この子がバットくんですね」
「ああ! 俺の自慢の相棒だ!」
ロイドは胸を張った。
「戦いになりゃ、こいつはすごいぞ。俺が号令をかけたら、どんな敵にも勇敢に向かっていく。何度命を助けられたか分からん」
「頼もしいんですね」
「そうなんだ! ところがな……」
ロイドの顔が曇った。
「ブラッシングだけは駄目でさ、俺がブラシを持つと逃げるわ暴れるわで大騒ぎだ」
「ブラッシング、ですか?」
「ああ、魔物相手には一歩も引かねえくせにな」
「不思議ですね」
「だろう? だから、専門家に頼もうと思ってな」
ルナはバットを見た。
大きな鼻をひくひくさせ、店の中の匂いを嗅いでいる。見慣れない場所に少し緊張しているようだが、ロイドのそばから離れようとはしない。
「まずは、毛の状態を見せてもらってもいいですか?」
「もちろんだ!」
ルナはバットのそばにしゃがんだ。
「こんにちは、バットくん。ちょっと触らせてね」
「ブフ?」
ルナがそっと肩のあたりを撫でると、バットは嫌がる様子を見せなかった。
むしろ、もう少し撫でてほしそうに鼻を寄せてくる。
「ふふっ。人懐っこい子ですね」
「そうだろう!」
ロイドは嬉しそうだった。
しかし、ルナが毛をかき分けると、ところどころに土や枯れ草が入り込み、剛毛が固まっている部分が見つかった。
「ずいぶん野山を走り回っているんですね」
「ああ。森も山も一緒だからな。泥だらけになることもしょっちゅうだ」
「なるほど……」
ルナは少し考えた。
「ロイドさん。いつも使っているブラシを見せてもらえますか?」
「おう、これだ」
ロイドは荷袋から一本のブラシを取り出した。
木製の柄は手垢で黒ずみ、毛を梳かす部分には長年使い込まれた跡があった。
「こいつで、こうやって――」
ロイドがブラシを構えた瞬間。
「ブヒィッ!」
バットが飛び上がった。
「お、おい! まだ何もしてねえぞ!」
バットは身をひるがえし、店の出口へ向かって猛然と駆け出した。
「わっ! 待って、バットくん!」
ルナが声を上げる。
そのとき。
のそり。
店の隅から、灰色の大きな影が立ち上がった。
レイグだった。
大狼はゆっくりと戸口へ歩み出ると、逃げてくるバットの真正面に立った。
そして、じっと見据えた。
鋭い金色の瞳が、バットを捉える。
「……ブ、ブヒ?」
バットの足がぴたりと止まった。
立派な牙を持つ巨体が、まるで地面に根を張ったように動かない。
レイグは唸りもしなかった。
ただ、見ているだけだった。
「す、すげえ……」
ロイドが目を丸くした。
「俺が呼んでも止まらねえのに、一睨みで止めちまった……」
「レイグ、ありがとう。でも、あんまり怖がらせちゃ駄目だよ」
ルナが声をかけると、レイグはふん、と鼻を鳴らした。
それから、何事もなかったように店の隅へ戻っていった。
「いやあ、恐ろしい狼だな……」
ロイドが感心したように呟いた。
ルナは苦笑した。
「普段は昼寝ばかりなんですけどね」
それから、ロイドの手にあるブラシへ目を戻した。
「……あれ?」
ルナは眉を寄せた。
「ロイドさん、そのブラシ、ちょっと見せてください」
「ん? ああ」
受け取ったブラシを窓辺へ持っていき、陽の光にかざす。
ルナは先端を注意深く確かめた。
そして、表情を曇らせた。
「ロイドさん……」
「どうした?」
「このブラシ、先が割れています」
「割れてる?」
「はい。ほら、ここです」
ルナが指差した先には、何本もの先端が裂け、鋭く尖った部分があった。
「長く使っているうちに傷んでしまったんですね」
「……そうなのか?」
「これで強く梳かしたら、皮膚に刺さったり、毛が引っかかったりして痛いと思います」
ロイドは目を見開いた。
「痛い……?」
「はい。しかも、バットくんの毛は硬くて密集していますから、無理に引っ張ると余計に痛いはずです」
ルナはブラシをそっと置いた。
「バットくんは、ブラッシングそのものが嫌いなんじゃないかもしれません」
「……じゃあ」
「痛い思いをするのが怖かったんだと思います」
ロイドは黙り込んで古いブラシを持ち上げ、その尖った先端をじっと見つめた。
「……俺が、痛くしてたのか」
