お前のこと
ボー…… 鍋を置いたガスコンロが小さく音を立てていた。
鍋の中で温められているミルクは小さく気泡を立てている。
俺はそれを見て、ヘラで鍋の中を軽く混ぜた。
混ぜた瞬間は気泡は空気に溶け、消えてしまう。だがすぐ、鍋の端に無数の気泡が生まれ、集まる。
しばらくすると、ミルクの表面を白い膜が覆う。すると間もなくボコッと音がして膜が膨らみ破裂した。
俺は火を止め、2つのマグカップに注いだ。
コトコトコトコト……
蒸気と液体が混ざったような、少しこもった音を立て、白い液体が注がれていく。
俺はこの音が好きだ。
大釜から出来上がった薬を一つ一つ小瓶に詰めていくときも同じような音がする。
あの瞬間は、言葉にできないさみしさと、何にも代えることのできない胸が満たされる感覚にウルは包まれる。
それは丹精込めて作り上げ薬たちが、自分の手を離れ、旅立つ瞬間だと考えているから。今まで大釜で煮たりすりつぶられたりした素材たちが一つになり、己の使命を持ったものが小瓶という場所に割り当てられる。そして誰かに使われ、その役目を果たす。
俺はミルクを注いだマグカップを手に取り、ハルミのいる2階へと向かった。
二階に上がると、開けっ放しの部屋からハルミの姿が見えた。
彼女は少し落ち着いて泣き止んだようだった。ベッドの上で布団に包まりながら座っていた。隣には涙や鼻水を拭いたティッシュで小山が出来ていた。
「大丈夫か。」
俺はハルミに声をかけながら彼女の隣に座った。
そして持ってきたマグカップの一つを手渡した。初め、彼女の様子を見たときは正直驚いてしまった。でも、よくよく考えてみると当たり前のことだと思った。平常心でいられたことの方がおかしい。
「これでも飲め。ミルクは飲むと落ち着く効果がある。」
ありがとう、ハルミは小さな声でそう言ってミルクを一口、口に運んだ。そして、ふうと息をついた。
「おいしい。」
ハルミはそう言って少し微笑んだように見えた。
俺はその様子を見て、こいつはなんて強い心の持ち主なのだろうかと感心しえずにはいられなかった。あの時、命を終わらせようとしていたとはいえ、しばらく一人で生き抜いたであろう数日は想像しただけで胸が詰まる。それでいてよくわからない人間に保護されるようになったのだから、もっと混乱していいはずなのに。
俺はそう考えながら話を切り出す。
「それで……獣人ってのはどんな生活をしていたんだ?話していて辛いことは話さなくてもいいから。」
俺がなぜこんなことを聞いたのかというと、単に興味があったから、というのもあるが、少しでもハルミを理解したかったという思いが強かったからだ。
自分の仲間が周りに誰もいないこの状況で、少しでも彼女のことを知って、なにか助けになることがあればと考えていたこともある。
ーーなぜここまでするのか。
それは最近心の中で度々問い続けていることだ。
正直、今なお自分でもはっきり分からない。ただ、なんとなくそうした方がいいという思いと、そして、ハルミが少し自分と重なる部分があるような気がするから、かもしれない。
「私達家族は、森で暮らしていた。」
そう俺が考えている間にハルミはぽつぽつと話し始めた。
「森の中には私達の集落があるの。」
「人間と似たような家がたくさんあって、小さい集落ではあったけれど、みんな協力しながら生活をしていた。」
「うん。」
俺は相槌を打つ。
「集落では村長さんがリーダでいろいろなことを取りまとめていた。あとは食料の森の木の実や果物だったり、たまに亡くなった動物がいた場合は、それも持ち帰る役割の人たちもいた。その動物は、命に感謝して、みんなで供養するために調理して食べる。」
「え、ということは、それ以外は肉は食べないのか。」
「うん。基本的にはそう。魚はたまに食べるけれど、畑でとれた作物が中心だった。けれど、ほとんど人間と同じ食べ物だと思う。パンとかの加工品もあったし。」
「パンもなのか。それに農業も……?」
「当たり前でしょ。原始時代じゃないんだから。」
ハルミはそう言って頬を膨らませた。
「ごめん。俺たち人間は、獣人族の知識があまりにもないみたいだ。」
俺はそう言って謝った。
「……今話したように、私達は、全くもって野蛮でも、獰猛な種族でもない。」
「うん。確かに、そうだと思う。人間の方がこれだと獰猛かもしれない。」
「え?どういうこと?」
俺は少し言葉を考えてから、こう続けた。
「……人間はいちいち命に感謝だとかなんだとか、そういうことを大事にしないやつも多い。それに、人間以外には、心がなくなったような態度を平気でとる。ほかの動物をこき使ったり、殺したり……そういうことを平気でするんだ。」
「.......」
お前がよく知っているように……俺はそう独り言のようにつぶやいた。
ふと、一つ疑問だったことを思い出し、俺は口を開いた。
「そういえば、前から気になっていたんだが、俺は森によく薬の材料を取りに行くんだ。でも、お前たちの集落なんて見たこともない。」
本当は、ハルミの後を追ったとき、彼女の姿がすぐに消えてしまったことの方がずっと疑問に残っていた。しかしもちろん、そんなことは口が裂けても言えないので、集落について聞いてみることにした。このことと、あの時のことは少し関係があるかもしれないと思ったからだ。またこれも不思議に思っていたことであるのは同じなので、嘘ではない。
ハルミはそれを聞いて、ふふ、と少し笑った。
「それは、人間には決したどりつけないような結界が張られているからよ。」
「結界?」
「そう。」
「山のヌシ様が作られた結界よ。」
「山のヌシって?」
俺は突然出てきた‘‘山のヌシ‘‘というワードに戸惑った。しかも、結界だなんて。俺たち薬術師もやりようによっては結界を作る技術、そして結界を作れる者としての、結界の存在に気づく感覚がある。だからこそ、完全な結界を作り出す難しさをよく知っている。
結界は作ることが出来ても、維持には物凄い魔力が必要で、さらにその存在すら気づかれないように他者を排除できるものだなんて、俺には想像もつかなかった。
「うーん。私は見たことがないのだけれど、噂によると、光輝くシカ、みたいな姿をしているんだって。」
ハルミもよくわかっていないという様子で首をかしげながらそう教えてくれた。
それを聞いて俺は笑った。
「光輝くシカ?なんだそれ。聞いたこともないぞ。本当に存在するのかよ。」
そんな聞いたこともない魔力と技術の持ち主が光輝くシカというのだ。にわかに信じがたい話だと思った。
ハルミも笑った。
「さあ、誰も見たことがないの。でも、言い伝えられていて、ヌシ様は森に生きる生き物すべての守護神さまなんだって。」
「へえ、獣人の世界にも、神様みたいな存在がいたんだな。」
それからしばらく、俺たちは話し込んだ。
気が付けば窓の外は真っ暗になっていた。
晩御飯は俺が作った。
他人にご飯をふるまったのは何年ぶりだろう、いや、何年振りどころか、初めてだった。
ハルミはおいしそうに俺の料理を食べてくれた。
その時の笑顔を見て、俺は少しだけハルミとの距離が縮まったような気がした。
おやすみーー
自室まで彼女を送って自分も寝室に行き、静かに眠りについたのだった。
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