その声は、先ほどまでの威勢のよさが嘘のように小さかった。
バットは少し離れたところで、じっとロイドを見ていた。
「俺は……」
ロイドは言葉を探すように口を開いた。
「こいつを、大事にしてるつもりだったんだ」
ルナは黙って耳を傾けた。
「前にな、バットが大怪我をしたことがあってな」
ロイドはバットの背中を見つめた。
「魔物との戦いで、俺をかばってくれたんだ。ひどい傷で、何日も立ち上がれなかった」
「そんなことが……」
「ああ。療養用の檻に入れて、傷が治るまで休ませたんだが……」
ロイドは少し照れくさそうに笑った。
「俺も、ずっとそばにいたくてな。檻の前に干し草を敷いて、そこで寝たんだ」
「干し草の上で?」
「そうだ。寝返りを打つたびに、あちこち痛くなったがな」
ロイドは肩をすくめた。
「バットが苦しそうに鳴くと、すぐ目が覚めた。水を飲ませたり、体を撫でたり……何かしてやりたくてな」
バットが、ぶふ、と小さく鼻を鳴らした。
「こいつは俺の相棒だ。道具でも、荷物でもねえ。家族みたいなもんなんだよ」
ロイドはブラシを見下ろした。
「なのに、こんなもんで痛い思いをさせてたとは……」
ルナは首を横に振った。
「ロイドさんがバットくんを大切にしていることは、ちゃんと伝わっていると思います」
「そうかな……」
「はい。だって、バットくんはロイドさんに撫でられると、とても嬉しそうですもの」
ルナは微笑んだ。
「ただ、ブラシが痛いことだけは、言葉で教えられなかったんですね」
ロイドは、はっとしたように顔を上げた。
それから、バットの前にしゃがみ込んだ。
「……悪かったな、バット」
大きな手が、そっと鼻先に触れる。
「お前、ずっと我慢してたんだな」
「ブフ……」
バットはロイドの手に鼻を押しつけた。
ロイドは何度も、その鼻先を撫でた。
「よし!」
しばらくして、ロイドが立ち上がった。
「ルナ! 俺に、ちゃんとした手入れの仕方を教えてくれ!」
「はい! もちろんです!」
ルナは棚から新しいブラシを取り出した。
「まず、ブラシは毛の硬さや長さに合ったものを選びます。それから、力任せに梳かさないことが大切です」
「ふむふむ」
「絡まっているところは、少しずつ。皮膚を引っ張らないように、優しくほぐします」
「なるほど!」
ロイドは真剣な顔で頷き、その表情はまるで難しい剣術を教わっているかのようだった。
「では、まず私がやってみますね」
ルナはバットのそばにしゃがんだ。
「バットくん。今度は痛くしないからね」
「ブフ?」
新しいブラシが近づくとバットの体がびくりと震えた。逃げようとして一歩後ずさったが、ルナは無理に追いかけなかった。
「大丈夫。怖かったら、少し待とうね」
ルナはブラシを下ろし、空いた手で首筋を撫でた。
ロイドも隣にしゃがみ込んだ。
「バット。俺もここにいるぞ」
バットはロイドを見上げた。
それから、ルナを見た。
「……ブフ」
ようやく、少しだけ体の力を抜いた。
ルナは毛の流れに沿って、ゆっくりとブラシを動かした。
さっ、さっ、と優しい音が響く。
バットの耳がぴくりと動いた。
さっ、さっ。
「……ブフ?」
痛くなく、それどころかなんだか気持ちがいいらしく、バットは不思議そうな顔をしている。
「どうかな、バットくん?」
「ブフゥ……」
バットは目を細め、ロイドが息を呑んだ。
「おお……!」
ルナは少しずつ、土や枯れ草の絡まった部分をほぐしていった。
硬い剛毛の間から細かな汚れが落ち、黒褐色の毛並みに艶が戻ってくる。
「すげえ……あんなに嫌がってたのに」
「痛くなければ、気持ちよく感じる子も多いんですよ」
「そうだったのか……」
やがて、ルナはブラシをロイドに手渡した。
「では、ロイドさんもやってみましょう」
「お、俺が?」
「はい。バットくんにとって、一番安心できるのはロイドさんでしょうから」
ロイドはごくりと唾を飲んだ。
「よ、よし……」
ロイドがブラシを握ると、その手に妙な力が入っていることにルナは気づいた。
「ロイドさん、剣を持つときとは違いますからね、そんなに強く握らなくても大丈夫ですよ」
「あ、ああ! そ、そうだな!」
ロイドは深呼吸して、そして、そっとブラシを動かした。
「ブフ」
バットは逃げなかった。さっ、さっ。それどころか、気持ちよさそうに目を細めている。
「ブフゥ……」
「……ルナ」
「はい?」
「俺がブラシを持ってるのに、こいつ逃げねえぞ」
ロイドの顔がゆっくりとほころんで、ルナも微笑んだ。
「ふふっ。よかったですね」
「おお! よかったなあ、バット!」
ロイドは嬉しさのあまり、思わずバットの首に抱きついた。
「ブヒッ!」
「わっ! ロイドさん、急に抱きついたらびっくりしますよ!」
「おっと、すまん!」
二人が笑うと、バットも満足そうに鼻を鳴らした。
ひととおり手入れを終えたバットは見違えるほど綺麗になり、ロイドは何度もバットの背中を撫でた。
「いやあ、立派になったなあ!」
「もともと立派な子ですよ」
「そうか! そうだよな!」
ロイドは豪快に笑った。
◇ ◇
ロイドは新しいブラシの代金を支払い、大切そうに荷袋へしまった。
「これからは、ちゃんと道具も確かめる。手入れの仕方も忘れねえ」
「はい。バットくんの様子を見ながら、少しずつ慣らしてあげてくださいね」
「ああ! 本当にありがとう!」
ロイドは深々と頭を下げた。
「戦い方ばっかり考えてたが、相棒の気持ちを分かってやるのも、テイマーの仕事なんだな」
「きっと、そうですね」
「よし! 帰るぞ、バット!」
「ブヒッ!」
ロイドは店の前で振り返り、大きく手を振った。
「また来るぜ、ルナ!」
「はい! お待ちしています!」
二人の姿が、初冬の町並みの向こうへ遠ざかっていき、ルナはしばらくその背中を見送っていた。
◇ ◇
「よかった。バットくん、これから少しずつブラシに慣れてくれるといいな」
店の隅ではレイグがいつもの場所に戻り、前脚を伸ばして伏せていた。
ルナがそばにしゃがむとレイグは片目だけを開けた。
「レイグもありがとう。バットくんが逃げ出したとき、助かったよ」
「でもね、あんまり怖い顔をしちゃ駄目だよ。バットくん、すっかり固まっていたんだから」
「……フン」
レイグは鼻を鳴らし、ルナはくすりと笑った。
「ふふっ。だけど、レイグもブラッシングは好きだものね」
そう言いながら、灰色の背中を優しく撫でると、レイグの尻尾が、ぱたん、と一度だけ床を叩いた。
「みゅ!」
いつの間にか近づいてきたミクが、ルナの膝によじ登ろうとしていた。
「あら、ミクも撫でてほしいの?」
「みゅ、みゅ!」
「はいはい。順番ね」
初冬の柔らかな陽射しが、店の床に長い影を落としていた。
ルナはレイグの背中を撫でながら、ふと思った。
魔獣たちは、人間の言葉を話せなくても、いろいろなことを伝えようとしている。
嬉しいことも、怖いことも、痛いことも……それに気づいてあげるのが自分の仕事なのだろう。
「……これからも、ちゃんと聞いてあげなくちゃね」
ルナが小さく呟くと、レイグは満足そうに目を細めた。
そして、いつものように昼寝を始めた。
◇ ◇
数日後。
ミルフェの町から離れた森の奥では、ひと足早く冬が訪れていた。
木々の枝には白い雪が残り、地面にもうっすらと雪が積もっており、冷たい風が枝を揺らすたび、細かな雪がさらさらと舞い落ちた。
そんな森の中で、冒険者ロイド・フォーリーは剣を構えていた。
その隣には、黒褐色の毛並みを持つ大きなイノシシ型魔獣がいる。
バットだ。
目の前では、凶暴な魔物が牙を剥いていた。
だが、バットは一歩も引かない。
太い四本の脚で雪の積もった大地を踏みしめ、低く鼻を鳴らす。
ロイドは相棒をちらりと見た。
「よし、バット。行くぞ!」
「ブヒィッ!」
ロイドは剣を高く掲げ、声を張り上げた。
「バット、突撃!」
その号令とともに、バットは地面を蹴った。
どどどどっ!
白い雪を蹴散らしながら、黒褐色の巨体が一直線に魔物へと駆けていき、その勢いは、まるで岩が転がり落ちるようだった。
勇敢なイノシシ、バット。
怖いものがなくなったわけではないが、戦いが終わったあとに待っているブラッシングが少しだけ楽しみになっていた。
(つづく)
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